矢野口光③
その日のうちに来た。佐井君に絵を教える時間が。本当に来たのだ。
これっぽっちも期待していなかったけれど、少ししか希望を持っていなかったけれど、それなり望んでいたけれど、すっごく願っていたけれど、嬉しい時間が来たのだ。
それは美術の時間。美術室の中で席は自由に各々何かの模写をするという課題だった。
私はいつも通り、一人で黙々と絵を描こうと席を立ち、教室の隅へ移動したときだった。
「矢野口。早速教えてよ、絵」
「え、あ、うん。いいよ」
自然に佐井くんは隣に座る。もともとここが佐井君の席だったのかなと錯覚する。
机に画用紙を広げ、ペンを並べる。
「で、どうしたらいいかな?」
「ま、まず、大雑把でいいから大体のレイアウトを決めて……」
何を話したかあまり覚えていない。多分ちゃんと絵の描き方は教えられたんじゃなかな。それは多分大丈夫……なはず。
多分大体教えた後は、それぞれ黙々とペンを走らせる。
二人並んで。
後で他の女子からなんか言われるかもしれないけど、まあいいや。絵を教えたって言えば、それで納得するんじゃないかな。私と佐井君に何かがあるとは思わないだろう。実際何にもないんだからか。
邪念が頭を過ぎりながらも、絵を描き終え、佐井君を確認すると、ちょうど終わったようだった。
「ありがとう」
「い、いえ。これくらいは別にどうってことないよ」
「そうかな。すごいと思うよ」
「あ、ありがとう……」
褒められるのに慣れてないから、リアクションに困るな。ちゃんと会話になっているかな。語尾が小さくなってしまう。
提出の時間まで少し余裕があったので二人っきりで話をした。
佐井君の趣味はミステリー小説を読むことらしい。私も今度読んでみようかな。そろそろライトノベル以外も読んでみよう。
そしてさっき言っていた佐井君のお姉さんのことを聞いた。二個上だから三年生のお姉さんだ。校内でも一二を争うほどのきれいな佐井先輩がそうだった。あの佐井先輩が佐井君のお姉さんだなんて……少し驚いた。
佐井って苗字はそんなにいないけど、なぜだか結び付かなかった。素敵な姉弟だと思う。
佐井君自身はイケメンってわけではないけど、まあ顔は整っていると思う。もしかしたらお姉さんの情報が入ったから全体のステータスが上がったのかもしれない。お姉さんバフというのだろうか。まあ言わないよな。
私は一人っ子。なんかうらやましいな。お姉さんと待ち合わせとかしてるんだ。いいなあ。私も佐井君と待ち合わせしたいな。あ、これは姉弟とか関係ないか。佐井君との待ち合わせがうらやましいだけだ。
時間になったので、二人で先生の所へ絵を提出しに行く。
「ありがとう」
「ううん。こちらこそ」
言葉をそれだけ交わすと、それで終わり。二人は別々にクラスへと戻った。