ペガサスにのって
夜警の目を盗んで宮殿を抜け出し、ドゥーサ河の上流でイリヤへと国境を越える。リリィはしきりに休憩してはトゥーリーンのそばで眠った。体調が悪いのだ。村の宿屋にも泊まった。村人の親切にあずかることもある。
宮殿に残してきたマルグリットとギーが心残りだった。ギーはフラニーが守るだろう。だが、マルグリットはリリィを失って1人っきりなのではないか。彼女は強い人だ。宮殿の中でも友だちを見つけ、新しい仕事につくだろうか。
焚き火の前に横たわってトゥーリーンの横顔を眺めるのが好きだった。荒削りな頬や、しなやかで頑健な足。あの野生的な目は夜になると安らいで、闇のどこか遠くをさまよう。
「小さい頃、こうやって冒険に出るのを夢見たわ。剣をとってペガサスの背にまたがるの。それで天までとぶわ。真っ白な雲の中に消えて、二度と戻らない……」
リリィが身を起こして言った。
「雲の中に消えたらどこに行く?」
トゥーリーンが焼きりんごをクルクルと火にあてながら訊ねる。
「別の世界よ。花が咲いて、果実のなる野原。退屈したら鳥たちが籠にのせて大海原へ連れていってくれる。そこで人魚たちと踊るの」
「人魚たちと?」
トゥーリーンが聞き返した。
「ええ、人魚とよ。何か知っているの?」
リリィがきく。
「いや、特に何も」
トゥーリーンはそう言うなり口を閉ざしてしまった。
「嵐の前に警告してくれたとき、なぜわかったの?〈海の神殿〉から救い出してくれたときだって」
リリィが食い下がる。
「リリィ、僕には言えない。時が来たら魔女が話してくれる。それか君のお母さんが」
トゥーリーンはそう言うと、焼きりんごをリリィに渡し、荷馬の袋からチーズを取り出してきた。今日最後のおやつにするらしい。
「本当に教えてくれるの?」
リリィがトゥーリーンを見つめる。
「ああ、約束する。でも君は僕に何を約束する?」
トゥーリーンはちょっと考えて言った。
「なんでもよ」
リリィが微笑む。
「なんでも?」
トゥーリーンは眉を上げた。
「ええ、なんでも。だってあなたは私の子どもの命の恩人だから」
彼はリリィの微笑みから目を逸らした。
「じゃあ子どもが?」
「ええ、レネーの子よ。故郷のお城でなら安心して子どもを産める。きっとレネーの希望にもなるわ。彼はひどい目に遭ったから」
リリィがすっかり満ち足りて言う。
「リリィ、レネーはイリヤ城にはいない。皇帝の援助を断って出ていったんだ。今どこにいるかはわからない。彼は時間をかけてエズラから王国を取り返すつもりだ」
リリィは絶句した。待っていてくれなかったのだ。お腹の子どもは父なし子になるのだろうか。
「もっと前に言うべきだった。すまない。でも君をエズラのところに置いておけなくて。レネーに会えないと知ったらついて来てくれなかっただろう」
トゥーリーンが何か言っている。
「なんでこんなことしたの?」リリィは途方にくれて言った。「もし父の城に帰ったら、これからずっとレネーに会えなくなるわ。そんなことできない。全部この子を守るためだったのに。これでは私生児も一緒だわ」
「僕が父親代わりになる」
トゥーリーンが慌てて言った。
「あなたが父親代わり?どういうことなの?」
リリィがかぶりを振って言う。
「僕が君と君の子どもを守る。レネーのいない間は」トゥーリーンは切羽詰まって言った。「余計なことをしたのはわかっている。でも君に、あの凍りつくような宮殿で血も涙もない男の妻でいてほしくなかった。エズラは国土にも愛にも破壊しかもたらさない。君を想って行動したことなんだ」
「あなたに父親なんて、荷が重すぎるわ。いつかレネーも子どもが生まれたことを知る。そうなったらすぐに迎えにくるわよ」
リリィはそう言うと、切実な表情をしたトゥーリーンからぷいと顔を背ける。
トゥーリーンは拝むような顔をしてリリィを見た。リリィが耐えきれなくなるまで。
「本当を言うと、私だって母親になるのは怖いわ。あなたの気持ちは嬉しいし、こうやって宮殿の外に連れ出してくれて感謝している。たぶんあなたの言う通りなのよ。エズラとは一緒にいるべきじゃない。私は彼を愛すんじゃなくて恐れてた」
トゥーリーンの言うことは正しかった。子どもを育て守るには、冷たい正義を振りかざすようなエズラのもとではなく、故郷の方がいいだろう。イリヤ城にはアレックスがいて、アビゲイルがいる。それにメアリーやトゥーリーンも。
それなのに、レネーと一緒にいることを望んだ。
「全部生きるためなんだ」
トゥーリーンが言う。
「生きるためにエズラと結婚して、彼と寝たわ」
たぶん、レネーはリリィを赦さない。そう思うと、たちまち心が苦しくなった。
狼の遠吠えが聴こえる。リリィはあまりの寒さにトゥーリーンに身を寄せて横たわった。