[23] ゼリア
大きな天使像が造っていた泉は、潜ってみると、一瞬冷たいと思ったのに、直ぐにとても心地のいい温もりが感じられた。あまりに心地よくて、自然と体を丸く抱くようにし始めた瑠璃の手を、九来が引いた。
瑠璃は、手を引かれる感覚にそちらに目をやると、九来が首を振っているのが目に入った。
『瑠璃っしっかりしろっ。そんな風にこの泉に身を任せたら、直ぐに生まれ変わっちまうぞっ……お前の親とは別の人間の下へなっ。ここは命の泉だ、人が入る事は出来ないんだよ』
瑠璃はその言葉に、怒りを感じると共に、意識がはっきりとしてきた。
『ちょっと、始めに言っておいてよねっそんな大事な事っ』
『お前が、ぼんやりしてるからだっ九来は平気だったぞっ』
『…………』
『いつまでも、物見遊山みたいじゃ困るんだよっこっちは命が掛かってるんだっ』
瑠璃は、むっとしたが、確かに何となく天界に来てから目新しい事に、楽しんでいるわけではないが、落ち着かない気分で周りを見回していたかもしれないし、九来が一緒にいてくれることに安堵しすぎていたかもしれない。
『あんまり瑠璃を責めるなっ……僕の体には天界の者であるお前の力が残っているが、瑠璃の力は瑠璃自身のものだ……少しの違いはあるだろう』
シーバは苦い表情をしたが、直ぐに手をひらりと動かすとその身を水に変え、瑠璃と九来を包み込んで泉の中を進み始めた。
水に変わったシーバの周りを闇が覆い隠している。輝く水に、暗い闇が不思議に交じり合って溶け合っているように。九来には感じられた。
自分が抱きかかえている瑠璃を、そっと見つめた。瑠璃もまた、シーバとその周りで交じり合う闇を見つめているようだった。
『シーバ……お前は、瑠璃がなぜ、神にも匹敵するほどの力を持っていると思う? それを不思議とは思わないのか……』
『クライ、何をいきなりいい始めたかと思ったら、そんな事……瑠璃が生まれた時から持っている能力に瑠璃玉の力が合わさって、必要以上に強くなっただけの話だろーがっ』
九来は、左手でシーバの水をスーッとかいた。やはり、シーバの輝く水と暗い闇が溶け合うように交じり合う。
『ちょっ止めろっ。それは俺の体なんだぞっ勝手に触るんじゃねーよ』
『悪い、ちょっと不思議な感じがしたもんだから……ところで、今のシーバの仮説は間違ってる……瑠璃の力がこれ程に強いのは、瑠璃には大切にしたいものが沢山あるからだ。そして、今、瑠璃は僕を……心の底から守りたいと思ってくれている』
『そうよ、シーバ……私、九来を愛しているの……絶対に離れ離れにはなりたくないし、九来を失いたくないわ……九来を失わないためなら、私はどんなものよりも強くなるのっ……瑠璃玉は、九来を愛する力で強く輝くわ……』
瑠璃も、九来がしたのと同じ様に、シーバの水を手でかいた。やはり、水と闇は溶け合った。
『失わないために強くなる? そんなものは、限られた命しかない人だから考える事。俺達には関係ないね……俺達の命は永遠なんだ……ある時、突然、ご主人様方の意向で消される以外はな……誰かの為に、何かの為に強くなったって、それが永遠に続くなんて有り得ないんだよ……夢物語さ……』
『ふーん……だから食べちゃったの……愛しい彼女を……』
『……ああ、喰らっちまえば離れることも、思い煩う事もないからな……』
瑠璃と九来が、二人揃ってシーバの水の体に手を突っ込んで、水と闇を混ぜ始めた。
『っ……クソっ何しやがるっ。そんな事したらっ……』
『そんな事したら、どうなんだ?』
クライの冷静な声が聞いた。それに被せるように瑠璃も言う。
『ねっいつになったら、紹介してくれるの?……それとも、私達にまで隠せるとでも思ってんのっ馬鹿シーバっ……』
『……チッ……いつから知ってた……』
『さっきからかな、この泉に入ってからだ……こんなにも自然に、こんなにも美しく水と闇が溶け合うのは不思議だ……』
瑠璃と九来を包んでいたシーバの水は、その姿を元の形に戻した。
『到着だ……魔界に入る……今の話は後だ……』
『ああ……』
三人は、水面に向けて上って行った。
三人は、水面に顔だけ出し辺りをこっそりと窺った。目の前には大きな鉤爪が見えた。その鉤爪に向かって、沢山の水が滝の如く落ちてくる。
ここも、天界と同じ様な泉なのだろうかと、瑠璃は興味津々で鉤爪の上部を見ようと首を動かした。慌てて九来が引き戻したが、瑠璃にはその像の全貌がはっきりと見えた。
真っ黒で大きな天使像……ただ、顔が鳥のタカに似ていると思った。どうりで、指先に鉤爪が付いているはずだと、変に感心する瑠璃だった。
『おや……久しぶりではないか、ゼリア……何千年ぶりか? 相変わらず美しい……久々の里帰り……あまり楽しくはないかも知れぬぞ……』
「ええ、知っておりますわ……なんでも魔界に人がやって来ていると……とても力が強いそうではございませんか、大天使様」
黒いタカの頭の大天使像が笑ったような気がした、瑠璃だった。大天使が微笑んだ先には、黒く長いドレスに身を包んだ、長い艶やかな黒髪の女性の後姿があった。
『知っていて戻ったと……あの女人と戦うつもりかな……その天界の銀竜、そして瑠璃玉を抱く者とその連れ合いとともに……』
瑠璃と九来は、一瞬ドキッと心臓が飛び上がった。黒いドレスの女は、小さく首を振った。
「いいえ、大天使様……私は、私が必要とされるところに参りたいと思っております……その為に、その女人と会う必要があるだけ……戦う気は……」
『そうか、ならば行くがいい……だが、今宵は月が出ている……気をつけねばな……私は、今宵見た事は、嘘はいわぬ……ただ、今宵ここへ私を訪ねるものはいないだろう……』
「はい、大天使様……」
黒いドレスの女が振り返った。
それは見事な艶の黒髪にふちどられた、見事なまでに整った顔の豊満な美女だった。瑠璃は息をするのも忘れるほど、見惚れていた。
「さあ、参りましょう……大天使様のお気が変わらぬうちに……」
差し伸べられた手を、迷わずにシーバが握って泉から出ると、すかさずその腕に抱きしめて、熱い口づけを交わした。
「ゼリア……あの頃のままだ……」
ゼリアがくすっと笑った。
「当たり前だわっあなたの中で生きていたのだもの……でも、こうしてあなたの中からでてしまうのは淋しいわ……また、一つになりたい……」
もう一度、深く口づけてから、シーバがゼリアも瞳を見つめた。
「また直ぐに……一つになれる……永遠に……」
シーバのセリフに赤面していたのは、泉から上がったばかりの、瑠璃と九来のほうだった。
「さっ行くぞっ」
二人は、シーバに声を掛けられるまで、呆然としたままだった。
瑠璃は、九来に抱き寄せられ抱えあげられながら、瑠璃玉の光を隠すために密着している九来の胸から、ドクドクと大きな音がするのを直に自分の胸で感じた。勿論、それは自分の鼓動をも九来に伝えているのだと思い当たって、考えるだけで、もっと心臓はバクバクと音を立てた。
「お前らが考えてる、一つになるってのとは違うからなっ……すけべ野郎……」
深い森へと入っていくシーバが、前方から小声で言った。