海と断崖
皇帝の住まうイリヤ城は、海に面した断崖の上に立っている。断崖の下にはこじんまりとした〈風と波の宿〉という皇室所有の館があり、皇子や皇女たちの遊び場でもあった。イリヤ城の城壁の外で、唯一リリィがお咎めを受けずに行ける場所だ。〈風と波の宿〉の横には〈兵舎〉が並んで建っていた。かなり大きく、皇帝直属の兵士たちを数千人ほど収容できる。
皇女の一番の話し相手はメアリーだ。控えめな性格のリリィとは対照的に、強気の野心家である。二人の友情に首を傾げる者もいた。リリィは内気で臆病、人目にさらされるのは苦痛でしかない。一方、メアリーは社交的で、どのように振る舞ったら人を魅了できるのかわかっていた。正反対の二人だが、テレパシーのようなもので通じあっているのだ。
季節は春。黄昏時、皇女と侍女は〈風と波の宿〉の一室でもの思いに耽っていた。小さな窓からは夕日と海と、兵士たちが見える。訓練ではなく、遊びで泳いでいるのだ。
「海で泳ぎたいわ」
リリィが頬杖ついて言う。
「泳ぎに行けばいいのに」
メアリーが眠たげな瞼で言った。
「行けないわ。お母様にもターナー先生にも禁止されているもの。兵隊たちと鉢合わせでもしたら、一生お父様に顔向けできないでしょ」
リリィはそう言いながらも、母や家庭教師の言いつけを守るのが、アホらしくなるのだった。特にこういう暖かい部屋でまどろんでいる時は……。
「行けないなんてことないわ」
メアリーがくいさがる。
「きれいね。本当にきれいな眺め。こんなに切実な想いってないわ。でも誘惑しないでちょうだい」
リリィはあまりの美しさジンと胸が熱くなって、湿った声を出した。メアリーが隣を見ると、皇女は夢見心地の目をして、遥か遠くを見つめている。
「あら、私は乗り気なのに」
メアリーは相方が消極的なのにうずうずした。リリィったら、いつでも慎重派なのだ。人の言いなりになってばかりで。行動しない理由をあれこれ考えているうちに、おばあちゃんになってしまうに違いない。
「乗り気ですって。ねえ、あなただって海に入ったらいけないわ。まだ春で寒いし、あなたのお好きな兵隊さんたちと一緒に遊ぶわけにはいかないもの。ちょっと向こうみずが過ぎることはないかしら」
リリィが皮肉を込めて言う。おませな親友に水をさしてやろう、と意地悪な考えが頭をもたげたのだ。
メアリーはすぐさま反撃した。
「たかが兵士よ。こちらと話す権利だってないのよ。そんな子たちが私達に何かできると思う?怖がってないで泳ぎに行きましょうよ。ドレントじゃ、花嫁に結婚前に川の上流から下流までひと泳ぎさせるそうよ。泳がなきゃ持参金を倍支払わないといけないの。イリヤの皇女の花婿候補はまずドレントから、じゃなかったかしら」
「出鱈目言わないでよ。ドレントには私の花婿候補なんかいないわ。王ならもう妃がいるし、王子は幼過ぎて結婚にはむかないし。それにね、花嫁が溺死するような慣習を続けるほど、ドレント人は馬鹿じゃないわ」
リリィもやり返す。
「あら、あたし嘘なんて言ってないわ」メアリーがムキになって言い返した。「王子だって十年後には成人してる。花嫁が泳ぐって、アレックスがそう言ってたのよ。あなたのお兄様が間違ったことを言うと思う?」
メアリーはしつこかったけれど、リリィは《《てこ》》でも動かなかった。今となってはもう海に入りたくもない。
夕空はどんどん暗くなり、あっという間に日が暮れた。まばらではあるが、海辺には兵士たちがまだ残っている。リリィは相方の不機嫌そうな顔を見て、暗澹たる気持ちになった。さっさと城の私室に引き返して夕食を食べたい。でもこの分では、メアリーは明日の朝までへそを曲げたままだろう。
「いいわ。誰かさんが意地でも外に出ないっていうなら、私一人で行くもの」
メアリーがいきなりそう言うと、立ち上がって出ていこうとした。リリィは慌てて引き止めようとする。気が変わって兵隊たちを館の中に引き入れようとするかもしれない。一度など、寝室に庭師の息子を入れられたことがあった。あの時の恐怖と恥ずかしさときたら、もう思い出したくもないほどだ。
「あなたが父の兵隊たちと口を聞くのなら、私お城に帰るわよ。アビゲイルにも言う。まったく、恥を知りなさいよ」
リリィが怒ってメアリーの腕をつかんだ。
「痛いわよ!」
メアリーは叫ぶと、軽蔑しきったような表情を浮かべて、リリィの手を振りほどいた。
リリィは親友の怒りに燃える瞳を見るなり、一気に疲れが押し寄せてくるのを感じた。
この人は皇女が泣こうが嬲ろうが、己の主張を曲げないのだろう。メアリーは無情にも、この世の全ての騎士どころか、古今のあらゆる英雄を見下すような顔つきを崩さない。
蔑むような、冷淡な表情はメアリーを魅力的に見せた。頬が紅潮し、瞳はめらめらと燃え上がる。艶やかな金髪を手で振りはらい、黒い大きな瞳でこちらを睨んでくる。唇は真っ赤で、それがまた色っぽいのだった。
喧嘩する度にメアリーの魅力と美しさを思い知る。そしてメアリーには敵わない、と悲しい思いをするのだ。
リリィだってメアリーに負けず劣らず美しかった。月夜の森に現れたら妖精の女王と見紛うほどだろう。腰までのびた漆黒の髪に、透き通るような肌。瞳の色は薄く、朝は淡い緑に夜は灰色に変わる。唇は薄いが均整の取れた形をしていた。ほっそりとした体つきは優美で、男たちの視線を吸いつける。
問題は容姿の美醜ではなかった。色気があったのだ。その上、メアリーの魅力は官能以上のものでもあった。黒い瞳は暗いユーモアと気概を備えており、一度見たら生涯忘れることはない。明るい金髪。豊かな胸に見事なくびれ。姿勢はよく、歩き方も美しい。メアリーだって、あまりに色っぽい自分の体が嫌になることもあった。しかし、魅惑的な体を修道女か罪人のように、覆い隠すのはもっと我慢のならないことである。派手好きなメアリーらしく、体の曲線を際立たせるようなドレスを着るのが常だった。
リリィにだってメアリーに嫉妬せずにいるのは難しい。メアリーには溌剌とした魅力があった。だが、リリィにはない。喧嘩の後に、敗北感を感じるのはきまってリリィの方だった。それに、皇女の地位だってメアリーの方が相応しい。少なくともメアリーなら人前に出てもリリィのようにオドロオドロすることはないはずだ。
メアリーは皇女を置いて館の外へ出て行ってしまった。外はもうすっかり夜である。侍女の帰りを待つつもりはなかった。崖の上のお城に帰るのだ。