[9] 祠の中
九来は、瑠璃を腕の中に抱えなおすと、いきなり大きく跳躍した。九来が人ではないと分かっていても、瑠璃はその速度と跳躍の高さに度肝を抜かれた。
「こわっい!!!」
悲鳴のように叫んだ瑠璃を見て、九来は口元をニヤリと緩めた。
「怖いなら、落ちないようにしがみ付いていろっ」
そう言った後にもっと速度を上げられて、瑠璃は思わず九来にしがみ付いていた。
どんどんと進んでいく内に、浜辺に下り水神の祠の前に降り立った。それは砂浜の続く浜辺から少し奥に入った岩場にある古い祠。
やはりっと瑠璃は思った。ここが静波と共に守っていた祠なのだ。今も、九来はここにたった一人で暮らしている。
「ここなのね……静波と守っていた祠は……」
九来の眉がピクッと動いて目をすっと細めた。
「よく知っているな……お前の前世、海月が守っていた祠と言った方がいいんじゃないのか?」
瑠璃は、九来が言った意味が分からなかった。
「海月の? 私が? 何を言い出すのかと思ったら……バッカじゃないのっ、そんな事あるはずないじゃないっ」
瑠璃が睨んでも、九来の瞳は揺るがなかった。
「今日、お前の中の海月がそう言った。私に復讐するとな……お前の瑠璃玉は渡さんと言った……バカな女だ……お前は既に私のものになり始めているというのに……」
九来は冷めた笑いを浮かべながら、瑠璃の胸元を爪でなぞった。そこにはまだ、瑠璃色の光が輝いていた。
「玉を抱く者が、私に喰われる準備が整えば、自然と胸の瑠璃玉は輝き始め、私を誘う……さあ、いつもの様に、この祠が私の食事の場所になる」
呆気にとられている瑠璃の腕を掴むと、九来は祠の中に足を踏み入れた。町の年寄りが供えたであろう品を踏み散らしながら、九来は奥まで進んだ。
想像していた、というより、夢で見たものよりも、格段にせまいと感じた。岩をくり抜いた様な洞窟になっている祠は、奥行きがあり、何部屋かあったような気がするのに、ここは、5、6メートルで終わっている。
「此処じゃないっ静波とあんたがいた所は、此処じゃないわ……」
振り向いた九来が、瑠璃を睨みつけた。
「長い年月の間に、失われた……静波の部屋も、水神を祭った水晶の部屋も、祠番の詰め所も……何もかもなくなった……全ては、土と岩の中に埋もれた」
切ないような眼差しが、洞窟の奥を見据えていた。その眼差しに、瑠璃は自分まで切なくなってしまう……憎まなくてはいけない、自分の大切なものを苦しめるバケモノなのだと、言い聞かそうとするのに、瑠璃の心は九来の眼差しの先を見つめてしまっていた。
『まだ囚われる……静波との想い……愛しているんだ……』
そう思うと、瑠璃の胸はチクッと痛みを覚えた。それを感じて、瑠璃は己の胸を見つめた。
瑠璃玉が、より一層、輝きを増している……この想いは、九来に対する愛情? 胸の痛みは嫉妬? 瑠璃玉が輝くのは、九来を愛し始めているから……
瑠璃は大きく首を振った。そんな事は認められない……生まれた時から九来に、その身と瑠璃玉を差し出すためだけに生きてきた、そんな女達の悲しい想いを、何とも感じていない九来になど、自分の心はやるつもりはない。
自分の大切なものたちを苦しめている九来になど、心を許したりしないっ、可哀相だと思ってもいけないっ。
瑠璃は、強く心に思った。
その時振り向いた九来の瞳は、銀色に変わっていた。
「昔の事などどうでもいい……今は……お前が欲しい。お前の全てが……心も体も、全ては私の為にあるのだから……」
伸ばされる腕を振り払いたいのに、瑠璃は指一本動かす事が出来なかった。声も出ない……ただ、九来が迫ってくるのを目を見開いて見ているしかなかった。
「お前が欲しい……私だけを見ろ……他の者などに目を向けるなっ。私は、お前が欲しいんだっ……」
九来の銀色だった瞳が、黒に変わる……潤んだような瞳は、瑠璃を切なく見つめ続ける。
「クラっ……」
瑠璃の声が戻った。体の自由も戻ってきた。瑠璃は、体をよじってもがいた、九来の腕を逃れる為に必死にもがいていた。
だが、九来の力は瑠璃がどんなに暴れようが、意に介さないように、そのまま洞窟の床に瑠璃を押し倒した。
「九来っあんた間違ってるっ……欲しいと思っても、無理やりに押し通す事なんて出来ないんだからっ……そんな事してるから、静波を失ったんだよっ」
瑠璃の言葉に、九来の体がビクっと震えた。
「何を言っている……」
九来の低い声は、凄まじい怒気を含んでいた。
「静波は、あんたと一緒に此処を、水晶と水神を守ろうと決めていたんじゃないのっ全てを含めてあんたに愛してもらってると思ってたっ。たとえ女としての幸せが与えられなかったとしても……あんたがいれば、それで良かったんだよきっと……」
九来の瞳が揺れる……静まり返った洞窟の中に響くのは、瑠璃の泣き声だけだった。
「それなのに……あんたは……自分の欲望だけを優先しようとしたんだっ……今と何にも変わらないっ……ヒックッ……あんたはその身に闇を封じたから、今みたくなったんじゃないっ今も、昔も、ただの我儘なんだよっバカっ」
瑠璃は、自由になった手で、九来の頬を思いっきり拳で殴った。横に向いた九来の口から鮮血が滴る。
それでも、九来は怒るでもなく、横を向いたままで、だた瑠璃の腰を抑えているだけだった。
瑠璃は、自分で殴っておきながら、九来の口元から滴る血を、指先で拭った。
「あんたが悪いんだよ……お母さんに何かしたでしょうっお母さんぼーっとしたままで何も話してくれなくなったんだよ……清の事だって、あんたが罠に嵌めたんでしょっ……クラスの皆に私が嫌われるようにしたり……だから……」
「だから、殴った……」
九来がようやく瑠璃の方を向いた。その瞳は黒いままだった。
「そうよっ間違ったことするなら、何度でも殴ってやるっ。早くその手を放しなさいよっ私はあんたの物なんかじゃないんだからっ!!」
九来が低く笑って、その爪を瑠璃の胸に滑らすと、一気に服もブラも引き裂かれた。
「やめてっ」
もう一度振り上げた手は、九来によって簡単に押さえ込まれた。
「そんな御託を並べても、体は正直だな……お前の瑠璃玉が輝いてる……」
瑠璃は、瑠璃色の輝きに眼を移しながら、その色を美しいと思った。
「これは……私の中の海月があんたを愛しく想う気持ちかもしれない……静波があんたを愛した記憶かもしれない……もしかしたら……私自身の想いかもしれない……でも……どれも皆、あんたの自由に出来る想いじゃない……これは、あんたを愛した女達の想いなんだから」
そう言った瑠璃の瞳から、大きな涙が零れ落ちた。
「私には大切なものがいっぱいある……あんただけを想ってる事なんて出来るわけがない。自分の大切なものは自分で守りたいっ。家族も、友達も、幼馴染も……この町も、学校も……大切なものは一杯あるんだからっ……あんただって、大切だったものはあるでしょう……静波以外にも、あったはずでしょう……」
九来の瞳がかげった……何かを思い出すように、左右に揺れる。
「祠番になると言った時……母は泣いた……母一人子一人で育ったのに……私は母を置いて出てきた……父の様に慕った村長も裏切って逃げだした……」
瑠璃は、九来の頬にそっと手を触れた。そうしないと、九来が泣いてしまいそうな気がした。
「ほら……あんたにも大切なものがあったんじゃない……元は普通の人間なんだから」
九来が首を振った。
「なのに……静波との暮らしは……私が思っていたほど楽ではなった……全てを欲する相手を目の前にしながら、ただその姿を見つめるだけの日々は……苦しかった……大切なものを投げ打って選んだ日々は、苦しさで一杯だった……」
九来が泣くっ……瑠璃はそう思って、思いっきり九来の頭を抱え込んだ。泣かないで……瑠璃はそう思う自分が、不思議で仕方なかった。
「静波と普通に愛し合いたかったんだね……あんたにとって……静波だけが全てになっちゃったんだ……でも、それじゃ……ダメなんだって……」
瑠璃の腕から逃れた九来が、キツク瑠璃を睨みつけた。
「お前にっ何が分かる……全てを失った私の何が分かるっ!!」
そう叫んだ九来の瞳は、涙で濡れていた。