皇帝の愛人
「本当に行かなければならないのか?」
彼はメアリーが別れを告げようと書斎を訪れるとそう言った。悩ましげに紙の束を放り出して。
真夜中。若き皇帝は兵棋演習用の駒をにらんでいた。寝ないで作戦を練っていたのだ。
「どうしてもよ。父のそばにいたいの」
メアリーが答える。
アレックスはリー・トマスにそんな価値はないと言いそうになった。だが、娘のメアリーにそんなこと言うべきではない。
「屋敷の奴隷と、鋭い峰がトマス卿を守ってくれないか?」
彼が言う。
「そのはずよ。でも有事になれば父はあなたに従って戦場に行くの。父に私の守りは必要ないわ。そうじゃなくてね、私、父のことを知らないの。何か決定的なことが起こる前に家族で一緒に過ごしていたいのよ」
メアリーらしくない。アレックスは蝋燭のあかりに透き通って輝く彼女の肌を見つめた。見事だった。エル城にひっこむにはもったいないほどに。
「メアリー、ここには君の望むものすべてがあるんだ。君が望むならずっとここにいていい。もし僕に遠慮しているならエル城に行くのはやめてくれ」
アレックスが言う。
「噂があるわ、私とあなたの。たとえ噂だとしても、あなたの愛人にはなれない。それともあなたを愛すべきかしら?」
メアリーはそう言ってしまうと、あとじさりした。
遊ぶような口調だった。彼に暗示をかけるような。
「愛人になるのか、僕の?」
アレックスが恍惚とした表情で言う。
「それか皇妃になるか。それとも他の男のものになる?」
女がささやいた。
「メアリー、君とは結婚できない。わかってくれ。僕は皇帝なんだ」
アレックスが拝むようにして言った。
「それなら、私を他の人と結婚させて。立派な土地があって頭がよくて野心家で、ハンサムな男とね。ジョンが求婚してきたのよ。彼には土地はないし、野心家かどうかも怪しいけれどね、私きっとジョンと結婚すべきだわ」
メアリーがアレックスの肩に触れて言う。
「メアリー、君を愛してる。他の誰とも結婚しないでくれ。そう約束してくれ」
アレックスが懇願した。
「約束なんてできない。父は私を誰かと結婚させるつもりかもしれない。そうなったらトマス卿だってせいせいするでしょうね。でも私、あなたを愛してるわ。今この瞬間、それだけは本当よ」
メアリーはそう言うとガウンを脱いでアレックスを見つめた。露わになった白い胸を、まるい腰を、彼が見つめる。メアリーは彼の手をとり、唇にキスした。
二人はその晩お互いを知った。メアリーは処女を初恋の相手に捧げたのだ。
箱馬車に揺られ、イリヤの大地を走ってゆく。あまりに揺れがひどいものだから頭痛がした。もしかしたら、昨夜あまりに彼を「愛しすぎた」せいかもしれない。
メアリーは微笑み、窓から顔を出した。
「やあ、お嬢さん」
ビリーがさりげなく馬車に近寄ってきて言う。
ジゼルが不審そうに眉をひそめた。
「あらビリー。それにしても、どうして父はあなたを雇ったのかしら。それにあなたが昔からエル城にいたなんて知らなかった」
メアリーがすました顔で言う。
「お嬢さまは使用人とは一緒にいなかったでしょう?残念なことだけれど。とにかくトマス卿と皇太后殿下にあなたの安全を任されたんです」
ビリーという人は変だった。どうして使用人だと言うのに〈兵舎〉で戦士を目指していたのだろう?それにどうして帝都に来ても父に仕えているのだろう?
しかし気にしないことにした。ビリーはユーモアがあって気の利く青年だ。今のメアリーにはそれで十分だったのだ。