暴君の妻へ
城内はいつになく重苦しい空気が立ち込めていた。城門は堅く閉ざされ、中庭には近隣から避難してきた農民や下町の住民でごった返している。子どもたちは兵士の行きかう中庭で走り回り、親たちは途方に暮れた顔をしていた。
皇帝の妹とメアリー・トマスが通ると、人々の物珍しそうな視線が集まる。城の使用人の不首尾で泊まる部屋が用意できていないのだ。寝起きする場所を与えて、少しでも不安を和らげてあげなければならない。
〈嘆きの塔〉近くの第二厩舎には数十頭の馬が飼育されている。主に女性や子どもための馬だ。
リリィとメアリーが入ると馬丁が馬をなでながら何か話しかけていた。
「今日は乗馬には行かないわ。様子を見にきたの」
リリィが言う。
「さようでございますか」
馬丁がうやうやしい口調で言った。
二人は馬ににんじんを与えて早々に厩舎を出ると、周りをうかがいながら丘のふもと、城壁沿いにある庭番の小屋に入った。トゥーリーンが矢の手入れを止めて振り向く。細い背中だ。
彼は魔女の小島にいないときには、ここで寝起きをしている。
「庭番はどこに行ったのかしら」
リリィがそう言ってトゥーリーンを抱きしめた。
「ここだよ、僕だ。リシャールは元気かい?」
ごく自然な調子できく。
「もちろん元気よ。あなたも会いにこればいいのに。約束してくれたでしょ」
リリィは微笑んで言った。
「約束って?」
メアリーがすかさずきく。
リリィは答えあぐねた。
「僕がリシャールの父親代わりになるって約束したんだ。エイダから逃げる途中のことだよ。リリィと結婚しようとしてるわけじゃない」
トゥーリーンがしっかりとした声音で言う。
メアリーは眉をひそめた。トゥーリーンが何かにじっと耐えているような気がしたのだ。
「わかってるわ。それに今リリィはレネーにかかりっきりですもの。これであの男のことを愛してるのよ」
「メアリー、やめてちょうだい。レネーのことを悪く言わないで。彼のせいじゃないのよ」
リリィが困ったような顔をして言う。
「そうね。レネーのせいじゃないわ。でもね、自分の子どもを認めなかったのよ。かなり薄情な人ね。そう思わない、トゥーリーン?」
メアリーが目をきつくして言った。レネーが友達にした仕打ちに怒っていたのだ。
「私が先に裏切ったのよ。エズラと結婚して寝たわ。レネーの家族を殺して王位まで奪った男とね。私が悪いの。お願いだから彼の話はしないで」
リリィは涙声になった。
「メアリー、君が怒るのもわかる。でももう十分だ」
トゥーリーンがリリィの悲痛な顔を見かねて言う。
メアリーは黒い瞳でトゥーリーンを睨みつけた。が、腕を組んだまま目を逸らし、リリィの肩に触れる。トゥーリーンに怒っても仕方のないことだ。
リリィはかぶりを振ると、粗末なベッドの上に腰かけた。
「義兄が心配だわ。エズラがどんな人やら」
リリィが口を切る。
「テリー公は何としてでもアレックスを救い出そうとするはずよ。あの人なら失敗するなんてことないわ」
メアリーはそう言いながらも不安そうな顔をした。エズラに関してはかなり血生臭い評判を聞いている。誰もこの男のことでは予測がつかないのだ。戦場を知らないはずの奥方までもがエズラを不気味で情け容赦ない男だと怖がっていた。
「テリー公は現皇帝のことを大切に思っている。だがエズラはリチャード皇帝を殺した。いずれにしろ、彼は人質の交換を求めるはずだ」
三人は日が暮れる前に解散した。メアリーは非番のジョンのもとに、トゥーリーンは自室へ帰るリリィに付き添う。
リリィは道中、トゥーリーンと話さなかった。トゥーリーンはリリィと腕を組むわけでもなく、手持ち無沙汰でただ黙っていた。
〈皇妃の館〉の前に来ると、彼は会釈だけして立ち去りかけた。リリィが呼び止める。彼が振り返った。言葉は浮かんでこない。
「ありがとう」
だからそう言った。
「感謝しているわ、あなたのしてくれたこと。あなたは善人よ」
彼はあの野性的な顔でうなずくと、きびすをかえして去っていった。リリィは呆然と離れてゆく背中を見つめる。
翌朝、テリー公とエズラの合意により人質の交換が行われた。
皇女の私室の扉を兵士が叩く。リリィはリシャールが隣の部屋で泣くのを聴いて飛び起きた。女の、乳母の叫び声が聴こえる。ガウンだけ羽織って扉を開けた。
「何事なの?」
リリィが戸惑いながらたずねる。
「テリー公が直ちに城門まで来るようにとのことです、姫君」
兵士が有無を言わせない調子で言った。後ろには武装した5人の部下が控えている。
「息子は?リシャールは?」
リリィはなんとか感情を抑えようとしながら言った。
「乳母殿と一緒に城門にいます。姫君、時間がありません」
兵士が鉄面皮のような表情で言う。
「私は行かないわ。テリー公の命令には従いません。リシャールを返して」
リリィが断固とした口調で言った。
「それならリシャール様だけ、エズラに引き渡されるのみです」
朝の頼りない歩調で城門に向かうと、彼が跳ね橋の向こうにいた。ハンサムな顔の、いかにも残酷そうに曲がった鼻。口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。大男だ。乳母は彼の隣でリシャールを抱いて震えている。
「卑劣だわ」
悠々とした態度で城内に立つテリー公に叫んだ。
「私だって貴方のようなか弱い女性を野蛮人のもとに引き渡すのは心づらい。だが仕方のないことだ。皇帝の命は何にも代えがたい。それにあなたは彼と結婚した仲ではないか」
テリー公が平然と言う。
リリィに選択肢はなかった。息子をあんな残酷な男のもとに一人っきりで預けられなかったのだ。
橋を渡る。マントの頭巾を目深にかぶり、うつむいて。彼が待っていた。無慈悲な民衆の王が。