女王からの伝言
馬車の旅は耐え難かった。乗馬をさせてほしい。
エズラにそう訴えると、それなら船を使えばいいと言った。どうやら前から、その贅をこらした船に乗るつもりだったらしい。
その船は婚礼船と呼ばれていた。船首に人魚を人質に、運河の上をすべっている。巨大な船だ。
旅の一行は船に乗り込んだ。一部の使用人だけが馬や荷車をつれて宮殿に向かう。
リリィはドゥーサ河を使えばイリヤ人の反感を買うのではないかと恐れた。たぶんエズラの目的はイリヤの民やアレックスを挑発することなのだろう。少数の者しか知らないが、テリー公は皇帝との引き換えを条件に、イリヤの東部をエイダの領土とした。エズラは領民に誰が主君なのか示すつもりなのだ。
それにしても船は豪華だった。このような富を夫が持っていたことに驚いてしまう。民衆の王という名の通り、もっと庶民的だと思っていたのだ。
リリィとエズラの船室には水色の絨毯が敷き詰められており、めのうで飾られた寝台かある。船首の人魚も彩色されており、鮮やかな色使いが美しい。だが、なんだか見覚えがあった。
「美しい船に、美しい河ね」
リリィが船縁に出て言う。エズラの隣に並んでいた。夫はリリィを見て満足げに笑う。
「美しい妻もいる。すべてを手に入れた気分でしょう?」
ギーが横から言った。
「全てではない。だが、河を越えた意味はあったな。こうして妻と息子がいるんだから」
エズラがちらりとギーを見て言う。
リリィは夫の言葉に遠慮がちに微笑を送った。
「ところでギー殿、お前の弟のことだが」エズラは急に冷淡な声音になって言う。「どうやら生きていて、何やら企んでいるらしいな」
「弟の企みは成功しませんよ、陛下。レネーは今、無一文でリチャード皇帝の援助も断ってしまった。あるのは正統な血筋くらいだが、それもエイダの民衆には呪われた血筋も同然です。弟を支援する人はいない」
ギーが平然として言った。
「ギー殿、お前は弟を応援しないのか」
エズラがなおも聞く。
腹をさぐっているのだ。生かしておくべきか。この場で殺すべきなのか。
「応援してどうするのです?弟と仲良く焼け死ぬ、ということですか。民なき王の兄として誇りをもつ、とか」
ギーが問い返した。
エズラが歯を見せてにやりと笑う。
「もっともなことだな。民がいなければ支配もない。従う民がいなければ、そいつは王でもない。今度弟に会ったら言ってやるんだな」
「今度会う時にはもう手遅れです。僕と王妃にそう言いたいのでしょう」
ギーは泰然として言った。
「でも僕に関してなら覚悟はできてますよ。民衆が怒り狂う様だってこうして見ているぶんには面白いくらいです。そう言えば彼らはまた怒って血祭りになりかねませんけどね」
エズラが両手を広げて妻を見やる。今度はギーではなく、リリィが試されていた。
「どう思う、エイダの民衆について」
「私に意見を求めるのですか。リシャールを引き取るときにもそうしてくださったら良かったのに」
そう言ってにっこり微笑む。
ギーが横で身じろぎした。
「難しいことは聞いていない。素晴らしいとは思わないか、彼らの目覚ましい働きが」
夜。夫婦は甲板に出て東のイリヤの岸辺を見つめていた。星空の下、土と汗に汚れた顔の農民が、運河の岸に座って涼んでいる。その日一日の疲れをいやそうとしているのだろうか。静かな夜だった。水面は黒い宝石のように輝いている。
「ギーの言ったことを考えているの。あなたの望みはなんなの?」
リリィが不安に駆られて言う。
「『民衆の王』以上になることだ。だがお前の望みはなんだ?」
エズラがすぐに訊ねた。
「平和よ。皮肉なものね、幼い頃から戦争とか武勲とかばかりに憧れてきたのに。父が死ぬとも、私たちが負けるとも思っていなかったの」
自嘲気味に言う。
「夫は勝利したさ」
「それだけではだめなの」
悲しかった。
リリィがエズラにもたれかかる。もう彼を許していた。たまらなく孤独だったのだ。夫以外に頼るひとはいなかった。
その晩エズラはリリィを荒々しく抱いた。まるで世界そのものを所有しようとするかのように激しく、乱暴に。彼が眠ってしまうと船室を出て、ぼんやりと立っていた。後ろから誰かが指に触れる。
あまり顔は見えない。男だった。
「皇女さま、お妃さまから言伝です。今読んでください」
男が筒状に小さく丸めた紙を差し出して急かす。
「お母さまが助けてくださるの?」
リリィは読むより先にそう言って笑みをこぼした。