別れの宴
誰に指示されるわけでもなく、寂しい父の城に帰ろうとしたのは戦争が近いからだ。ヘレナは思いとどまるように言う。ジョン・トルナドーレとの縁組をすすめたほどである。
「母后さまがあなたとの婚約をすすめたのよ。信じられるかしら?」
メアリーが〈兵舎〉のジョンの部屋に侵入してくるなりそう言った。
「それじゃ俺は君と明日にでも結婚するのかい?」
ジョンが慌てて部屋の扉や窓を閉めながら言う。
「明日ですって?ウージェニーはどうするの?」
メアリーはジョンをからかった。ジョンがウージェニーに興味がないことは宮廷の誰もが知っていることだ。
「どうにもできないさ!彼女と結婚しなければ俺は一文無しだ。うちの爺さん狂ってる」
ジョンが嘆いてみせる。
「そう?」
メアリーはそう言ってジョンの剣の柄に手を滑らせた。まるで関心がなさそうだ。
ジョンが息をつめてメアリーの首筋を見つめる。メアリーは美しかった。赤く薄いくちびるからは白いきれいな歯がのぞいている。目は七変化だ。気分によってクルクルと変わる。
「メアリー、君が結婚するって言ってくれたら爺さんの財産も地位も放棄する。戦争でいい土地が手に入るはずだ……!」
ジョンが夢中になって言った。
「だめよ、結婚するなんて言わない。あなたのこと、愛してないんですもの。私だけのためにすべて捨てるなんて言わないで」
メアリーが厳しい声で言う。
ジョンはメアリーの瞳の中に狐が駆けてゆくのを見たような気がした。鋭い何かが目を捉えたのだ。
「今愛してくれなくてもいい」
ジョンが口走る。
不意にメアリーの顔つきが変わった。女のヒステリックな声が聴こえたのだ。
「まずいわ!私、ある令嬢とその母親の恨みをかっているの。あの人たちにここにいることを暴露されたら、身の破滅だわ。ジョン、逃げ道は知らない?」
ジョンは口笛をふいた。窓が開き、男の顔がのぞく。メアリーと同じかそれよりも若いかくらいの年の青年だった。漆黒のクルクルとした巻き毛と鋭い眼光が魅力的だ。いたずらっぽい、退廃的な目がこちらを見ていた。
「窓をでて、ビリーについてけ。抜け道を知ってる」
ジョンはメアリーが窓を飛びこえるのに手を貸してくれた。
「災難だったな。〈兵舎〉にあんな頭の狂ったおばさんが来るなんて」
ビリーが下町を歩きながら言う。
「ええ。あの人、私のこと尾けてきてたのよ。以前、娘さんの婚約者をからかったの。そうしたら彼がのぼせあがっちゃってね。婚約はおじゃんになったわ。だがら、あの人は私の人生もスキャンダルでおじゃんにしたいわけ」
メアリーが悪びれずに言った。
「そう、じゃ、君が噂のメアリー嬢ってことか。〈兵舎〉では君に恋してる連中もいる。海辺によく出るだろう?」
ビリーが言う。
メアリーは曖昧な笑みを浮かべてビリーを見つめた。
「じゃあ、お仲間に私からお別れを伝えておいて。そろそろ父の城に帰るの。会えなくなるわね」
ビリーはちょっとためらってから、道中メアリーの護衛をすることになったのだと、伝える。メアリーは改めてビリーを見た。何か人の目を惹きつける青年だ。胸騒ぎがした。
出発する前に、〈風と波の宿〉で別れの宴を開いた。ジュリア・テディアに皇太后、ジョンなど、ごく内輪のお別れ会である。メアリーはなぜかビリーをこの集まりに呼んでしまった。
「ヘレナは何かしでかすつもりですよ。メアリー、陛下にそう警告しておいてほしいわ。あの方はヘレナに甘い」
ジュリアが寄ってきて言う。
メアリーは適当に聞き流した。皇帝と親しいと聞いて、寄ってくる者が大勢いるのだ。
夜になったらビリーと一緒に下町に散策へ行くつもりだ。それまでは女主人としての役割を果たさねば。