待ち望んだ救い
レネーの話はしなかった。リリィとギー、二人はレネーが生きていることを知っている。
「また宮殿を空けるの?」
リリィが毛布から顔を出して聞いた。
夜明け前、エズラがベッドから出て鎖かたびらを着込んでいる。リリィは夫のたくましい背中を見ると急いでベッドから抜け出した。
「何か言ってちょうだい。どうせあと一ヶ月は帰ってこないんでしょ」
リリィがエズラの背中にするりと手をかけて言う。
「喋ると君に言い負かされて部屋から出られなくなる」
エズラが振り向いて言った。
「『圧政者』たちの討伐に行くの?」
リリィが夜着の上にガウンを羽織って聞く。
「ああ」
エズラが言った。
「討伐なんて必要ないわ。貴族たちと和解するべきよ」
リリィが蝋燭の揺れる炎を見つめながら言う。
「何が言いたい?彼らに慈悲を示せと言うのか?奴らは一度だって慈悲をかけたことがないのに?」
エズラが怒りをこめて言った。
血を求めてやまない夫が恐ろしい。もう充分血を見たのだ。これ以上人を殺して何になろう?
エズラは宮殿以外にも、地方の貴族の館を襲撃している。農民たちはくわと鋤をもって領主を襲った。領主は城の前で磔にされ、激痛に苦しみながらゆっくりと死んでゆく。貴族の妻や子女は奴隷に売り飛ばされた。
三人で芝居小屋の近くの湖に小舟を浮かべる。奥には洞窟があり、ふねを進めれば進めるほど、水の青が濃くなってゆく不思議な湖だ。下のタチアナ・ヤールの霊廟と繋がっているのだという。
「民衆は野蛮で残酷だ」
ギーが言う。
フラニーが顔を上げて夫をちらりと見た。その日はサテンの白のガウンを着ていた。我関せず、という顔だ。
「その言葉が民衆の耳に入ったらどうなるかしら」
リリィがピリピリして言う。ギーは不用心なのだ。
「ええ、私がエズラに言いつけたらどうなるの?」
フラニーが加勢する。
「ファニー、君は僕のことで言いつけたりしない。だってエズラのことを嫌っているからね。兄さんに反抗したいんだ。リリィ、あなただって言わないはずだ。流血が嫌なんだ。それに僕の弟のことを愛している……」
ギーは斟酌せずに言った。
「それはどうかしら」
リリィがちょっと頭をそびやかして言う。
「今ではもうエズラの妻なのよ」
「いや、結婚は無効ですよ、弟が生きているならね。エズラが真実を知るのも時間の問題だ」
ギーが冷ややかに言う。
「何ですって?」フラニーがギョッとした声を出した。「じゃあレネーは生きているのね?リリィもギーも知っていたの?」
「エズラに嘘をついたの」
リリィはそう言ってうつむく。
「彼はレネーの顔を知らなかった。だから、レネーは死んだんだって言えたのよ。でもギーの言う通り、エズラに知れるのも時間の問題ね」
「兄はレネーをもう一度殺そうとするわ。リリィだってどんな目に遭うかわからない」
フラニーが言った。
「弟は死なない。エズラだってリリィを殺しはしない」
ギーが静かに言う。
「殺しはしない、ですって」
フラニーはそう言うと、皮肉な笑みを浮かべた。
「でもそうね、エズラはお義姉さまを赦すでしょうね。お義姉さまは世界で一番の美人ですもの。でもお義姉さまはエズラを赦せるの?」
「私がエズラを赦すですって?フラニー、あなた何か勘違いしているわ。私、何もエズラを恨んでいないのよ。彼を尊敬しているわ。私、こういう秘密の打ち明けっこにはうんざり。スリルなんかいらない。ギー、岸辺に行ってくださらない?宮殿に帰るわ」
リリィはヒステリックな口調で言った。
バルコニーからどこか遠くの城が焼けているのが見えた。煙がたなびいている。リリィの耳に焼け出された人たちの悲鳴が聴こえるようだった。
暗闇の中、震える手で蝋燭のあかりを灯そうとする。暖炉の火は一晩中ついていた。おかげで暖かい。
蝋燭の明かりが〈七光石〉でできた壁に照り映えて美しかった。
扉を開けて、バルコニーに出た。肌を突き刺すような寒風が吹いている。身を縮め、魅せられたかのように、遠くで燃える城を眺めていた。
「恐ろしい光景だ」
声がした。
リリィがゆっくりと振り向く。トゥーリーンだった。怒りを含んだ目で遠くの炎を見つめている。
薄暗がりにしなやかな四肢が浮き立った。
「エズラを止めたいの。でも彼は聞く耳を持たない」
リリィが言う。
「彼は誰にも止められない。たとえ自分自身が滅びることになっても」
トゥーリーンがさとした。
「どうして来てくれたの?あなた、いつも寝室に忍び込むのね」
リリィは不意に泣きそうになって言う。
「イリヤ城にレネーが来た。逃げるなら今日だ」
トゥーリーンがうつむくリリィの顔をのぞいて言った。
エイダには我が子の安全も、幸福な未来も見えない。愛さえ見つからなかった。あるのは残酷な正義と止まるところを知らない民衆の怒りだけだ。
リリィは果たして、トゥーリーンについていくことにした。長く過酷な旅になるだろう。でも彼となら安全だ。なぜかそう思えた。