28.ノアの方舟
僕なりの、応援。
ああ、本当に終わるんだ。今日、この世界は。
高地にある住宅街。その一角にある私の家。
水害とは縁のなかったここにも水が押し寄せ、すでに一階は水浸しだ。
原因不明の冠水。そのせいで。
空は燦々と晴れているというのに、川や海から溢れ出した水が、この大陸を沈めようとしている。
もう、どこのラジオもテレビも放送していなかった。
逃げ惑う人々の悲壮な声はすでになく、あちこちの家から狂気めいたお祭り騒ぎの音が聞こえていた。
決して少なくない人々が、最期を各々の家で迎えることを選んだんだろう。我が家と同じように。
まだ民衆の間では、事態が“数十年に一度の大災害の一つ”と思われていた時。この異常を焦燥感たっぷりに語るニュースがまだ流れていた時。
「終わりだ。この地域まで水が来たら、あとはどこへ行っても同じか、ここより酷いだろう。」
お父さんがそう言った。その言葉に、私と弟はうなだれ、お母さんは泣いた。
「終末世界。」
弟がぽつりと呟いた。
ああ、なんてぴったりな言葉。私は窓を見た。
「逃げる人はどこへ行くのかな。」
ペットを抱き、窓の外を見ていた私は呟いた。
「どこにも逃げ場がないんじゃ、逃げてもしょうがない。」
母の言葉を皮切りに、家族はこれからどうするのか話し合う。
「逃げる?」
「どこに。ここより高いところって言ったら山しかない。」
「逃げられそうな場所はどこも人がいっぱいだろうな。道も混んでそうだ。逃げ切れるかどうか。」
「逃げてどうするの?何もかも失って生きれる?」
「普通の災害と違うんだよ。本当に何も残らないんだろうね。」
「私、どうせ死ぬなら家で死にたい。適当な場所で最期を迎えるなんてイヤ。」
「同感。別に生きたいとも思わないし、ここで最期を過ごすよ。」
結局、皆で最期の時間を家で過ごすことにした。
「一家心中だ。」
私の言葉に、全員が苦笑した。
「大丈夫、あんたも一緒だよ。」
お母さんが愛犬を抱きしめ、そう言った。
ほどなくして、その時は来た。足元に来たと思った水は、もう腰まで浸かっている。
ああ、私は、私たちは、死んでしまうんだ。
バクバクとうるさい自分の心臓の脈動を意識せざるを得ない中、すすり泣く家族を見た。
さっきまで虚無の色が強かったお父さんと弟も、今は絶望に悔しがり、涙をこぼしていた。
ああ、愛犬が鳴いている。クゥンクゥン、そわそわ、そわそわ、クゥンクゥン、そわそわ、そわそわ。
なぁに、お前はいきたいの?
そんなふうに問いかけるように、テーブルの上に乗せていた愛犬をなでる。
ワン!ワン!切羽詰まったように吠え、窓をしきりと見てはこちらを振り返る。
外に行きたいの?外に行ったところで、もうどうしようもないんだよ?
…仕方ないなあ。最後だから、お前の自由にしな。
窓を開けた。愛犬は、勢いよくテーブルから降り、窓へと向かった。部屋に溜まっていた水と一緒に外へと流れ込む。
それを見て、お母さんが叫んだ。待って、戻っておいでと。戻る気配のない愛犬に、私を見て睨んでいる。
だが、すぐに自分のことで精一杯になった。身体がすっかり浸かり、天井との僅かな隙間に頭を浮かせることになったから。
ああ、苦しいかも。いや、苦しい。苦しい。怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い…!!
死ぬのは怖くないはずだった。悲惨な未来が想像に容易い状況で生きるくらいなら、死んだ方がマシなはずだった。それなのに!!
死が目前に迫って、やっと死ぬことが怖いと思い始めた。
ああ、何で死のうと思ってしまったんだろう。何で生き続ける方が辛いと考えてしまったんだろう。
こんな苦しみを受けるなんて、想像していなかった!苦しい、苦しい、苦しい、苦しい!!
バタバタともがく。空気を求め、慌てて窓の外に出ようとする。でも、物が邪魔で、水に濡れた衣服が重くて、思うように動けない。
―――死ぬんだ。
心が止まった、その時。ふと愛犬の姿が目に映った。
愛犬は必死に泳いでいた。
小さな小さな身体で、一生懸命。
愛犬は生きようとしていた。
私たちが道ずれにしようとした、か弱いはずの存在が。
泳いだことなんてない愛犬は、本能的に足を動かしていた。その姿の、何と力強いことか!
そこへ、簡易なゴムボートに乗った2・3人の人間が通りがかった。その人間たちが、愛犬に気付いて、おいでと手を叩く。
きっと、愛犬は生きるのだろう。
きっと、あの人たちは諦めないのだろう。
私は笑って、力を抜いた。
諦めないということは、生き続けること。




