セクター3
俺達は慎重に進む。セクター3は今までとは違い、薄暗く不気味な雰囲気になっている。某ゾンビゲームに出てきそうという表現だろうか。
小綺麗だったセクター1から少しずつ奥へ進むほど崩壊が進行している。照明は一部しか生き残っておらず、点滅を繰り返すものもある。剥き出しの配線が天井から垂れ下がっている。
一体の何の研究をしていたのかわからない不気味なラボが並んでいる。先に進むほど、機密度の高い研究をしていたのだろう。
誰も一言も喋らない。ここからは音を立ててはいけない。アバランチに認識されないためだ。
俺は手で止まれと合図をする。壁から少し覗くと、そいつが立っていた。
暗い中で淡く発光する流線型の身体。アバランチだ。
俺が今どれだけ通用するのか試してみたい気持ちはある。俺の全盛期はアバランチ3体に囲まれて回避を続けた。
しかし、ここはやめておく。仲間の安全のためでもある。今は一刻も早く飛空挺を手に入れるべきだ。
アバランチが移動したのを確認して、仲間に再び合図を送る。
俺はこの後、襲ってくる可能性があるヘルハウンドのことを考えた。ヘルハウンドはアザール教イベントのラスボスだ。ゼーラ教会のイベントで戦うことになる。
一応、俺もゲームでは倒しているので、ミレニアム懸賞イベントではない。しかし、無理ゲーがスタンダードのLOLで、ヘルハウンド討伐はそれを超える難易度となる。
攻撃力が異常であり、300レベルを超えている防御特化キャラにバフをかけて、最強防具で固めても一撃死する。かするだけで即死する。もちろんポチやドラクロワでも即死だ。
防御力は高くないが、最大HPはかなり高い。素早さは300レベルのプレイヤーより高い。
何より巨大なので、回避がしづらいのが問題だ。速くて即死とか、鬼畜過ぎる。
スキルは近距離物理ダメージが多く、特殊なものはほとんどない。唯一、HPが残りわずかになると、七つの大罪系状態異常、『憤怒』になってくることくらいだ。
七つの大罪系の状態異常を使えるのだから、ヘルハウンドは悪魔の一種だ。奈落に行くとヘルハウンドの話が出てくる。
現状、ヘルハウンドに勝つことは出来ない。だから、何とか戦わないで済む道を探さなければならない。
俺は分岐路についた。ここを右に進めば、セクター4の開かずの扉がある。ゲームでも開けられたことのない永遠の謎。
そこには何があるのだろうか。この研究施設の意味がわかるのだろうか。
ゲームでは絶対開けられないパスコードで守られた扉だ。しかし、俺は既にその開け方を知っている。現実になったからこそ、方法がある。
開ける鍵となるアイテム、デストロイヤー。
騎士団長カーマインの両手斧だ。破壊不能オブジェクトさえ、破壊が可能な装備。
ドラクロワがデストロイヤーをもらってきたおかげで、俺達はあの扉を破壊できる。
しかし、破壊不能オブジェクトが破壊できると言っても、厚い金属の扉を破壊するには、かなりの時間がかかるだろう。
この静かなセクター3で大きな音を何度も立てれば、間違いなくセクター中のアバランチがやってくる。マルドゥーク達、アザール教の懸念もある。
いつでもまた訪れることが出来るのだから今は先を急ぎ、一刻も早く飛空挺を手に入れるべきだろう。
俺はセクター4への好奇心を断ち切って、先に進んだ。第六実験室という部屋に入った。そこには緑色に光る液体に満たされた巨大なプールのようなものがあった。
「少しいいですか?」
ヘルマンがそう言って、プールの横にあるデスクの書類を眺める。
「これは……かなり強力な酸ですね」
俺もゲームでこの酸のプールに落ちて、即死した記憶がある。嫌な思い出だ。この部屋以外にも酸のプールはいくつかある。
中にはアイテムを手に入れるために、酸のプールの上で細い配管渡りをするイベントもある。その状況でアバランチに狙われる。綱渡りしながらアバランチの遠距離攻撃を回避し続けるなんて無理ゲー過ぎる。俺は何度も落ちて酸で即死した。
天井にはいくつかのパイプがあり、そこから酸や希釈するための水が自由に出るらしい。そうヘルマンが説明してくれた。
「こんな危険なプール用意するなんて、何の実験してたんだ?」
ドラクロワが素直な疑問を口にする。ヘルマンは少し俯いて答えた。
「私には、残念ながら分かりません」
ヘルマンが書類に目を通す。メガネが反射していて、彼の目は見えない。
「……またこの男ですね」
ヘルマンがどこか悲しげに呟く。その書類に記されたサインを指でなぞる。
「私には、彼の研究論文を読むことができません」
ヘルマンが書類を机に置く。少し様子がおかしい。
「私は……ここにくる度に、自分の非力さを呪いますよ」
「マスター……」
ラブちゃんが何か言いかけるが、ヘルマンが止めた。
「必要ないよ、私は認めているんだ、自分が凡人であることを、彼のようになれないことを」
ヘルマンは俺の方を見た。そして、自虐的に笑う。
「君にはわかるかい? どう足掻いても敵わない相手がいる気持ちが、私はこの男の、レンブラント博士の論文を理解することが出来ないんだ、彼は、私よりも遥かな先を行っている」
幻の科学者。この研究施設の所長、レンブラント。ヘルマンは彼の才能に自分を比べている。
俺には、その気持ちが分からない。敵わなければ、敵うようになるために、動き続ければいい。それが一般人からしたら、壊れた発想だという自覚はある。
リンがヘルマンに向けて、口を開いた。
「私は……私はその気持ち、わかる」
リンは俺をちらっと見た。あの時の回避術を見て、自信をなくしたのだろう。下手に回避術を知っているから、その差を自覚できてしまった。
「でも、私は死ぬまで追い続けると思う」
ああ、分かっているよ。だから、リンは俺と同じ土俵に立てた。
彼女は折れない。どれだけ差を見せつけられても、その差を埋めるために走り続ける。
「私は君のように強くはなれないよ」
ヘルマンは寂しそうに笑った。
全員が俺やリンのような考えをするわけじゃない。諦めることで救われることもある。
「ここの技術はこの世界で最も進んでいる、私は一度ここに訪れたとき、書類をいくつか持って帰って研究をしたんだ、しかしね、私には何も分からなかった」
この研究施設の所長、レンブラントはゲームでも名前しか出てこない。実際に登場しないキャラだ。そもそもこの施設が何のためにあるのかもゲームでは判明しない。
この一連のイベントは幻の科学者イベントと呼ばれている。それはヘルマンの固有イベントだ。
それをクリアしても、ヘルマンは結局、彼の領域には辿り着けないという結末で終わる。謎の人物、レンブラントを神格化して、謎を残して終了するイベントだ。
「彼の見ている世界は私とは違う、この研究論文を理解するための土台がいくつもある、そのてっぺんだけを理解しようとしても、到底無理な話だよ」
ヘルマンは書類を鞄にしまった。諦めるのだから捨てればよい。それが出来ないのは、彼の中にまだ未練があるのかもしれない。
「暗い話をしてしまってすまないね、先を急ごうか」
ヘルマンはあえて明るくそう言った。俺達もこれ以上、話を続けない方が良いと判断し、気持ちを切り替えた。ラブちゃんは何も言わずにヘルマンを見ていた。