天文台の塔の上で
アレックスは約束通り、密会の場所に天文台を選んだ。天文台は〈皇帝の宮〉や〈皇妃の館〉から遠いので人目につきにくい。
護衛役の従者エドとは天文台の下で合流した。エドは文字通りリリィをお姫様扱いする。うやうやしい青年だ。
天文台の上には白くまるい月が浮かんでいた。兄に付き添われて螺旋階段を登ってゆく。上にたどり着くまでに、とてつもなく長い時間が過ぎたような気がした。
天文台はイリヤ城の中でもっとも高さのある塔である。リリィは一度も足を踏み入れたことがなかった。そもそも人の出入りが滅多にない建物である。下仕えの者も勝手に入ることはできない。掃除や身の回りの世話はもっぱら学者の弟子たちが担当していた。噂によると、天文台には世捨て人の天文学者がいるらしい。リチャードがその天文学者を《《敵》》から匿っているという話もある。
「アレックスの先生に会うの?もしかして夜中にしか起きてないのかしら」
リリィが鈴の音のような声を出した。
アレックスの家庭教師の一人がその学者だった。だがら二人は天文台に立ち入ることができるのだ。教師の専門分野を考えれば、皇子が夜更けに訪ねてきたとしても不思議はない。
「いや、生憎だけど、僕の先生は男だ。それに間違っても父は魔女を僕の家庭教師に雇わない」
アレックスが正論を言う。
「じゃあどんな人なの?名前は?」
リリィは好奇心を抑えられなかった。眠気が取れてきたのだ。
「魔女は魔女です、姫君」
傍からエドが言った。
「でも魔女にだって名前があるでしょう?」
リリィは納得できなかった。エドの言い分では何の説明にもならない。
「リリィ、魔女には名前はないんだ。もしあるとしたら、罪なき人から盗んだ名前だ」
アレックスが断固とした口調で言った。リリィもそれ以上追及しない。兄の厳しい声に驚いたのだ。
三人は階段の一番上まで来ていた。リリィはエドの手をぎゅっと握った。エドは果敢にもリリィに笑いかけて、手を離さないでいてくれる。
塔の上は吹きさらしだった。天井もなく、四方の壁もない。
満天の星が空に輝いていた。夜風が吹いている。昼間なら、この塔の上からイリヤ城の全景や海と断崖、〈王の森〉やさらにその先まで見えたことだろう。だが、夜の景色もなかなかの絶景だった。満天の星々に、赤い断崖と黒く光る海、海、海……。海がどこまでも続いている。海は鋭利な黒曜石のナイフのようだった。
「魔女が来るまで少し時間がある。眺めを楽しもう」
アレックスが言う。
リリィは壮麗な眺めに胸が熱くなった。言葉も出ないくらい……
天文台の中央には、灰色の、ざらざらとした石造りの望遠鏡が設置されていた。リリィは物珍しさに兄のそばを離れて駆け寄る。
望遠鏡は巨大だった。六歳のリリィの七倍ほどの幅と高さがある。天文学者のその弟子たちは天体観測に夜な夜なやってくるのだ。星空をのぞき込むには、この巨大な望遠鏡の中に入って、さらに階段を三段上がらなければならない。
不意に背後で扉の開く音がした。魔女の到着だ。アレックスとエドの顔に緊張が走った。
魔女は二人の衛兵に囲まれていた。アレックスが手配しておいた案内係である。魔女の顔は目深にかぶった頭巾でまともに見えない。
「妹だ。丁重に扱うように」
アレックスが前に進んで言う。
「噂の皇女だね」魔女がしわがれた声で切り出した。「まるでお姫様だ。優しいお兄さまと衛兵たちに囲まれてね。きれいな瞳をしているよ。罪のない澄んだ瞳だ。この瞳は皇帝にも皇妃にも似ていない。アレックス、あんたにも似ていないが……」
アレックスは魔女の曖昧な物言いに顔を険しくした。得体の知れない人物に謎かけされるのは不愉快なものだ。
「リリィ、こっちにおいで。そう男たちに囲まれていては、碌に話もできない。あんたの小さいきれいな手を貸してくれないかね」
リリィは兄たちを振り返った。アレックスがうなずく。恐る恐る魔女に近づいて手を差し出した。しぼんだ目がこちらをのぞく。恐ろしかった。両の目の色が違ったのだ。黄色と黒色。妖しげに光って、一時もリリィから視線を逸らさない。獲物を前にした猟人のように。
思いがけず、老婆の手は湿っていた。
「あなたが魔女?」
リリィが聞く。予想した通りの姿ではあった。吟遊詩人の詩や童話に出てくるような魔女である。
慄いていたはずが、魔女の目を見ると恐怖がしぼんでいってしまった。もう怖くない。それどころか、不揃いの目を見ると、ずっと前から友達だったような気さえする。リリィは言葉を交わす前から魔女に共感し、すっかり信じ切ってしまった。
「魔女だとも、お嬢さん。悪いことはしないがね」
しゃがれ声で答える。
「もちろん、貴方が悪いことなんでするはずないわ。だって、あなたと私は友だちなんですもの。私、あなたが大好き。ところであなた、名前はなんて言うの?」
リリィが息を弾ませて言う。俄然頬が赤みを帯びた。
魔女は表情のない顔でしばしの間、リリィを見つめた。何かをためらっていたのだ。
老婆は身振りでリリィにもっと近くに寄るよう伝えた。
「今日は教えられない。こんな大勢いてはね、全然だめだよ。だがいい。お姫様はこのわしとまた会うだろうからね」
魔女が耳もとで囁いた。
リリィが身震いして魔女を見つめた。
アレックスは《《お姫さま》》をエドと共に先に寝室へ帰した。妹が魔女に魅了されているのに気づいて、耐えられなくなったのだ。
リリィは帰る道すがら何度も魔女の方を振り返った。胸が張り裂けそうなほど悲しく、切なかった。
「また会えるよ。皇女さま」
振り返るたび、魔女が片手をあげる。
妹が天文台からいなくなった途端、アレックスは魔女に詰め寄った。一体妹に何をしたのか、洗脳でもしたのか。それとも怪しい魔術でも施したのか。
魔女は一瞬よろめいた。戦い盛りの若者に攻撃されては太刀打ちのしようがない。
「魔術なんて。そんなものしていないよ。あの子には見えないものを見抜く力がある。あんたと違って、目が澄んでいるのさ」
魔女はそう言うと不敵の笑みを浮かべた。
アレックスはその晩に目当ての秘薬を受け取った。リリィには二度と会わせないと言ったが、魔女に気にするような気配はない。これからは皇女を魔女から守らなければならない。魔女に近づくことのないように。
朝起きるとメアリーの枕元に小瓶が置いてあった。飛び上がってりんごの木の下に行く。アレックスが木の上で悠然として笑みを浮かべていた。