72
ウェインが戻ってきたのは、結局朝方になってからだ。いつ帰ってきたかもわからないから、本当はもっと早くになるのかもしれない。ダイニングのテーブルで、眉間に深いシワを寄せて難しい顔をして頬杖をついているところを見つけて、レイシーは瞬いた。ウェインがそんな表情をするなんて珍しい。そして、すん、と鼻をひくつかせた。
「…………お、お酒くさい!?」
「俺じゃない」
むっつりとした返事である。
(俺じゃないって……じゃあ一体誰が?)
と、聞きそうになったけれど、別にウェインだってハメを外したくなるときくらいあるだろうし、飲んでいたところで正直何の問題もない。「別に隠さなくても」「だから俺じゃない」 だったら本当に誰が、とまで口から出かけて、妙にウェインが不機嫌なことに気がついた。結局のところ、それはサイラスがレイシーにいきなり持ちかけた婚姻話が彼の胸についていたからだが、そんなことレイシーが知るわけがない。
ウェインが何を考えているかわからない。でも普段と違う様子であることは間違いなかったから、それ以上は口を閉ざした。
「なあ」
「……どうしたの?」
なのに今度はウェインから声をかけてきた。小難しい顔は変わらずだったから、ちょっとだけびくつきながら返事をする。何を言われるんだろう。
「……別に、今じゃなくてもいいことだった」
「一体どうしたの昨日から!?」
覚悟の仕損の肩透かしである。レイシーだって叫びたくなる。
そのときウェインはウェインで、暁の魔女に会わせてくれとメイスに泣きつかれたことを伝えようとしたのだが、別に急ぐ必要もないことだと気がついた。非番は昨日まで、ということは今日からはアリシアのもとであくせく働いているはずだ。
(あいつのことだ。冗談半分でアリシア様に土下座をして休みをいただくと言っていたが多分本気だ。さすがに馬鹿な行いは見過ごせんし、こっちもこっちで忙しい。レイシーの邪魔はできないしな)
(昨日からウェインが絶対変なんだけど……。あっ、もしかして手伝わせすぎたのかも……!? そりゃそうよね、いつも甘えてしまっているけど、別にウェインに手伝う義理なんてないわけだし)
ウェインはレイシーの邪魔をしないように、彼女のものづくりに最大限手を貸すつもりだし、レイシーはレイシーで一人後悔が激しく心の中では頭を抱えて転がりながら今にも消えて行きそうだ。
互いに互いのことしか考えてないのに、不思議とすれ違ってしまう。
「とりあえず、ちゃんと寝たか? どうせ今日も朝から殿下の願い事を叶えようって話し合いだろ?」
「いや! 朝からは! そんなことは!」
「違うのか? 俺はてっきり」
「そんなことは……」
「そんなことは」
「あった……けど。でも、ウェインはその、いなくても大丈夫というか」
「邪魔だったか」
「そんなわけない!」
ばしん、とテーブルを叩いて、体を乗り出すように主張した。自然と顔が近くなって、レイシーも、ウェインも息を吸い込んだまま止めてしまって、やってきたのは長い沈黙だった。「お二人とも、何をしていらっしゃるんですか」 ガタガタと互いに転がり落ちるように逃げた。ユキがいることを忘れていた。
いてくれてよかったとなぜかほっとしてしまって、レイシーはそんな自分が奇妙だった。
***
とりあえず仕切り直しだ。
朝ごはんを食べて、どんとテーブルを四人で囲む。そう、四人だ。レイシーとウェインとユキ。そしてサイラスである。
「…………なぜ!!!」
さすがにレイシーは耐えきることができなかった。本人に直接伝える勇気はないので顔をそむけて叫ぶしかなかったが、ほぼほぼ言っているようなものである。「だっはっは!」 サイラスは両手を叩いて楽しそうに笑っていた。
「何、僕は依頼主だからね。君達の行動をゼロから確認しつつ一緒にいさせてもらう権利を持っていると思うんだが?」
そう言うサイラスは断られるとは微塵も考えていないような、一点の曇りもない瞳である。人生が楽しそうだ。自らの意志で勝手にやってきたとはいえ、もてなしもせずに放っておくのはどうだろうと思わないでもないが、何をしたらいいかわからない。困惑するしかない。しかしレイシーがあわあわと困っている間に、ユキはどんっとラベールの実で作ったジュースをサイラスの目の前に置いた。
「どうも、ありがとう」
サイラスの礼に言葉にユキは軽く会釈する程度である。
あいかわらず表情が読みづらく何を考えているのか不明だが、別にユキは使用人としてやってきたわけではない。だからこの場合レイシーがさっさと動くべきだったのだけれど、迷いもなく素早いユキの行動にはどうしても追いつけない。
悩んだところで、もてなしができるものといえばラベールジュースしかないわけで、どうせ悩むのならさっさと行動すればよかったと後悔ばかりだ。
昨日もウェインがいないとき、レイシーとユキは初めて二人きりで食事をした。家に帰って食べるか、それともどこかに座って食べるかと考えて後者を選んだとき、大きな木の陰になるベンチに腰掛けて串焼きを食べたとき、奇妙なほどにユキからの視線を感じた。二人並んで座っているので、この視線はおかしいのでは? と思いつつも、そっと横目で確認すると、体は正面にしたまま、でも首と顔だけきっちりレイシーを見ながらもしゃもしゃ串を食べるユキがいた。なんでだ。ぶっちゃけちょっと泣きそうだった。
(もしや、私への文句が、つもりつもっていらっしゃる……?)
何か言いたいことがったのだろうか。
レイシーが考え込んでいる間にユキはいつも先回りして準備をしてくれるし、歯がゆく感じることが多いだろう。なるほど思い当たるものしかない。家に戻ってベッドにもぐって、うわあと自分の顔を両手で覆いながら死にたくなったが、レイシーにできることは目の前にある目標へ一歩一歩進んでいくことだけだ。人は急激に変わらない。変わるときも、あるかもしれないけど。
レイシーがうじうじしている間に、サイラスはユキがいれたジュースを見て、「これはあれだね、トロンボンの果実だな。久しぶりだな」とコップを持ち上げ確かめている。
「トロンボン? ラベールじゃないのか」
聞き覚えのない単語に、ウェインは眉をひそめていた。レイシーもどこかで聞いたことがあるような気がする。ラベールの別名とか、と考えている間に、レイシーとウェインの前にもジュースが置かれていた。慌ててユキに頭を下げると、ギン、と強い視線で射抜かれそうになった。
ユキから体を隠すように小さくなりつつ、トロンボンというのはなんだったかな、とジュースに口をつけつつ記憶の中のページをめくって、閃きそうになったそのときだ。
「うん、トロンボンは魔物だ。ラベールはトロンボンがならす実のことだな」
レイシーはぶぼっとジュースを吹き出した。思わずウェインも渋い顔をしている。
「……ラベールの実が、魔物からできたものだって?」
「知らなかったのか? トロンボンはとにかく耳がいい魔物なんだが、体から植物をはやしていてな、こう、筒のようなでかい葉っぱがあってな。目立つし動きも鈍いから獲物に簡単に逃げられるんだが、おとりとしてラベールの実をつけている。ラズベリーとよく似ているのは擬態のつもりなんだろう。でも下手にラベールの実がうまいもんだから、逆にそれを目的に狙われる」
はははと笑いながらサイラスはジュースを飲んでいる。なんだか聞いていると切なくなってくるような悲運である。トロンボンとはエハラジャ国特有の魔物なのかもしれない。聞いたことがあるような、と思ったのはきっと本の中でのことだ。さすがにこの国の出身であるユキも知っていたのか、レイシーとウェイン達の反応を不思議そうに見ている。エハラジャ国では常識らしい。
(びっくりしたけど、魔物を食べることは別に珍しいことじゃないものね)
はじめからそうだとわかっていればそれほど抵抗はない。旅をしていれば食べるものに文句を言えないときなんていくらでもあるし、レイシーはもともと食に関する文句は少ない。
話が少しずれてしまった。
「それで、えっとこの国の人達を楽しませるもの、なんですが」
「うん。支援は惜しまないぞ」
サイラスは力強く親指を立てている。「え、ええっと……」 レイシーは彼から視線をそらしつつ、自分の頭の中にある言葉を整理していく。
「あの、まずは氷山にある魔方陣が構築するまでの一ヶ月を乗り越えるということが目標ですから、できれば、今すぐにでも行動したいと思っています。考えていたら、その分時間を使ってしまうから」
エハラジャ国、そして特に氷山の影響を強く受ける首都の住民達は今も苦しんでいる。暑さが逆に心を冷やしてしまうというのなら、一刻も早く行動すべきだ。レイシーの言葉は少なかったが、それなりに伝わるものはあったらしい。三人から静かに重たい空気が返ってくるようだ。
「しかし考えるな、と言われたことろで、正直何も思いつかない」
椅子に座って腕を組み、背もたれにより掛かるようにして声を上げたのはウェインだ。そうだな、とサイラスも頷き、ユキはじっとレイシーを見ている。
「うん。だからね、今できることの全部してみたらどうかな。この国で手に入る道具や持ってきたもの全部を使って、クロイズ国と同じようにお店を作ってみるの。匂い袋や保冷温バッグのような魔道具の他にも、可能なら、食べ物、何でもあるもの」
クロイズ国ではレイシーが作る魔道具はアステール印として知らないものはいない。けれども、この国では違う。もしかしたら目新しく感じてくれるのではないだろうか、という期待がある。
「店ということは……レイシー、わざわざきみが作るのか? それなら僕がいくらでも準備するぞ」
「サイラス様からということでしたら、強制と感じてしまう人もいるかもしれませんので……」
ただでさえ心が疲れているときだ。レイシーの魔道具に興味がないものに無理やり目を向けさせるようなことはしたくない。「うーん、まあ、そうだねぇ……」 サイラスはどうにも歯の奥にものが詰まったような言い方だったが、レイシーは深くは問いかけなかった。「いいんじゃないか」というウェインの言葉に後押しされたということもある。
「あの、サイラス様にはお店を出す許可をいただきたいんです。場所も、可能ならこの家をお借りすることができればいいんですが……」
「それは問題ない。君達が自由にできるようにこの家を買い取っている。うん、まあ無理に与えられるものより、自分で選んで買う、そんな店ができるってのもわくわくするものかもしれないな」
と、いうことで可能な限りレイシーはクロイズ国で作成した道具達を再現した。持っているものはそのまま使い、似た材料があれば取り寄せる。目まぐるしい一週間の時を経て、借りていた家の一階を改装し品を並べた。そうして、始めた『星さがし二号店』の結果は。
惨敗、だった。
***
どうだろうと口では不安なことを言いつつも、正直このままなんとかなるんじゃないかと考えていた自分がいた。クロイズ国ではそうだったのだから、という感情が心の奥底にあったと気づいたとき、ひどく恥ずかしくて、知ったとき、いっそのこと消えてしまいたいくらいだった。
握った拳をレイシーらしくもなく力いっぱい自分の膝に叩きつける。いや、そうしようとして、直前で思いっきり息を吸って、止めた。
客はまったく来ないから、カウンターにのせている道具の一つひとつを確認する。ユキとウェインは人寄せをしてくれているので、この場にいるのはレイシーとサイラスだけだ。
「……保冷温バッグは、夏に暑さをためて冬に、冬に寒さをためて、夏に使うものだから、一年が夏であるエハラジャ国では意味がありません」
だからはじめから店に出すことはできなかった。
「匂い袋は暑さのためにドアや窓を開けっ放しにしているから、室内に匂いがとどまらない。短時間ならともかく、長時間での野外での使用を考えるのなら、改良が必要です。アイスティーだって、単純にものを冷やすという程度のことならサイラス様がすでに実践していることはわかりきっていたことでした。住人はすでに得ている文化ですから目新しさもない。飴細工を作るためには技術が必要です。そもそも、夜ならともかく、つねに真夏のこの国では昼間に出せばすぐ溶けてしまう……」
道具に指をさしながらさらに言葉を重ねていく。その度にレイシーの声が沈んでいく。
クロイズ国と、エハラジャ国は、何もかもが違う。場所も、気候も、材料だって。そもそも道具が足りずに作ることすらもできなかったものも多い。カメラを作るにはプリューム村に戻らなければ無理だろう。それに、作れたところでアリシアに渡した魔術を使用したものならばともかく、通常のカメラは陽の光を使って撮るものだ。野外に行く前提のもとのは住民達が求めるものとは異なる。
「……サイラス様は、こうなることをご存知だったんですね」
カウンターを見つめて、振り返らずに尋ねた。レイシーの背後に立つ男は、そうだな、と静かに答えた。レイシーが今まで作った魔道具を店に出そうとなったとき、彼はどこか気のない返事をしていた。
「僕は、君が作った道具は素晴らしいものだから、万一があればいいとは思っていたけどね。だから止めなかったし、時間があればこの国でも受け入れられるものだと感じている」
けれど、時間がないからとあるものをそのまま流用しようとした。それはレイシーのミスで甘さだ。
(誰かに向けて、作らなくちゃだめなんだ)
相手のことを知って、考えて進んでいく。一番重要なことをレイシーは失念していた。唯一、風鈴だけは店先に飾っていたものに目をとどめていく住民もいたが、ちりん、ちりんとなる音を鳴らすだけのガラスが実際に涼しくしてくれるわけもなく、「不思議な楽器ね」と言われる程度で、飾っておくものだと伝えても中々ぴんとくるには難しかったようだ。
「新しいものを理解するには、時間をかけてか、もしくは情報を伝達するような大きな影響が必要だ」
サイラスの声がしんと響いた。
レイシーが作った魔道具は、匂い袋が社交界に受け入れられたところからが始まりだった。そして聖女であるダナの後押しも大きかった。状況が、あまりに恵まれていたのだ。サイラスが住民達にレイシーの店を勧めることもできるだろうが、合わないものを言ったところですぐに廃れる。
「けれど時間を飛び越えて一瞬で馴染んでいくものもある。そういうものはとにかくわかりやすい。住人の生活に染み込むような、それがなかった生活が想像もできないような」
「なかったことが想像もできないような、わかりやすいもの……」
「そうだ。僕はきみに暑さをごまかすためのものを作ってくれと願ったから、風鈴の使いみちはすぐにぴんときた。けれどこの街の住民が求めているものは本質的にはそうじゃないからな」
サイラスが伝えたいことはわかる。けれどそれを飲み込むことができるかと言われれば別だ。わからなかった。こんなに物理的に距離が遠いことが難しいことだなんて考えもしなかった。
「……私は、この街の人達のことを、何もわかっていません」
「そうだろうね。わかってます、なんて言われる方が嘘くさいだろうさ」
「耳が痛いです」
「僕としてもいいものがあるんならなるべく早く、と願いたいところだが、あくまでもきみは念の為の存在だよ。なんせ、あと三週間、いや二週間と少しの後にはもとの街が訪れる。それまでの辛抱を、辛抱なく暮らせることを祈っているだけなんだ」
「……はい」
「焦らない方がいい。急いでほしい、とはもちろん思ってはいるけど」
無言で頷くしかなかった。
何か、大きなことができるような、そんな気がしていた。でも結局気の所為だった。
沈鬱に顔をふせるレイシーに、通常なら声をかけることすら躊躇するだろうが、サイラスはさくさくとレイシーに近づき、彼女の小さな手をすくいあげるように持ち上げる。
「だからデートしようか」
「は」
あまりにも突拍子がない。レイシーは瞬いた。
「うん。とりあえずデートしようよ。道案内は任せてくれ。なんせ僕はこの国で知らないものはない。王弟だからね。そろそろ僕も飽きてきてしまったよ、外に行きたくてたまらない」
「いえあの、でも……待ってください!」
「客は来ないな。賭けてもいい」
ここ数日の状況から鑑みて、おっしゃる通り、と言いたくはなるが賭ける相手もいない賭けに乗るわけにはいかない。と、眉を引き締めたレイシーにさっくりとサイラスは手のひらを返した。
「でも一応店番は残しておくか」
「み、店番ですか? お店も気になってはいますが、ウェインとユキさんです、勝手にどこかに行くのは……!」
「なるほどたしかに」
じゃあこうしよう、とサイラスは紙と筆記用具を取り出して、さらさら、さらりとペンを走らせる。
「じゃあ行こうか!」
「いやさすがにこれは、あまりにも、どうなんでしょうか!?」
***
レイシーが叫んでからしばらく。
レイシーがサイラスに連れられ、空っぽであるはずの店の目の前には、真っ黒なローブをかぶった魔法使いがあぐらをかいて座っていた。ウェイン達の姿を見て、彼は慌てて立ち上がって、ぺこりと勢いよく頭を下げた。レイシー達を最初こっそりと監視していたサイラスの部下である。
「なんであんたが?」
「店番です!」
「うん、店番か……」
元気に敬礼する魔法使いに神妙な顔で言葉を繰り返した。それより、とウェインは眉をひそめて周囲を見回す。この場には魔法使いしかいない。ウェインの視線に気づいたらしく、魔法使いはそっと伝言らしき紙をウェインに手渡す。
『行ってきます』
「どこにだ」
呟くウェインの手元をユキも覗き込んだ。「いやだから、どこにだ」 その間にウェインは二度つっこんだ。
「だからどこにだ!?」
まさかの三度、叫んでいた。




