53
目標の液体を集め終わったのはあっという間のことだったが、それでもすでにとっぷりと日が暮れていた。というわけで、テオバルドの鍛冶屋を訪れたのは次の日だ。今度はティーもノーイもお邪魔している。ウェインが王都に帰ってしまうまで、あと六日。
テオバルドが作り、できあがっていたレンズは暗い部屋の中で上下左右の像を作った。第一目標の達成である。バチン、と勢いよくテオバルドとウェインは手を合わせていた。レイシーはおろおろしていた。次に作ったものは箱である。こちらは一瞬。あっという間に出来上がる。レイシーも、えいと飛び出し、テオバルドと手を鳴らした。いい音がして、手のひらがひりひりした。そして、スライム液を銀に定着する作業を行う。
銀の配分が難しい。多すぎても、少なすぎてもいけない。ガラスの板の厚み、スライムの量その他、様々なパターンを試した。ここまで来ると泊まり込みである。テオバルドの妻であるポーラが、「あらあら」と微笑みながらも夜食を届けに来てくれて、恐縮するばかりである。とろりとしたチーズがお腹にやさしくて、誰もが貪り食った。ここまでで、さらに二日の残り四日。
大変なことに気がついてしまった。このままだと写したものがあまりにも精密さにかいているという事実に気がついた。問題はレンズだ。だからレンズを一枚きりにするのではなく、薄いものを重ね合わせ従来の予定と同じもの作り、より細やかに写すことをレイシーは提案し、実践。また日が過ぎて、試作し、そして。
「……できた」
レイシーの手の中には、一枚の絵があった。しかし、絵というにはあまりにも精密で、白と黒のコントラストが見事に描かれている。まるで実物を切り取ったような、そんな風景だ。
――いいや、これは本当に切り取ったのだ。
レイシーは、これを写真と名付けた。カメラ<小さな部屋>を使用し、写し取る。思い出を切り取る。忘れないように、ガラスの板に閉じ込める。
「……本当に、できる、もんなんだな」
信じていなかったわけではない。けれど、驚きを隠せない。そんな様子で、ウェインはまるで息を吐き出すように、ゆっくりと言葉を落とした。多分、レイシーだって同じ気持ちだ。みんながみんな、胸いっぱいに空気を吸い込む。ウェインだって、テオバルドだって。ばちん! と全員が手のひらを合わせた。
小さな部屋――カメラの完成だった。
***
「これ……え? これ、しゃしん? って、いうの? これを……ん? カメラ、というものを、使って、撮る……?」
「ええっと、トリシャさん、もう一回お伝えしますね……」
ここ最近、テオバルドさんのところで忙しそうにしていたみたいね、とトリシャに話しかけられた。ウェインは明後日、王都に帰る。そのための帰り支度を行っている。レイシーはカメラと三脚を抱えて、村で写真のテストを行っていた。
なんせこのカメラ、天候や光を取り入れる秒数でまったく写りが変わってしまう。まだまだ試作の段階なのだ。そこで買い物帰りのトリシャと出会った。
トリシャはアレン、双子達の母であり、さらにレインというレイシーとよく似た名前の娘を持つ、四児の母である。そのわりには見かけは若々しく、レイシーのことをよく気にかけてくれている。せっかく会ったんだし、時間があるのならうちにお茶しにいらっしゃい、と誘われていつの間にか家にやってきてしまっていた。
以前のレイシーだったなら、思いっきり首を振って逃げて、けれどもやっぱり確保されて強く否定することもできずに連行されていたのだろうが、今日は自らの意思でやってきた。どっちにしろ連れられているんだなと自分自身複雑な気分になったが、過程が異なればもちろん結果だって違う。トリシャの手作りのジャムクッキーを嬉しくなって頬張りながら、紅茶を飲んだ。ほっこりと優しくなる味だ。
一歳を過ぎたばかりのレインは、「あーーう、きゃうっ」と言葉にならない不思議な声を出している。生まれたばかりの頃をしっているせいか、あまりの成長速度に驚いてしまう。なんたって、立っている。ちょっとガニ股気味だが、ぺこぺこ両足を動かしてレインはトリシャのもとに去っていく。なんというか、すごい。
トリシャはレインを軽く抱えて、レイシーの隣に座った。目を大きくしながらレインを見ていたレイシーに微笑み、「それで一体何を作っていたの?」という質問から、カメラについて説明した。けれどもやっぱり難しいようだ。
いかんせん、写真というものはこの国に存在しない。ないものを説明するというのは難しい。試してみようにも、撮った写真はすぐに見せることができなくて、“現像”が必要だ。当初はスライム液と銀を混ぜるだけで問題がないと思われていたけれどいざ使ってみると、スライムの硬化よりも銀の腐食が早かった。だから何らかの解決法がないかと頭をひねらせ、ライガの唾液ともろもろを混ぜた“定着液”を流してみると撮った写真がそれ以上日焼けすることなく固定化することがわかった。
ライガは擬態能力を持つスライムと同じ、鬱蒼とした森に生息する。スライムを食料とする数少ない魔物だから唾液にスライムと反発する作用があったのだろう。もちろん、ライガのハントはレイシーとウェインが繰り出した。徹夜の体でぼろぼろである。体の声を素直に聞こうと思ったばかりなのに、わくわくとした好奇心は抑えることができなかった。辛い声はすぐに聞こえても、多分これからも楽しい声には負けてしまうかもしれない。すっかり正直になってしまったものだ。
「そうですね……写真、というのは……」
ええっと、と考えて指をくるくるさせたところで、そうだと思いついた。言葉で表すのが難しいのなら実物を見せればいいのだ。試すことはできなくても、以前撮影した写真なら持っているじゃないか、と自分のうっかりさに呆れながらレイシーは鞄の中からガラスの板を取り出した。
「トリシャさん、これが写真です」
「これ……が……?」
なんてこともない、プリューム村の風景だ。人を写そうとすると動くものはぶれてしまうのでまずは動かないもの、となるとただの家や丸太。変わったものだと山茶花も撮ってみた。
ガラスの板に挟まれているから、テーブルの上に置くと、カチリと音がする。トリシャは声もなく瞳を見開いて、幾度も瞬きを繰り返している。
「……絵では、ない……のよね……」
やっとのことで声を出した。そんな様子だ。
「はい、違います。撮るときに太陽の光の状況によって数秒から数十秒の時間が必要ですが、動かないで止まっていればもちろん人でも撮ることができますよ」
むん、とレイシーはちょっとだけ胸をはってしまった。きっとトリシャは驚いていると思った。レイシーだって、ちょっぴりの自尊心はあるのだ。自信を持った作品にびっくりしてくれると嬉しくなる。何を作っていたのと聞かれたときは、きたぞきたぞと心の底では嬉しくなっていたのだ。あぶ、うぬぬ、ほあほあほあ。レインの不思議で、でも可愛らしい声が響いている。ぱちぱちぱち。母であるトリシャの背中を小さな手で叩いている音だ。
トリシャは、ただじっとテーブルの上に置かれている写真を見ていた。そして、ぽとりと一粒涙をこぼした。
「え」
みるみるうちに涙が溢れる。双眸からぽたぽたと大粒の涙がこぼれて顔を歪ませ服の袖でふいて、それでも涙が止まらない。
「とととと、トリシャさん、と、トリシャ、さん……!!?」
一体何があったのだろう。彼女が泣いているところなんて初めて見た。驚かせようと思っていたはずが、すっかりこちらが驚かされた。そしておそろしいほどに混乱している。レイシーは椅子から立ち上がって後退りして、泣き止まない彼女に今度は慌てて近づく。
「ど、どうしたんですか、ごめんなさい、私、何か失礼なことを……!? 本当にごめんなさい……!」
「違うわ、レイシー、違うの。この、この道具が本当に……本当に、すばらしいと思って、しまって……」
それでも声は涙まじりだ。
すばらしい、ということは、少なくとも悪く捉えられているわけではない。なのに彼女は泣いている。ず、とトリシャは鼻をすすって目頭をこすった。
「ごめんなさい、驚かせてしまったわよね。こんな道具があるだなんて。いいえ、できるだなんて驚いてしまって。だから泣いてしまったのよ」
何か、トリシャの言葉が随分遠い場所から言われているみたいだ。褒められていることはわかるけれど。
「……そんな、ことで?」
思わず口から飛び出してしまった。それに気づいて、慌てて口元を押さえた。捉え方なんて人それぞれだから、こんなこと、なんて言葉はトリシャにとても失礼だ。訂正する暇もなく、じろりとトリシャはレイシーを睨む。怒っている。どうしよう、と思うのに何も言えない。けれども、レイシーが考えていたこととトリシャが怒っている原因は別にあった。
「これが、どれだけ素晴らしいことか、あなたにはわからないの?」
「……え?」
トリシャは、一つ一つ区切るように、はっきりと強い口調だった。けれど何を言われているのか、さっぱりわからない。トリシャはふうと短く息を吐き出し、暴れるレインを抱きしめた。「この子は、すぐに大きくなるわ」 母に抱きしめられて今度はレインはきゃっきゃと笑って忙しい。その姿を見ると、小さな子供がミルクの匂いがするというのは、本当なのだなと以前にレインを見て考えたことを思い出した。レインが口を開けると下からは立派な歯が覗いている。
「アレンも、リーヴも、ヨーマもあっと言う間だった。大事に大事にしようとしても、いつの間にかみんな大きくなって、忘れないようにしてもするすると抜け落ちてしまう。あの子達が大きくなることがいつだって嬉しいのに、寂しいの。でもね、この写真とカメラがあったら、あの子達とこの子の姿をこれから残していくことができる。今まで記憶の中にあるのに、わからなくて、悲しかったものを、きちんと残すことができるのよ」
語りながらも、トリシャの瞳は静かにまた涙が浮かんでいた。トリシャが鼻をすすっている間に、レインはトリシャの腕からするりと抜け出した。今度は嬉しそうに、レイシーの膝にくっついている。
「ねえ、もう一度聞くわ。これが、どれだけ素晴らしいことか、レイシーには……わからないの?」
――姿絵を、買った。
王都の露店で、仲間達が描かれた姿絵を買った。レイシーは暁の魔女として真っ赤な髪で、本当の彼女とはかけ離れた姿だったけど、そんなことはどうでもよかった。大きな絵を抱えてふらふらと歩いていたから、空間魔法を使って収納すればいいのにとウェインに呆れられた。でも、自分で抱えて持ちたかった。プリューム村に来てからは屋敷の一番いい場所に飾って、どこか誇らしい気持ちで姿絵の仲間達を見つめていた。
寂しかった。だから、そうした。貴族の形ばかりの妻として迎えられ、魔法使いとしての全てを終えようとしたとき、胸がえぐられるほどの寂しさがあった。だからせめて絵だけでもほしかった。仲間達との思い出を大切に、大切に残しておきたかった。
「……わかり、ます……」
不思議と表情の変化もなく、ぽつりと呟いている自分がいた。
そうだ、レイシーに、その気持ちがわからないわけがない。奇妙に、感覚が曖昧だった。返答してゆっくりと顔が下に向いていく。瞬きを一回して、床を見たとき、勢いよく抱きしめられた。もちろんトリシャに。驚いて顔を上げると、レイシーよりも高い背をしている彼女の顎がゆっくりと肩に乗った。「ありがとう」 こらえきれないような、そんな声だ。震えながらも、力いっぱいに抱きしめられた。
「レイシー、ありがとう……!」
――胸の中に襲いくるような感情が、波のようにやってくる。
ぱちぱちと弾けて、泡になって、ぶくぶくと溺れていく。まだ、飲み込むことはできない。それでも水はきらきらときらめいていて、いつまでも見つめていたいような、けれども怖くて、目をつむってしまいたくなるような。
レイシーは静かに息を吐き出した。それから鼻をすすった。何か声を出そうとして唇が震えていた。気づいたら、自分だってトリシャと同じようにぼろぼろと泣いていた。必死で息を吸って、抱きしめ合って、二人で声を上げて泣いていた。
***
レイシーはウェインとピクニックをすることにした。少し遠出をして、お弁当を持った。もちろんカメラと三脚も持っている。動くものを撮ったらぶれてしまうから、風がないときを見計らわないといけない。難しいなあとため息をつきながら天気を見ながら時間を調節する。
「こんなもんか?」
「うん、そう。大丈夫、いい感じだと思う」
葉っぱや花、なんてこともないものから山を写して木々を撮る。
――ウェインは明日にでも王都に帰ってしまう予定だ。
だから最後にとレイシーが提案した。カメラを持って、写真を撮ろう。別に、撮るものはなんでもいい。ただ、一緒に写真を撮りたい。
「……私が急いでカメラを作らなきゃと思ったのは、きっとウェインとこうしたかったんじゃないかな」
二人で一緒に散歩をして、風景を一つ一つ切り取りたかった。
「……そう思ってくれたんなら、ありがたいことだがね」
もしかするとウェインは照れているのかもしれない。そっぽを向いて答えた。
「それよか、カメラの出来上がりはどうなんだ?」
「上々すぎるよ。もちろん、白と黒以外の色をつけたりとか、時間をかけずに撮ったりとか、まだまだ改良する点はあるけどね。本当にありがとう」
「レイシー、お前、多分天才だよ」
ウェインに言われると、どうだかなあと困ったように笑うしかない。それに一人きりでできることは限られていると知ってしまった。手伝ってくれたテオバルド、ヒントをくれたリーヴやヨーマ。もちろん、ウェインだって。
「……ねえ、ウェイン。昨日トリシャさんと少し話をしたって言ったでしょ」
「ん、おう。礼を言われたんだろう、よかったじゃないか」
こんな話をして、お礼を言われた。そのことをウェインに告げた。ひとしきりトリシャと泣いて、屋敷に戻ってウェインと話をしたレイシーは自分がどんな顔をして、どんな声色で彼に伝えたのか、実はよく覚えていない。
「そのとき、思ったの。自分にとって大切なものが他の人にとってもそうなのだとは限らないと知っているわ。元、になるけど、私の婚約者の彼が、私の杖を汚いものだと言ったときに、そう感じたの。だからテオバルドさんにレンズを作りたいと頼むとき、とっても怖かった」
今までの人生と魔法を捨てるために、レイシーはウェインに自分の杖を燃やすように願ったことがある。けれど、燃やさなくてよかったと何度だって考えてほっとする。
「でも反対に、私にとって大切なものが、他の人にとっても大切で、私以上に大事にしてくれるということもあるのね。……ウェイン、あのとき杖を燃やさないでくれて、ありがとう」
「また懐かしい話をするな。それに俺が燃やすことを拒否したのは一度きりだよ」
二度目にウェインに願ったとき、たまたま横入りがあって話は流れてしまったのだ。それでも、一度目の否定がなければ、きっと今もレイシーは後悔している。
「誰かが大切に思うものを、私も大切にしたい。このカメラが、これからたくさんの人の思い出を撮ってくれたら嬉しい。……もちろん、使い方を間違えれば、嫌な思い出や、見てはいけないもの。そういったものを残すことにもなりうるとは、思うけど」
「そんなもん魔術も同じだ。便利であることと危険なものは表裏一体だろうし、使う側の問題だろう」
「……そうなのかしら。私にはそこまで言い切ることはできないけど、でも、たくさんの幸せを残していくきっかけになったら、嬉しいわ」
最初はセドリックの娘の結婚式だ。彼女は、一体どんなドレスを着ていただろう、と絵に描くことができなくて、それなら何か形に残すものがほしいと思った。その結婚式では、セドリックが娘にこっそりと祝いの品を贈りたいと困っていた。
「これから結婚していく人、全てが幸せになってくれたら私は嬉しい。もちろん、花嫁だけではなくて、困っている人がいれば『星さがし』で、少しでも誰かの力になりたい。それが、私が求めている自由だと思う」
空っぽな自分が嫌だった。だから、何かになりたかった。自分で選択して、自由に生きる。そのためにレイシーはこうしてまっすぐに立っている。
ただ静かに草原を見ているレイシーを、ウェインは少しだけ寂しげな瞳を見せた。けれどもすぐに顔をひきしめ、「それが、お前が出した結論か」と尋ねる。固い声に少しだけ驚いて、レイシーはウェインを見上げた。
「なあ、レイシー。俺はただ、何も意味なく一月の休みをもらったわけじゃないんだよ」
けれども、すぐにもとのウェインに戻った。どう伝えていいものかと困ったような顔だ。
「……ウェイン……?」
「依頼をもらったんだ。期限は一月。それまでに、暁の魔女、いや、星<アステール>の印をつけた品を作る魔道具屋に、依頼を了承させるようにすること。そんなもん知るかと思って、あとは王都に戻って、できませんでしたと適当に投げ出すつもりだったんだけどな」
つまりウェインは、自分の手でレイシーのもとにきた依頼を握りつぶそうとしていた。「それって」「聞け。……俺の依頼主は、想像つくか?」
非難の声をあげようとして、奇妙なことに気づいた。依頼は、星さがしではない。そもそも、星さがしという名はプリューム村以外にはあまり広まってはいないものだ。だからウェインの主は、暁の魔女と告げた。そして、暁の魔女がアステールの印をつけた魔道具を作っているという事実を知っている。暁の魔女であるレイシーの名を、アステールと知っているものは仲間を除けばただ一人。そして、ウェインに命令できる立場にいるものも同じく。
次第に変化していくレイシーの表情で、ウェインも彼女が気づいたことに理解したのだろう。「そうだ」と頷く。
「……俺の依頼主は、クロイズ王。知っての通り、この国の国王様からだ。ついでに言うと、依頼の内容は他国の王子様と婚姻を控えた、娘であるアリシア様についてだ。……どうする、聞くか? もちろん、やめておいてもいいんだぜ」




