皇帝の弟
イリヤ城の敷地は広大だったが、兵の数は十分にある。皇帝の軍とその見習いたちは〈兵舎〉を空けて、城内に来ていたのだ。アレックスが危惧していたのは膨大な数の兵士や避難してきた人々を食べさせてゆくための食糧だった。もしや兵糧攻めに遭うのではないか。
兵たちが戦う音は〈皇妃の館〉まで聴こえてくる。女たちは社交の場ではいつもと変わらぬ優雅な生活を送ろうとしたものだ。だが自室ではみじろぎもせず、不安に慄きながら祈る。
皇妃は跪いて祈りもしなければ、侍女たちと胸中の不安を話すわけでもなかった。息子のウィリアムを胸にだき、戦争の行方を案じる。アレックスはまだ皇帝として戴冠されていなかった。だが彼が皇帝の座についたら、自分とウィリアムはどうなるだろうか。
ライオンのロトがやってきて、ヘレナの膝にふわふわの黄金色の頭をのせる。ウィリアムがロトを見ると笑顔になった。
「ロトはウィルから離れないのよ。番犬みたいなものね」
ヘレナがリリィに言う。
リリィはリシャールを抱っこしてあやしていた。
「ウィルのことを弟だと思ってるんだわ」
「そうね。アレックスもウィルのことを弟と思ってるかしら、血を分けた兄弟だって」
ヘレナが言う。
「ええ、アレックスは実の弟を大切にするわ。傷つけることもない」
リリィが優しく言った。
母はアレックスを恐れているのだ。でもアレックスは母の考えているように残酷ではない。
「アレックスは夫が死んでから私に会おうとしない。私を無視しているのよ。この戦争が終わったら、私と息子を殺すわ」
「お母さま」リリィが落ち着いた声で言う。「義兄はそんな人じゃない。私は義兄の優しい心を知っている。ウィルにもお母さまにも然るべき地位と暮らしを与えてくれるわ。それに、今だってアレックスは二人を殺すことができるのよ」
皇帝の死に兵士達の士気は下がっていた。テリー公はアレックスに戴冠を早く済ませるべきだとささやく。ヘレナを牢獄に閉じ込めておくべきだとも。
「皇妃はあなたを排除するつもりでした。あの女は女帝になるつもりです。今だって野心を捨ててはいません」
テリー公は皇帝の書斎で言った。
「義母の野心も私への憎悪も、嫌というほどよくわかっている。戴冠は明日行う。ウィリアムは私の用意した教育係に任せて、母親には絶対に会わせない。部下をヘレナの護衛にする」
「得策です、殿下。明日の作戦はいかに?」
「明日は何もしない。作戦は明後日に変更だ」
そういうわけで、ウィリアムは乳母や母親から引き離されてリリィとロトのもとで育てられることになった。ヘレナは事実上の軟禁状態である。
アレックスは戴冠し、皇帝となった。
冕冠を頭にいただく義兄をリリィは見守るだけだ。
「お前の母親にした仕打ちに失望しているか?」
アレックスはそう言って広間の玉座から立ち上がると、硬い顔をするリリィの髪に触れた。
「いいえ、母はウィリアムを利用するつもりだった。公正だわ」
リリィが言う。
「弟は私たちがちゃんと育てる。リシャールと一緒にね」
「レネーと一緒に暮らしたくないのか?」
アレックスがたずねた。
「暮らしたいけれど、彼はリシャールを自分の子どもだと認めていないの。誤解がとけるまで故郷にいるわ」
その日の晩、アレックスは部下と共に城の秘密の出口から敵の野営地へ行った。エズラを殺すつもりだったのだ。だが、エズラに捕らえられ、捕虜になった。
イリヤの大地を不吉な風が吹く。リリィはリシャールをかたく抱きしめた。
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