[3] 玉を抱く者
夕日が海に沈みかけていた。
瑠璃が生まれ育った町は、海辺の小さな田舎町だ。
高校は町に瑠璃たちが通う普通科高一つしかなく、専門的な高校へは、隣町よりもまだ向こうまで行かなければならなかった。
それでも、この穏やかで海の音が聞こえる町が、瑠璃は大好きだった。
「見て、清っ夕日が沈む……」
「ん? 何を今更……いつも見てるじゃん」
そう言いながら、清は自分の自転車の後ろに乗せた、瑠璃の胸を背中に感じながら、いつもとは違う感激を持って、夕日を見ていた。
ずっとこうして瑠璃と一緒にいたい。幼い頃から一緒にいて、兄弟の様に育ったお隣さん。でも、今は自分の中に全く違った感情が芽生えていた。
今日は、いつもよりそれを強く感じる。瑠璃に早く自分の想いを伝えたかった。伝えて、瑠璃にもそれに応えて欲しかった。
それは、さっき見てしまった保健室での、瑠璃の寝姿のせいだったかもしれない……苦しそうに吐く息は、熱をおび、少し開いた胸元も顔も上気していた……そして、薄く開かれた艶やかな唇からもれた名前……九来……それは、今日転校してきた、怪しいまでに美しい男の名前だった。
なぜ? そう疑問に思うと同時に、全く忘れていた事を思い出した。水崎九来が、気を失った瑠璃を抱上げて保健室へと運んだ事実……どうして忘れてしまったのだろう、忘れるはずのない出来事。
他の男に、瑠璃を抱上げられ運ばれ、清は嫉妬に我を忘れそうなほどだったのに……突然、教室に戻った自分は、それを忘れてしまったのだ。
「なっ瑠璃……お前さ……水崎のこと知ってるの?」
いきなり自転車を停めて、自分の腰に回された瑠璃の手を握った。
「え? 水崎……転校生の事……知らないよ……」
瑠璃の返事に、清は瑠璃の腕を引くと自転車から降ろして、その腕の中に抱きしめてしまった。
「嘘だっ……お前……寝言で、九来ってあいつの名前呼んだんだぞっ……なんで、初めて会った奴の名前なんか呼ぶっ、おかしいだろう」
瑠璃は、清がいきなり自分を抱きしめて、クライの事を聞いている事が理解できずにいた。
「清? どうしたの? 放してっ」
「イヤだっ」
清は、強引に瑠璃の唇に自分のそれを押し付ける。口づけなどした事もない、ただ強引に押し付けるだけ……瑠璃を誰にも渡したくない……清は、なぜか切羽詰った気持ちになっていた。
「好きだっ瑠璃っずっと好きだった」
もう一度、近付いてこようとしている唇を、瑠璃は清の顔を手で押し戻して振り払った。
「清っ、何のつもりっ……こんなの清じゃないっ、清は……清は……」
振り払われた時に、清の頬が瑠璃の爪で切れて血を流していた。それをそっと拭いながら、一緒に瞼も拭った清は、自転車に座りなおした。
「俺じゃないって……じゃあ、どんなのが俺なんだよっ……ただの幼なじみ?」
「…………」
「それでも、俺はお前が好きなんだよっ誰にも渡したくない……」
それだけ言うと、清は自転車を飛ばして逃げて行った。もう、家は近くだし、仕方ないとでも言う様に、瑠璃はトボトボと歩き始めた。
清の気持ちに気づいていなかった……自分は、仲の良い幼なじみとしか見ていなかった。
まさか、口づけられるなど……ファーストキスだったのに……と、清に申し訳ないと思う反面、悲しく思う自分がいるのが、瑠璃にはおかしかった。
「初めてのキスは……好きな人がよかった……清のバカ……」
幼なじみが、明日から何に変わってしまうのか、瑠璃には分からなかった。今まで通りに付き合えるのだろうか……何か大切なものを失った気がして、涙が零れた。
夕日は完全に海に沈んで、辺りに闇が下りていた。
「何をそんなに心を乱している……お前には、私以上に大切なものなどあってはならないのに……」
低くよく通る声が、瑠璃の後ろから聞こえた。この声はクライだと、直ぐにわかる自分はおかしいのかもしれないと瑠璃は思った。
でも、分かってしまう……今日初めて会ったのに、何度も夢で聞いた声は全く同じ低く甘い声だった……静波を愛していると言った時の夢の声も同じ……瑠璃は、自分の中で何かが震えるのを感じた。
「何か用? つけてきたの? クライっ」
瑠璃の直ぐ後ろで、クスクスと笑う声がした。すっと脇から入ってきた腕は、瑠璃の体をいとも簡単に拘束する。
「私だと、直ぐに分かるのだな……玉を抱く者……玉の記憶が戻ったか……」
「玉を抱く者? なにそれっ冗談はやめて放してよっ……」
「放さない……私の物の癖に、勝手に他の男に奪われそうになるなど、放してたまるかっ」
怒気を含んだその声は、瑠璃の耳の直ぐ後ろから聞こえ、体の奥底に甘く強く響いた。
「あっあんたの物なんかじゃないっ……あんた、私をそんな風に言うのは、静波とそっくりだからなの? あんたが殺した静波と……」
そう言った途端、腕の力が緩んだ。
「静波?……お前……静波の記憶を持っているのか……まさか……お前は……しず、な、み……」
震え始めた九来の腕を逃れて、瑠璃は距離をとった。このまま抱きすくめられていたのでは、意識がハッキリしない、体が熱くなって心臓が早鐘を打つように苦しくなってくる。
もっと触れていて欲しいと願ってしまいそうになる。この感情は、きっと恋とか愛とかではなく、獲物を捕らえるための九来の手段……瑠璃は自分にそう言い聞かせようとしていた。
「おあいにく様っ! 私は静波じゃないし、勿論、生まれ変わりとかそんな変な勘違いしないでよねっ。ただ、あんたが人間じゃないって事を知ってるだけっ近寄らないでっ……あんたに喰われたりしないんだからっ」
その言葉を聞いた瞬間、九来の瞳が銀色に輝いた。
「人ではないと……ならば何だ……お前は玉の記憶を持っているのか? それとも……静波の……」
ゆっくりと伸ばされる腕は、闇の中に溶け込んでしまったように漆黒。
ただ、銀の瞳だけが、瑠璃に近付いてくる。
「手の内は明かさないっ私が何を知っているのか知らないのかっ、あんになんか言わないわよっバカじゃないのっ」
腕がぴたっと止まった。同時に、また九来の笑い声が聞こえる。
「玉を抱く者……既に我がものになり始めたか……生まれた時から持っていて当たり前の玉の記憶がなくとも、お前が私に溺れるのは時間の問題……お前が自分の体ごと差し出すと懇願するのを待つのも楽しいだろうな……」
あっという間に近寄ってきた九来は、瑠璃の制服のリボンをするりと外し、ボタンを弾き飛ばしむき出しになったブラの上から、胸の谷間に舌を這わせた。
ドクンと瑠璃の心臓が跳ね上がる。そっと俯いた先に、淡く光る瑠璃色が見えた。
その光を、紅い舌がブラの上から舐め上げている。九来の姿があまりの妖艶で、あまりに美しくて、瑠璃の体は思わず痺れ後ろに倒れそうになる。
「危ない……」
瑠璃の体を抱きかかえた九来は、そのまま瑠璃に口づけた。
上唇をなぞり、下唇を食み……長い舌が口腔を侵す……
「現代の女は、面倒なものを身につけるものだな……」
そう言いながら九来は、瑠璃のブラに指を這わせた。
もう一度、九来が瑠璃の唇に口づけると、瑠璃はそのまま意識を手放した……
「玉を抱く者……お前は、静波ではないのか……瓜二つ……静波……もしも、お前なら……この恨みは晴らさせてもらおう……こんなに……愛して……のに……なぜ……」
怒りに満ちた、銀の瞳が涙を零した。