[17] 美味しい
九来は、瑠璃の指を口に含んだまま、真っ直ぐに見つめてきた。
「何が、や……なんだ」
「こわい……」
クライの瞳がすっと細くなった。
「怖い……何が? 私に喰われそうだから?」
「……ちがっ……」
瑠璃は目に涙を浮かべながら首を振った。
「なら、何が怖い……」
相変わらず、九来は瑠璃の指を咥えたまま、話をしている。
「指が……溶けてなくなっちゃいそう……体も……熱くて……このままじゃ、全部溶けちゃう……怖いのっ」
九来は、瑠璃を見つめたまま微笑んで、そのまま瑠璃を自分の腕の中に抱えた。
「玉を喰らうことよりも……もっと欲するものがある……この熱は、お前を溶かすほどの、この熱は……それを欲する熱だ……」
「な、に……」
「お前の全て……お前の全てと繋がりたい……玉など、どうでもいい……魅力的に輝いているだけだ……それは、お前を引き立てる宝石としてのみ、存在する……」
九来は、瑠璃の指を口から引き出し、自分の指と重ねながら胸の谷間にそれを這わせた。
「九来……」
瑠璃を見つめる九来の真っ黒な瞳は、優しく微笑んでいた。
瑠璃は、その意味を考えて、顔に火がついたんじゃないかと思えるほどに火照った。
全てを九来に与えるという意味。
繋がるという意味……考えただけで、からだの芯が熱くなった。
九来は、瑠璃に優しく口づけたあと、可笑しそうに笑った。
「さあ、今は瑠璃の持ってきてくれたものを食べ事にする……全てを貰うのは、今でなくていい……今日は、瑠璃も疲れてるんだから、早く帰らないと」
九来から解放された瑠璃は、呆然としながら、自分の持ってきた弁当に向かって箸を伸ばし始めた九来の姿を、見つめていた。
九来が玉子焼きを箸で突き刺して眺めている。
「瑠璃? これは何?……甘くていい匂いがする……」
「玉子焼きだよ……九来、知らないの? お弁当の定番なんだよ」
九来は、小さく首を振りながら笑っている。
「瑠璃、私がいったい何千年前の人間だと思ってるんだ。私が人だった頃に、お弁当などなかったし、こんな玉子焼きなど見た事もない……」
瑠璃は、笑いながら玉子焼きを口に運ぶ九来を、複雑な表情で見つめていた。
「……あっまい……」
瑠璃の顔が歪んだ。
「まずい……」
九来は玉子焼きをもう一つつまみ上げると首を振った。
「美味しい……」
そういった後、九来の瞳から涙が零れた。慌てて瑠璃は九来の横に行って背中を叩いた。
「喉に詰まったの? 無理して食べなくていいよ……」
九来が、瑠璃の手を握った。
「違う……喉に詰めてなどいない……ただ、嬉しくて。人と同じものが、瑠璃の作ってくれたものが食べれる事が嬉しくて……」
瑠璃は九来の言葉を聞いて、九来が持っていた箸を取り上げると、マカロニサラダを取って九来の口に運んだ。
「食べて、これはマカロニサラダ。気に入ってくれたらいいけど」
九来は、しっかりと味わうように口を動かす。
「美味しい……瑠璃は、その棒を上手く使えるんだな」
瑠璃はクスッと笑うと、箸を持った手を九来の目の前に持って行った。
「これはお箸、食事をするための道具よ。日本人は、このお箸を上手に使って食事をするの。九来もやってみて、教えてあげるから」
九来の手に箸を握らせ、掴み方を教え始めた瑠璃は、とても楽しそうだった。反対に、九来は必死になって、箸と格闘しなくてはならなくなった。
「瑠璃……さっきみたいに食べさせてほしい……せっかく瑠璃が作ってくれたのに、美味しさが分らないっ」
瑠璃は、眉間にしわを寄せて、わざと怒ったような顔を作った。
「もうっ、甘えちゃだめですよっ」
そんな事を言いながら、自分は既に笑っていて、九来から取り上げた箸で、九来の口元に御飯を運んで行った。
「はい、あーんっ」
九来は、不思議そうに瑠璃を見つめた。
「なに?……」
「ほらっ、あーんって言ったら、口を開けるのっ」
九来は、言われたとおりに口を開け、瑠璃に食べさせてもらった。
「やっぱり、食べさせてもらった方が、美味しい……」
二人は笑いあいながら、最後の一口まで瑠璃が九来に食べさせてやった。
瑠璃は、弁当箱を片付けながら、ふと考えていた。九来は、人として生きるなら、今の時代の事を知らな過ぎる。勿論、今までは何も問題はなかっただろうが、これまでとこれから、何が違っていくのか、分かっていなければ九来を助けていく事もできない、瑠璃は自分がしっかりしなくてはと思った。
「ねっ、九来は寝るときはここで寝ていたの?」
九来は首を振った。
「いや、寝ることはない……千年に一度、玉を喰らう時、意識を失う事はあっても……眠る事はなかった。眠たくない」
「じゃあ、今は? 今も眠く無いの……」
うーんと言いながら、九来は目を閉じた。
「疲れている……昔の記憶を辿れば、これが疲れているというものだったかと思えるし、眠いんだと思う……けれど、寝てはいけないと言われれば、決して寝ることはない……そこまで、眠くはないと言うことだろうか……」
九来にも、今までの何千年もの自分と、今の自分の違いが今ひとつ分かっていなかった。すっと手を上げ、洞窟の隅に転がっている大きな岩を持ち上げようと、力を注いでみる。
岩は、すっと浮き上がり横に移動して、ゆっくりと下の降ろされた。
「銀竜の力が残っている……だから、今まで通りではなくとも、人と全く同じでもないって事だろうな……」
瑠璃が九来の顔を覗くようにしながら近寄ってきた。
「ならさ、お弁当食べても大丈夫だった? お腹痛いとか、気分が悪いとか……」
九来は瑠璃の頭に手を乗せると、優しく撫でた。
「心配しなくていい。美味しかったし、体も何ともない。ただ、人と同じ様には腹が減らないのかもしれない……でも、食べるのは楽しい……瑠璃が作ってくれて、一緒に食べられるならな」
瑠璃は嬉しそうに微笑んだ。
「良かった……ねっ……ほとんど人間と変わらないなら、同じ様に生きようよ……こんな所に一人なんてダメだよ……」
「でも、行くところなどない……」
瑠璃は、ニヤッと笑うと、自慢げに顎を上げた。
「私にいい考えがあるっ」
九来は不安げに、瑠璃を見つめた。
「いいじゃないっ、どうしてダメなのっ! 悪い事するわけじゃないわっ」
九来は、自分の腕を引っ張りながら駄々をこねている瑠璃に、溜め息を付いていた。もう何度話しても、堂々巡りだった。
「ダメだ……私は一度、お前の母に力を使っている……勿論、悪意からだ。もう一度、お前の大切な人に、力を使うことは出来ない……他の人たちも同じだ……」
瑠璃は、自分たちのまわりの人間に、もう一度、力を使って九来が元々存在したかのようにすればいいのだと言った。だが、九来は納得できなかった。瑠璃を自分のものにするために、汚い手を使った……同じ事をもう一度する気にはなれなかった。
頑なに拒否する九来を目の前にして、瑠璃はとうとう泣き始めていた。
「そんな事言ってたら、私達、一緒にはいられないよっ。今の世に中は、昔とは違うの。戸籍ってものがあって、全ての人が書類上で管理されてる。戸籍がなかったら、学校にも行けない、仕事も出来ない、結婚も出来ない……どうして分かってくれないのっ」
瑠璃は、九来の胸に縋って泣いた。泣けば、九来が頷いてくれるとでも言う様に、泣き続けた。
「瑠璃……瑠璃は、今までどおりでいいんだ。私はここにいるから、いつでも来るといい……洞窟は崩れないように守っておくから……」
優しく諭すように言う九来から、体を離すと、瑠璃は九来の顔を見上げて睨んだ。
「九来は、私の全てが欲しいと言ったっ……それは……それは体を重ねるって事でしょう……それで……それで……」
そこまで言って、瑠璃は言葉に詰まった。
「るり?」
ぐっと、九来の腕を握り締めて、唇を振るわせた瑠璃は、やっとの思いで口を開いた。
「それで……赤ちゃんが……でき、たら……その子はどうなるの……戸籍がなければ、どうなるの? 九来と一緒に一生ここで暮らすの? 私は? ねって答えて……」
九来は瑠璃の言葉に、目を閉じた。九来には理解できない事……銀竜の力を持っている九来には、今の世の中の事も少しは理解できていた。一度目にした情報は決して忘れる事はなかったし、人間よりも多くを瞬時に学ぶ事が出来た。でも、暮らしていくための細かな術を、九来は知らない。
今直ぐに、瑠璃に答えを出してやる事はできそうになかった。
今、九来は改めて、瑠璃と共に生きるための方法を考えねばならないことに気が付いていた。自分が人であった、大昔とは何もかも違うのだから……瑠璃の為に、共に生きるために何をすべきか考えねばならなかった。
「瑠璃、今夜は帰るんだ……直ぐに答えを出さなくても、困る事はない。私も考えるから……お前と共に生きる方法を。だから、今夜は帰るんだ、送っていく」
九来は、瑠璃の腕を掴んで立ち上がらせると、出口に向かった。
「九来……一緒にいたい……」
瑠璃がその場に立ち止まってしまった。
「私も、一緒にいたい……でも、瑠璃の大切な人たちが、きっと心配している。だから、もう帰ろう……」
九来が、自分の両親の事を気遣ってくれている、そう思うと、さっきからの九来の言葉が、思い出される。自分の両親を大切に考えてくれている……自分の方が、よっぽど酷い事をしようとしているのかもしれなかった。両親の記憶を書き換える事を考えていたのだから。
でも、そうでもしないと、九来とは一緒にいられないと、そうも思った。瑠璃にも、もう答えは出なかった。
「うん、今夜は帰る……」
九来は、ふわりと瑠璃を抱上げた。
「じゃあ、行こうか……しっかり捕まってて」
祠をでると、九来は一気に跳躍して、国道へと上がった。そっと瑠璃を地面に下ろす。
「ここからは歩こうか……」
「うん、夜の散歩だねっ、これなら、もう少し九来と一緒にいられる」
嬉しそうに九来の手をとった瑠璃は、繋いだ手をぶんぶんと振りながら歩き始めた。
「瑠璃っ!!!」
二人の歩いていく方向から、怒鳴り声が聞こえた。
外灯の下に姿を現したのは、瑠璃の父親だった。