【 第二章 】 白の少女と黒の世界。(4)
「…………はぁっ……はぁっ……」
黒い世界に響き渡るのは、乱れた荒い吐息と、駆け抜けるふたつの足音。
逃げ出した僕達を追いかけるように、背後に感じる『恐怖』の気配が膨れ上がる。
――なんなの、一体なんなんだよッ!?
意味がわからない。状況が読み取れない。わけもわからず黒い世界を必死に走る中、本能が告げる。あの魔物に捕まってはいけない、と。
この世界はなんなのか、あの魔物はなんなのか。考えたところで、この悪夢に対する答えは見つからない。そんな理不尽な現状に、悪態を吐かずにはいられない。
――どうすればいい、どうすればいいのッ?!
目の前一面に広がるのは、ただ。
息を切らし、必死に走り続けているが、出口のようなものは見当たらない。このままだと、僕の体力が尽きる方が先――いや、それよりも先に、少女の体力が尽きる方が先だ。
振り切れればよかったものの、背後に感じる気配は一向に離れる気がしない。辛うじて追いつかれる速度ではないものの、僕達が足を止めた瞬間飲み込まれるだろう。
終わらない逃走劇に焦りが募る。なんでもいい。何か打開策は――。
「……おにいちゃん、なんだかウサギさんみたい」
「えっ?」
――駆け巡る不安の中、場にそぐわない可愛らしい声が響き渡る。
背後の少女から不意に掛けられた声は、こんな状況だというのに――いや、こんな状況だからこそか、緊迫した空気を和らげるように、心の奥に響いてきた。
突拍子もない言葉に困惑していると、少女は僕の心を見透かすかのように、小さな声を紡ぐ。
「ずっと震えてる、なにかに怯えてる。必死にぴょんぴょん逃げまわる、臆病なウサギさん」
「………………」
その比喩表現は少女らしい幼いもので、核心を突いているような例えだと思った。
白い髪に、紅い瞳。黒い魔物に怖い怖いと震えながら、逃げ出すことしかできない――立ち向かうことができない僕は、とても臆病で弱いだけのウサギなのかもしれない。
「――でも」
しかし、少女の言葉はそこで終わらず、次の言葉は疑問へと変わる。
「……おにいちゃん。そんなに震えているのに、どうしてわたしを助けようとできるの?」
――そんな臆病な僕が、彼女を助け出そうとできる理由。
言外に『足手まといだ』と語っているような、不安に染まった弱々しい声で問いかける。
出会ったばかりの彼女を、臆病な僕が助けようとした理由。――そんなの、ひとつしかない。当たり前のように、その手を握る力を強め、ハッキリと理由を告げた。
「――『君を助ける』って選択肢しか、なかったから」
「……えっ?」
困惑するような声を上げた少女にクスリと笑い、言葉を続ける。
「……怖かったんだ。いまもだけどさ。僕達の後ろにいる何かもだけど、君を見捨てるなんてできなかったんだ。……だから、僕は君を助けなきゃいけない。助けなきゃずっと後悔を引き摺ることになるって思ったから……それに――」
「それに……?」
付け加えるように言葉を続けようとして――頭の中に思い描いた本音を、それこそ、馬鹿らしいと思える本音に笑みを漏らし、この光明の見えない黒い世界を見上げ、素直に吐き出した。
「……こんな黒い世界をひとりぼっちで逃げるのが、怖かったから。だからさ、『君を助けて、一緒に逃げる』って選択肢しかなかったんだ」
――格好悪いよね。こんな理由。
「君を助けたかったから」とか、「人を助けるのに理由がいる?」とか、格好いい台詞が言えたらよかったんだけど、そんな言葉は物語の主人公みたいに、人を助け出せるだけの力を持った人が言える台詞だ。
僕にはそんな力はない。できることと言えば、必死に自分の身を守ることだけ。――いや、そんなことさえ、僕は一人じゃできない。――だから、僕はこの子に縋った。
こんな黒い世界の中で、ひとりぼっち。少女を見捨てた罪悪感に苛まれたまま、何処とも知らない出口を探し、走り続ける。……ハッキリ言って、発狂モノだ。そんな状況になるくらいなら、死んだ方がマシだ。
――でも、二人なら。
僕は彼女を助けなきゃいけない。そんな責任で自分を縛り付け、臆病な心を奮い立たせる。
折れそうになる心を、挫けそうになる心を、彼女の存在によって支えられている。僕は一人じゃ逃げ切れない。でも、この子がいるから、僕は逃げ続けられるんだ。
そんな僕の情けない告白を、ただ黙って聞いていた少女は――間を置いて理解したのか、クスリと笑みを零した。
「……ふふっ、そっか……おにいちゃんらしいね……あっ!」
「……ぅぁッ!? ちょ、大丈夫――……ッ?!」
そんな会話を途切れさせるように、少女が何かに躓き、その場で転んでしまう。
手を引いていた僕も必然的に足を止め、転んだ彼女を心配する――が、思い出したかのように背後の気配が膨れ上がる。僕達が足を止めようが、その勢いは止まらない。それどころか、逆に好機だと言わんばかりに、その膨れ上がる勢いが加速する。
――マズい……このままだと、飲み込まれる……ッ!
さっきみたいに起き上がらせている暇はない。
それに転んだ直後にさっきと同じペース、いやそれ以上のペースで走らせるのは無理がある。改めて見てみれば、彼女も息を切らしている。……逃げまわるのも、ここが限界……か。
――だったら。
「……おにい、ちゃん?」
「僕が時間を稼ぐから、君はその間に逃げて!」
少女の手を離し、立ち塞がるように前に出る。
怖いのにもかかわらず、震えているにもかかわらず、自然と足が前に出る。
――どうせ飲み込まれるのが早いか遅いかの差だ。
逃げられないのなら、最後くらいは格好付けたい。付けさせてくれ。
そんな言い訳を心の中で叫び、自分の本音を――怖いから、後に残されたくない。そんな本音を勇気と誤魔化して、目の前の魔物に対峙する。
迫り来る強大な黒い気配。僕達を飲み込もうとする黒い影。
恐怖に震える身体を必死に抑えこみ、対峙するのが精一杯。どれだけ頑張ったところで、時間なんて稼げる気がしない。
――僕に、力があったなら。
物語の主人公のように、少女を助け出せるだけの力があったなら。
あの黒い魔物に勇敢に立ち向かえるだけの力があったなら。
瀬戸際に思い浮かべるのは、そんな理想の姿。魔を打ち払う、勇敢な騎士の姿を。
――えっ?
そんな時、先程まで少女を握り締めていた僕の右手に、暖かな光が灯る。
不思議な感覚に目を見開き、光が宿る右手を見つめていると――その光は徐々に形を変え、一本の武器の姿を描いた。
――それは、僕が望んだ、黒い闇に立ち向かう力。
――でもそれは、この黒い闇を照らし出すには程遠い、か細い光の剣だった。
気付けば握り締めていた、淡い光の軽い細剣。
ちょっと力を込めればそのまま折れてしまいそうな、繊細な剣。
それはまるで僕の弱い心を示しているかのようで、思わず笑ってしまう。
――でもいまは、これに望みを託しても、いいんじゃないかな。
その剣をしっかり両手で握り締め、迫り来る気配に構える。
この黒い闇を切り裂き、影を打ち払うだなんて、理想的なことは言わない。
でも、後ろにいる彼女を守りたい。それくらいは願ってもいいんじゃないか。
そんな一縷の望みを、細い細いこの刃に託す。
まるで使い慣れた武器のように、手に馴染む細剣。
風のように軽い剣を、凄まじい勢いで迫り来る気配に向けて――一気に振りかぶる。
黒い気配が流れ込む。怒涛の勢いで飲み込まれそうになる気配に、軽い刃が弾かれそうになる。……それでも。
「――はあぁぁぁぁぁッ!!」
その流れに強引に逆らい、通らない刃に全力を込める。
この腕どころか、身体ごと飲み込もうとする流れに、全力で逆らい、抵抗する。ここから先には、絶対進ませない、と。
――この先には……あの子が居るんだからッ!!
震えてなんかいられない。ただ立ち向かうことだけに専念する。
あの少女が逃げ出せるまでの時間を、少しでも長い時間、ここで食い止め――。
「――っあっとと!?」
そんな決意を胸に、勢いを食い止めていた刃が――突然、そのまま振り切れた。
全力を込めていただけに、急に解放された力に、身体がバランスを崩しそうになる。
なんとかその場で踏み止まり、改めて前を見てみると――先程の黒い気配が霧散していた。もうあの恐怖も感じない。
――えっ、どういうこと……? 僕、助かったの……?
何事もなかったかのように、静かな世界。まるで悪夢から覚めたかのような感覚に、困惑する。ただ呆然と先程まで黒い気配があった方角を見ていた僕は――。
「…………ッ!?」
急に背後で膨れ上がった気配に、身体が震えると同時振り返ろうとして――。
その振り返った身体を、そのままドン、と地面に押し倒される。
「いったぁ……って、えっ……」
地面に叩きつけられた衝撃に身体を痛めるが、次の瞬間、僕の顔が青褪める。
絶対的な恐怖を目の前にした感覚よりも、更に上。絶望したような表情を浮かべる。
その、理由は。
「ふふふっ、あははははっ! 格好よかったよ、おにいちゃん?」
――僕を押し倒した人物が、あの、白い少女だったから。
妖しく光る紅の瞳が僕を見据え、無邪気で不気味な笑い声を上げる。
目の前にいる少女からは、先程までの儚げな少女の面影はない。いま彼女から感じるのは、本能的に恐怖を感じさせる、あの魔物と同質の感覚。
「……どういう、こと……?」
混乱する僕に、押し倒したままの少女は何も答えない。
ただ不気味な笑い声を響かせ、恐怖する僕を楽しんでいるようにさえ思える。
――怖い、怖い、怖い。
なにをされるのか、これからどうなるのか、わからない。
それだけじゃない。いままで僕が信じていた人物に裏切られる、絶望。
この黒い世界の中、絶望しかない世界に一人取り残されたことによる、恐怖。
押し倒され、逃げ場を失った僕は、仔兎のように震えることしかできなかった。
「……ふふっ、おにいちゃん……ずっとここに――永遠にここにいましょ?」
そんなわけもわからない言葉を告げる彼女に、心の底から震え上がる。
逃げ出したいというのに、身体が完全に凍り付いて動かない。
――どうして、どうして僕にこんなことをするの……?
頭が痛い。混乱しグルグルと回るような感覚に、恐怖で更に揺さぶられる中――。
――……あれ? そういえば……前に似たような事、あったような……?
ふと思い出した、記憶の断片。この状況に、強い既視感を感じる。
いつだったか、正確には思い出せないものの――似たような事が、あったような……。
思わず恐怖の象徴と化した、彼女の妖しい瞳を見つめる。
とても近い距離。愛らしい表情に、黒い気配を纏わり付かせた、少女の姿。
彼女の紅い瞳に、僕の姿が映し出される。
「……えっ?」
――そして思わず、その映し出された姿に、困惑の声を漏らす。
瞳に映し出された姿は、人の形をした僕じゃない。
白いウサギの姿をした、僕であって、僕じゃない、誰かの姿。
どういうことなのか、驚愕する中――ミシリ、と。
不吉な音が響き渡った、次の瞬間――黒い地面が、崩壊する。
「うわあぁぁぁぁッ!?」
さっきの白い世界と同じように、今度は黒い世界が崩壊する。――今度は黒から、何処へ?
崩壊した瓦礫と共に、闇の中に落ちる。その瞬間――。
――黒い世界に取り残された、彼女の素顔を見た。
不気味な笑みで誤魔化して、気配の中に隠された、いまにも不安に押し潰されそうな、泣き出しそうな少女の素顔を――。
「……――――――ッ!!」
名前も知らない彼女の名を叫び、必死にその手を伸ばす。
さっきと同じだ。どれだけ手の伸ばしても、届かない。
それでも、ひとりぼっちで取り残された彼女に、手を伸ばし続けた――。
◆
……
…………
………………
「――っぅ、あれ、ここは……?」
目に突き刺さるような眩い光に目を細め、朧気な意識のまま周りを見渡す。
間違いない。最初にいた、参加者登録の為に案内された部屋だ。
白の世界も、黒の世界も、あの少女もいない。さっきまで見ていた光景は、一体?
――もしかして、“夢”……だったの……?
その割には、やけに意識がハッキリしていたけれど……。
「あれ、これは……?」
気付けばあの黒い球体は消え、触れたはずの右手は握り締めていた。
その右手の中に、何かの感覚を感じる。
……なんだろう? 不思議に思い、手のひらを開いてみる。
そこにあったのは、小さな水晶球。
――透き通るほどに白い、見惚れるほど綺麗な水晶球だった。