出産と春
旅の間に何度か追い剥ぎに遭遇した。追っ手らしき男たちも。トゥーリーンは身重のリリィを守ってくれる。心強い味方だった。
帰郷する頃。イリヤ城は雪をいただいている。見張りの兵士たちが増員されていた。背筋に冷たいものを感じる。厳しい戦争が始まるのだ。
ヘレナは中庭に立つ娘の姿を見ると雪のふる外へと出てきた。鋭い目をしていた。いつもの怒りを秘めたような視線だ。リリィはトゥーリーンに支えられてやっと立っている。
「護衛、皇女を私室に運びなさい」
ヘレナが慌てて指示する。
リリィは再び〈皇妃の館〉のベッドで寝た。温かいおかゆを食べ、手厚い看護を受ける。友人たちも見舞いにやってきた。ただ一人、リチャードだけはやってこなかったが。
「皇帝は忙しいんだ。この短い間にいろんなことがあった」
トゥーリーンは慰めてくれる。
でもリリィにはわかっていた。父はエズラと結婚し、枕を交わした娘が許せないのだ。妊娠しているとなれば話はもっと複雑になる。
「皇妃はあなたのことを心配してるわ。皇帝夫妻はあなたのことで、意見が衝突している」
メアリーがリリィの手を握って言った。リリィは弱々しく微笑む。
寝室で時を過ごすリリィも風の噂を聞いた。ドゥーサ河をはさんだ国と、近頃は争いが絶えない。火種はドゥーサ河の通行権と奴隷売買のことだった。
イリヤ人は自分の手を汚さずして奴隷を所有しようとしている。俺たちの息子や娘はどこに行った?見ろ、イリヤ人どもが、息子を鞭打ち、娘を犯している。ドゥーサ河まで独占するつもりだ。奴らは俺たちの支配者ぶって何から何まで奪う。このまま放っておいていいのか?
エズラの民衆たちは、イリヤ人を敵にしたのだ。ついでに身重の妃の引き渡しまで求めているという。
リリィは父が自分をエズラに引き渡すのではないかと恐れていた……
「アストレアに逃げることだってできるわ」
メアリーはそう言う。
マティアスとレイチェルから手紙が届いたのだ。あの二人ならリリィと赤ん坊を受け入れてくれるだろう。
「レネーは?」
リリィが聞く。
メアリーは何か言おうとして一瞬ためらった。
「彼に知らせたのよ。あなたがエズラと結婚して、みごもっているって。でもお腹の父親のことは信じてくれなかった。彼に会っても上手くいかない」
レネーの冷淡さがアストレアへの亡命を決意させた。だが、その計画もリチャードの監視があって頓挫してしまったのだ。
リリィには部屋で一人考える時間だけが残された。お腹の子に話しかけ、侍女と話し、歩廊を歩く。兵士の行進が見えた。槍や剣がきらめくのが。馬たちは近づく戦争の気配に荒ぶっている。レイチェルからの手紙を何度も読み返した。
リリィ様へ
つつがなくお過ごしですか。皇子殿下や皇帝はお元気でしょうか。それにターナー嬢も。
私たちは無事アストレアに着きました。マティアスの大叔母さまはとてつもなく達者な方です。そしてとても親切。その上、領地経営に関してはかなりのやり手です。
なだらかな丘陵に羊がいる、美しいところですよ。故郷のトーウェンヤッハを思い出します。いつかあなたも見てくれたらいいのに。
あなたの忠実なる友、レイチェルより
彼女は幸福なのだ。レイチェルがいた頃に戻りたい、と思う。小舟で海にくりだした、星々の降る夜に。〈崖の家〉でジョンやメアリーと笑い合った日々に。
戦争は長い冬が終わり、春の息吹を感じる頃に始まった。大勢の男たちが城からいなくなる。皇帝とアレックスはドゥーサ河沖に野営地を置き、敵に備えた。リリィの出産の少し前のことだ。
出産は夜明けごろに始まり、真夜中に終わる。リリィはひどい陣痛にこの世を憎み、女に生まれた自分を憎み、これから生まれてくる生命まで憎んだ。
産声をきく。ぬるま湯できれいにして、おくるみに包んだ赤ん坊を腕に抱いた。男の子だった。
イリヤの皇女が男児を産んだその晩、帝国はエイダの急襲にあって敗北したのだ。リリィは知らされるよりも先に敗北を知っていた。皇女はかたい顔で赤ん坊を抱いている。
「健康な男の子よ」
リリィはトゥーリーンにそう言って赤ん坊を抱かせた。
腕の中で乳飲み子はすやすやと眠っている。
「名前は?」
トゥーリーンがたずねた。
「リシャールよ」
なぜなら父はその日に死んだのだから。