南麗奈①
憧れの人って誰にでもいるはずだ。
それはテレビの向こうの人だったり、別の時代に生きた人、はたまた別次元の登場人物かもしれない。
何かきっかけがあって、あの人のようになりたいだとか、あの人に近づきたいと思うものだ。
私にもいるけれど、案外身近な人。身近だけど、遠い人。
もはやそれは憧れではなく、単なる好意かもしれない。
まだ数回しかあったことがないのに、会話なんてろくにしていないのに、そばにいたいと思う。もっと知りたいと思う。
そう思うと、胸が痛くなる。これは呪い。かけられてうれしい呪い。
だと思っていた。
□◇■◆
「佐井って彼女いるんだって」
夕飯の時にお兄ちゃんが話題の一つとして突然言い出した。
「あんたも彼女の一人ぐらい連れてきなさいよ」
お母さんがお兄ちゃんをからかう。
「うるせー」
お兄ちゃんがそう返すとその会話は終わった。
本当に何気ない会話。今までもこんな小さい話題がたくさん出ては消えていった。それが私の家の食卓だった。
でも私の中で、その話題は全然終わらなかった。むしろ何かが始まった。いや、崩れたのか? つまり崩壊が始まったのだろう。
ぐるぐるぐるぐる頭の中を、心の隅々をお兄ちゃんの放った言葉が巡る。
頭が真っ白になった。いや、真っ黒かもしれない。でも間を取ってねずみ色ってわけにはいかない。極端なのだ。真っ白か真っ黒のどっちかになった。
「麗奈、何ボーっとしているの」
ハッとした。お母さんが私を現実に連れ戻す。
箸を持つ手が止まっていたようだ。
「な、なんでもない」
「早く食べちゃいなさい。食器洗いたいから」
「はい」
お兄ちゃんは早食いだ。もうとっくに食べ終わってテレビを見ている。
私はまだ半分くらい残っている。さっさと食べちゃおう……って思ったけれど、大好物のハンバーグが喉を通らない。
あれ、泣きそうだ。やばい、見られたくない。
「今日ちょっと、もういいや」
箸を置き席を立つ。自分の部屋にそそくさと向かう。
「ちょっと麗奈。ハンバーグよ。いいの?」
「うん、今日はいいや」
「熱でもあるんじゃない?」
「多分大丈夫。少し横なる」
「体温計持っていくから、布団で寝てなさい」」
「ありがとう」
部屋に戻り、布団に入る。頭までかぶる。
お母さんに言われたから布団に入ったわけではない。外界とシャットダウンするためだ。
布団の中は一人っきり。私以外誰もいない。
涙があふれた。止まらない。止まる気配がない。
「麗奈、大丈夫? 具合悪い?」
お母さんが入ってきた。
「大丈夫。体温計、そこ置いておいて」
「わかった。熱あったら言うのよ」
「はい」
これは熱ではない。わかりきっている。でもそれが何なのかは言いたくない。認めたくない。
佐井さんのことを思い出すと涙が出る。涙が出るのに佐井さんのことを思い出す。
佐井さんは憧れの人。憧れなんだから彼女がいようが関係ない……はず。
認めたくない。認められない。
でももう無理みたい。
私は佐井さんが好きなんだ。それを憧れという言葉を使って自分の思いから目を背けてきた。
そのツケが回ったようだ。私は佐井さんが好き。
そしてこの思いは失恋。避けようのない事実。辛い。
これは呪いだ。かかりたくなかった呪いだ。