運河を流れて
旅は続き、婚礼船は運河を流れてゆく。リリィは夜に獣皮の毛布にくるまり、暖をとるのが好きだった。ベッドの中にいれば安全なような気がするのだ。たとえ、この世に安全な場所などひとつもないとしても。
エズラと結婚してから足首の見える短いスカートをはくようになった。民衆に同調する意向を示す服装である。リリィは自分の細い足首が剝き出しになるのが嫌だった。恥ずかしいし不恰好だ。だがエズラは気にいったらしい。それも妻が政治的な面でも考えを同じくしているから、というよりも、単にそのすっきりと細い足首から目が離せなくなったためだろう。理由がどうであれ、夫の機嫌がいいのはよいことだった。頼る人もいなく、エズラや民衆の怒りに怯えていたのだ。
夫の何気ない動作におびえるたび、ギーの言葉を思い出す。
「民衆側の勝利ですよ。破壊と無思慮の勝利です」
頭の中でギーの言葉を繰り返した。本当にその通りなのだろうか?彼らの勝利で終わってよいものなのだろうか。もはや暴力と私刑の口実でしかない民衆の王とやらの勝利で良いのだろうか。
ギーの考えが知りたかった。レネーを支援するつもりなのだろうか。それとも弟がエズラにジリジリと殺されてゆくのをフラニーと共に傍観するだけか。
夫と共にエイダの村人たちの実態を見ていくうちに、民衆の怒りが不当なものではないことを知った。
この貧しい土地の地主たちは暴君である。長い間、鞭は農民たちにとって恐怖と服従のしるしだった。
領主と寝ることを拒んだせいで失血死するまで犯され、村じゅう馬に遺体をひきまわされた娘の話。貴族たちが堅固な城の中で豪勢な宴会を開くのをよそに、村人たちは一つのパンを持てずに死んでゆく。地代の取り立ては無慈悲だった。払えないと言えば、その場で腰が立たなくなるまで鞭うたれ、子どもを領主館の奴隷にするか、商品として売り飛ばしてしまう。
農村を覆っていたのは死と病だったのだ。エイダ各地で貴族たちは抵抗を続けていた。戦いぶりは、時に民衆よりも残酷で勇ましいものだったといわねばならない。呆気なく降伏してしまった者もいる。そういう連中はエズラと民衆に忠誠を誓い、エイダの戦力となり、「新しい宮廷」の一員になった。エズラにも貴族たちが後々《のちのち》必要になることを知っていたのだ。
「話さないといけないことがあるんです」
リリィが寝台の前に立って言った。
エズラはすっかりくつろいで、チュニックに着替えている。リリィを見ると無造作に頬に触れた。大男だ。リリィが夫の顔を見上げる。
「警告があるの」
厳しい顔つきでいった。
「警告?」
エズラがオウム返しにきく。
大男だった。リリィはほんの少しためらう。この人を愛すことも好きになることもないだろう。だが尊敬していたのだ。
リリィは昨夜男がくれた母からの伝言を夫に話すことにした。
女騎士のタピスリーは埃をかぶっている。メアリーは〈風と波の宿〉の寝室にあるこのタピスリーが好きだったことは一度もない。だが女騎士がえも言われぬ気高い表情をしているのに胸を打たれた。
エズラが人質を連れて沖の野営場を去ったので、やっとこの館に入れることになったのだ。
アレックスは密かにこの館をメアリーに譲り渡した。皇帝となり、次の戦いに備えなければならなくなった今、ここで過ごす時間はないのだ。それにメアリーならアレックスが一人になりたいとき、歓迎してくれるだろう。
噂はどこかから漏れ、皇帝とメアリー・トマスの関係はちょっとしたスキャンダルになった。メアリーなど皇太后から注意されたほどだ。へっちゃらだった。もう結婚するつもりもないのだ。アレックスはメアリーの将来を思って一緒に笑えなかったが。
「テリー公にはやられたよ」
アレックスがタピスリーにちらりと目をやって言った。
「ええ。そのおかげであなたはここにいて、しかも頭が首の上にのっている」
メアリーが言う。
「だがリリィとリシャールは奴のもとだ」
皇帝の命の代償は大きかった。
「エズラはリリィも子どもも殺さないわ。リリィに惚れてるのよ。それに二人は彼の計画の一部なの。イリヤを征服したあかつきには二人が権力の正統性を与えてくれるわ」
エズラが心底リリィに夢中になっていることは確かだ。メアリーもリリィと赤ん坊の安全には自信がなかった。それでもエズラの言いなりにはなっていけない。
「いずれにしろ戦争は起きる。エズラの頭から王冠を奪ったら、二人を安全な場所に連れていけるだろう。それで、メアリー、この前縁談を断ったって」
アレックスがそう言って面白そうな顔をする。
「あなたまで言うのね」
そう言って顔をそむけた。
「君は社交界じゃ引っ張りだこだ。男たちの平和のために皇帝の権限で結婚させるべきかい?」
こころもち優しい口調で言う。
「いいえ、逆のことをして。私ここにいたいの、あなたやトゥーリーンのそばにね。つまらない男と結婚して言いなりになるなんてまっぴらごめんよ。あなただってそう思わない?」
魔女のそばにいたかったのだ。それに、アレックスの近くなら彼の加護があり、自由に行動できた。
二人は真夜中、寝るのも忘れてチェスに興じ、お互いの夢について語り合った。お酒はのまないで笑いあう。窓を開けて波の音を聞いた。
「人魚は俺たちのことを忘れたんだろうか」
アレックスがつぶやく。
「覚えてるわ、きっと。何かで怒ってるのよ」
メアリーがそう言ってほろりと笑った。