皇女の祈り
皇女リリィは毎晩祈った。寝台の前に跪き、鬱屈とするこのお城での生活が早く終わるようにと。薄い胸の中で恋焦がれ続けた。いつの日にか、自由になって幸福を噛みしめるのだ、と。
皇妃ヘレナは娘を嫌って、避けていた。
弟のウィリアムを産んだ時は、誇らしい気もしたが、リリィとなると違う。ヘレナの望んだ子ではなかったのだ。皇女には美人になる素質がある。でもこの子には、美貌を使いこなす能力もない。時代の波にもまれ、かげろうのような生涯を送るだろう。
皇帝リチャードは戦争や国事にかまけて、娘と話す時間は取れなかったが、彼なりに愛してはいたのだろう。遠い外国から帰ってくると、必ず娘の顔を見にやって来る。親子の会話の糸口を探すのには苦労する。娘相手に遠征先での出来事を話すわけにもいかない。乗馬や狩猟の話題なら大歓迎だった。娘はどうやら馬に熱中しているらしい。
「またお祈りしているのね」
メアリーがそばに来て、寝台の上に腰かけた。からかうような、いたずらっぽい表情を浮かべている。
メアリーはリリィの侍女で親友だった。
「ええ、毎晩お祈りしてたら、神様だって、ちょっとは願いを聞き入れる気になるでしょ」
リリィは乳姉妹の方を見て微笑むと、立ち上がって、メアリーの脇に腰かけた。
部屋は薄暗い。蝋燭のあかりが、おぼろげに揺れていた。
「そうかもね。何を祈っているのよ」
メアリーが茶化してたずねる。
「そうね。早く結婚が決まって、このお城を離れられますようにって」
メアリーは感心しない、というふうに幼馴染を見た。
「あなたが結婚しないはずがないわ。皇女ですもの。イリヤ人の男なら皇女を放っておくことなんてできないわ」
それでも、皇女は不安だった。
「皇女でも結婚しないで死んだ人はいるわ。想像するだけでゾッとする、未婚のままこのお城で一生を過ごすなんて。ねぇ、あなたはこのお城に嫌気がささない?生まれた時から一歩も外に出たことないのよ」
リリィは父の領地から、生まれてから一度も出たことがないのだ。
自分の目で世界を見たかった。本物の世界を。裸足で、お城の外の草原を駆けまわりたい。痺れるような、死んでしまいそうなほどの恋をしてみたかった。本物の恋、一生に一度の恋がしてみたかった。
「あなたはね、イリヤの皇女なのよ。きっと素敵な、めまいのするくらい素敵な人と結婚するわ。結婚の心配なんてやめて」
メアリーの熱心な口調が耳に入ってきて、リリィは空想の世界から現実に引き戻される。
「わからないわ」リリィはどうでもいい、という風に言った。「結婚相手なんて自分で決められないもの。期待しておいて後から落胆したくないわ。花婿が優しい人だったら、それだけでもいいのかもしれないわね」
義兄のアレックスは妹の不満を聞いても、妹の髪をぐしゃぐしゃにして豪胆に笑うだけだ。
「可哀想にな。リリィは一人きりで外出するどころか、寝ることさえ許されないんだから」
リリィは腹違いの兄が大好きだった。生まれつきの明るい性格や機転のきいた立ち回り、妹にだけ見せる温かい思いやり。ハンサムで、背が高い。優雅な金髪は波打っており、目尻のあたりにできた笑い皺が魅力的だ。
皇妃は二人が仲がいいのを見て「近親相姦的だわ」と、嫌がったのだけれど。
イリヤの宮廷では、アレックス皇子は貴族の令嬢たちの憧れの的だった。舞踏会での洗練された身のこなし。それに隙のない剣さばき。馬上槍試合は完全にアレックス一人のための見せ場だと言っても過言ではない。
兄への愛情は深かった。時々どうしようもなくなるくらいに。
兄は外国に遊学に行ってから変わってしまった。いつも通り快活ではあっても、時折一人で黙り込んで暗く沈んだ目つきをする。一気に老け込んでしまったような気がするのだ。リリィは何があったのか聞けなかった。アレックスも遊学の間に起きたことを言うのを避けている。
イリヤ帝国の皇帝には三人の子どもたちがいた。長男アレグザンダー、長女リリィ、次男ウィリアムである。その内長男のアレックスだけ母親が違った。リチャードの前妻、イライザである。
イライザはイリヤの皇帝と結婚するに相応しい家柄の娘であり、夫には誠意を尽くしていた。妻として、皇妃としての義務を果たし、リチャードを愛していたはずである。
ところがある日、地方貴族の娘のヘレナが宮廷に現れ、イライザから平穏と夫と地位の全てを奪ってしまったのだ。
前妻は泣く泣くイリヤの宮廷を去り、母と共に修道院にこもった。宮廷人の多くがイライザに同情したはずである。しかもヘレナは皇帝に出逢った当初、人妻だった。皇帝を誘惑し、夫だった男を捨てたのだ。皇妃になって15年経った今でもヘレナを悪く言う人は多い。娼婦や魔女と言う者もいた。
リチャードは皇位継承者を長男のアレックスと決めている。生まれにしても、統治者としての教育や才能にしても、アレックスの方が良いのだ。
だが、ヘレナはアレックスを嫌っていたので、そんな未来をゆるせるはずがなかった。次の皇帝は私の生んだ子、ウィルこそがふさわしいのだと、毎晩夫の寝物語に聞かせる。あなただってウィルの方を可愛がっているわ。どうしてウィルに帝国を譲ってあげないの?
「それに私たちがいなくなって、アレックスが皇帝になったら、ウィルはどうなるのかしら?アレックスは弟を嫌っているのよ。殺されるかもしれないわ」
アレックスがウィルを嫌っているなんて、根も葉もない。二人はほとんど顔を合わせたこともない。ヘレナが執拗に赤ん坊をアレックスから遠ざけていたのだ。
リチャードは皇妃の意見に耳を貸すつもりはない。
とはいえ、継母のせいで、アレックスの皇位継承権が危うくなっていることも事実だった。リチャードも自分の死後のことまで保障できるわけではない。皇帝は自身の右腕であり、敏腕の政治家のテリー公をアレックスの側に置き、後ろ盾になるようにした。