ジャック少年
リリィたちの部屋に毛布を運んできてくれた少年は清潔な衣類も都合をつけて調達してくれた。これでもう血の匂いも嗅がなくていいし、寒さに凍えなくていいのだ。
少年はジャックと言って、好奇心旺盛な上におしゃべりだった。
「それで、王の船で何があったんですか?どうせ卑怯者のイリヤ人どもの仕業だろうけど!」
ジャックが言う。
リリィの持っていた血まみれの短剣を興味津々に見つめていた。
「そんなわけないわ」フラニーが即座に否定する。「きっと海賊の仕業よ」
リリィはフラニーにこっそりと説明しなければならなかった。この前、ヘレナから手紙が届き、リリィを解放しなければ船ごと襲って皆殺しにするという知らせがきたこと。エズラは知らせてもリリィの一人芝居だと思ってまともに取り合わなかった。仕方ない。リリィは以前エズラのもとから逃げ出したことがあるのだ。
エズラに知らせなくてもよかった。そうしたら船の兵士たちは皆殺しになり、リリィは母のもとへ、イリヤへ帰れただろう。
「兄は殺されるべきだったわ」
フラニーはぶかぶかの男物のチュニック姿で言った。
「あなただって故郷に帰れた。あんな人殺しもいなくなってね」
「エズラに情なんかうつらないけれど、あなたは違うのよ。母のやり方はあまりに残酷だわ。私のせいで血を流すなんて耐えられない」
リリィが言う。
「呆れた人ね。今からだって遅くないわ。見張りもいない。あなたが行くと言ったら、私も一緒についてくわ」
フラニーが息をつめて言った。
レネーと共に帰ってきたメアリーを、アレックスは驚いて迎えた。むろん彼はレネーが帝都に来ていることを知らない。メアリーが自分への情熱のあまり帰ってきてしまった、と思ったのだ。
「ヘレナに会いたいの。テリー公は本当に皇太后の犯行だと思っているの?」
メアリーはどこからともなくアレックスの書斎に現れる。
アレックスはちょっと感心して言葉を失っていた。彼女を抱きたい、と思う。今ここで、服を脱がし、愛撫して、あえがして。
メアリーは旅の汚れを清めて、襟ぐりが大胆なほど深いドレスを着ていた。胸元で無数の小さな宝石が光っている。
「会いたければ会えばいい。君にならヘレナも何か漏らすかもしれない」
アレックスがそう言ってメアリーの唇に指先を走らせた。
〈嘆きの塔〉はロマンチックだ。ロマンチックでもの悲しい。はるか昔の声なき女たちの涙が壁にしみこんでいる。王たちの横暴や自分たちの罪のない夢のために幽閉された女たちのささやき声が壁から聴こえる気がしたものだ。
メアリーは赤ら顔の斧をもった男に塔の鍵を開けてもらうと長い長い螺旋階段をのぼった。ほこりくさい場所だ。一番上の部屋からハープの音が聴こえてくる。
ヘレナは数人の侍女に囲まれて詩をたしなんでいた。悠然とかまえていたが、レネーの名前を聞くと顔色が変わる。彼女はメアリーにトンプソンという男に会うように言った。片目の男だ。
「レネーはエズラ打倒のために力を貸してくれるなら、あなたがここから出れるよう尽力すると言っていました」
メアリーが去り際に言う。
アレックスとの逢瀬との後、頭の中で「結婚しなければならない」という声がした。これからますます危険になるはずだ。誰かに守ってもらわないと……。
メアリーはひさしぶりに膝をついて祈った。強く生きられるように、みなの幸福を、アレックスとリリィの無事を。父が自分を愛してくれるようにと。