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Reverse Card -リバース・カード-  作者: 火鈴あかり
Episode 02 - 服従のマリオネット
44/127

【 第三章 】 束の間の夢が終わる時。(3)

 ……

 …………

 ………………


「うーんっ、楽しかった! その、今日はありがとね? マモル君」

「ううん、こちらこそ。僕も楽しかったよ」


 あの後、心行くまでゲームセンターで楽しんだ僕達は、最初に待ち合わせた公園まで帰ってきた。

 来た頃の焼けるような陽の明かりは消え失せ、夜の闇に包まれた公園。アヤネはただ静かに、川の流れを眺めていた。


 僕達以外には誰もいない空間。先程までの賑やかな空間から一転して、静寂に染まるこの空間は――ここが中央区であることを忘れてしまいそうになるほど、落ち着いた世界。

 風の流れ、川のせせらぎ、草木のざわめき。――だからだろうか、普段なら気にも留めないような自然の声が、ハッキリと聞き取れるような気がした。

 目の前にいる彼女は瞳を閉じて、そんな自然のメロディに耳を澄ませ、心から堪能しているようだった。


 これまた違った、彼女の一面。

 会ってからまだ数日の関係だけど……そんな僕でも、わかったことがある。


 ――響さんは……本当に、色鮮やかにその顔を変えるんだね。


 彼女の今日の可愛らしさは、誰かに見繕われたものじゃない。

 ……いや。彼女にとっては、着飾る衣装も、演出装置も、必要ないんじゃないかな。

 心から喜んで、怒って、悲しんで、楽しんで――そんなころころと移り変わる表情が、何もせずとも彼女の魅力を引き出しているような――そんな感じがした。


 ――でも、だからこそ。ひとつ疑問に感じることがあった。

 尋ねるのは野暮かもしれない、けど……いまならその疑問に答えてもらえる気がした。


「……ねぇ、響さん」

「うん?」

「響さんは……いまの仕事、アイドルが……楽しい?」


 だから、彼女に問いかける。

 彼女が仮面で自分の素顔を隠し、誰もが望むトップアイドルを演じる舞台が。

 彼女が自分を『私』と偽るその仕事が……本当に楽しいのか、どうか。


 ――本当は、触れちゃいけない場所かもしれないけど。


 彼女は上を見上げ、夜の空を眺める。星の見えない、穏やかな月だけが世界を見下ろす空。

 少しの間を置いて、やがて彼女は振り返り、その答えを告げた。


「……楽しいよ。……でも最近は、辛いことの方が多い……かな。……ちょっと逃げたいって、思っちゃうくらいには、ね」


 そっと呟くような声が、風に乗って響き渡る。

 いつになく弱気な言葉。僕に背を向け、再び川を眺めると――その言葉の続きを語った。


「あの日……マモル君のお店に行った日ね。……あたし、逃げちゃったんだ。いろんなことから」

「………………」

「日に日に増す仕事。それもね、あたしがみんなに歌を届ける――歌を歌うためなら、頑張れた。……でもね、あたしの頑張りとは裏腹に、歌える機会はどんどん減っていっちゃったんだ」


 ――アイドルの仕事は、歌手とは別物。

 ただ歌を届ける仕事じゃない。それはきっと、彼女もわかっていたはず。

 だけど、彼女が拠り所にしていたものも、徐々に削られていった。


「あたしね、ホントはトークが苦手なんだ。大勢の前でヘタなコトは言えない。そんなプレッシャーから口数が減っちゃって……――そんなトコが、逆にクールなイメージに捉えられちゃったみたい。そんなんじゃないのに、言い出すにも言い出せないし……プロデューサーもそういう方面で売り出したいって――」

「………………」

「……そんな、あたしじゃない『私』を押し付けられて、気持ちとは逆にメディアの露出も増える一方。確かに大勢の人に歌える機会もできたけど……それ以上に、辛い気持ちもあったんだ」


 ――……やっぱ、無理してたんだ。


 辛そうに語る彼女の声。

 それは、こんな事を言える相手がいなかったのもあるんだろうけど――僕が想像しているよりも、ずっと苦しい思いをしていたから、という他なかった。


「それに……」

「……それに?」

「……ううん、ごめんね。幻滅させちゃったよね。こんなキャラじゃないよね、あたし」


 こちらに振り返ると、精一杯の作り笑いで誤魔化そうとする。

 みんながそんな自分のことを求めていない。そう自分で決めつけているからこその言葉。


 ――……でも。


「……そんなことない。むしろ、よかったよ」

「えっ?」

「響さんのこと、トップアイドルって知った時は……それこそ、雲の上の人みたいに思ってたんだ。……でも、やっぱ僕とそんな変わらない、普通の子なんだな、って――」


 ――僕としては、逆に安心した……かな。


 それこそ別世界の人間のような、といったら言いすぎかもしれないけど。そんな彼女といてもいいのか……正直、不安だった僕にとっては、彼女の年相応な一面に安心した。

 きょとんとした顔を浮かべ、僕を見つめる彼女に「あっ」と声を漏らす。


「い、いやっ! 普通の子ってのは悪い意味じゃなくて、その、親しみやすいというか――」


 しまったと思った時にはもう遅い。

 あたふたと弁明を述べる僕を見つめていた彼女は、やがて――。


「……ふふっ、あははははっ」

「ぇ?」


 ――口元を抑え、笑いだした。


「ふ、ふふ……い、いや、ごめんね? あたしも、マモル君が思ってた感じと全然違ったから、おかしくって……あははははっ」

「む、むぅ、なんなのさ……?」


 急に笑いだした彼女の意図が汲み取れず、ただバカにされてる気がして拗ねた声を漏らす。


「あはは、いい意味でだよ、いい意味で。だってバトルの時とか別人みたいに真剣だし、お店じゃちゃんと礼儀正しい店員さんしてたでしょ? でも今日のマモル君見てると、まだまだ幼いトコがあるというか、なーんかかわいいなぁって」

「もうっ! かわかわないでよっ!?」

「あははっ」


 ――……もう、これでも高校生なんだけど。

 そんな拗ねる僕の姿を見て、また彼女は笑いだした。



    ◆



 その目線を川の流れに向けると、誰に問われるでもなく、彼女は言葉を紡ぐ。


「……ここね、あたしのお気に入りの場所なんだ」


 何もない、ただ静かな公園。誰にも邪魔されることのない世界。

 だからこそ、彼女は好きだ、と語る。


「普段はみんなの人気者アイドルだけど……時々向けられる視線が怖くなる時があるの。誰もいないこの場所は、そんな不安から守ってくれる。この自然の音色が、あたしの心を落ち着けてくれる。――そんな、あたしがあたしでいられるこの場所が、あたしは好き」

「……家族とかは、いないの?」

「お母さんとお父さんは海外出張。家には家政婦さんがいるけど、弱音を吐ける間柄じゃないからね」

「……そっか」


 誰もいないこの場所が、自分にとって唯一自分を曝け出せる場所だから。

 こうして――理由はわからないけど、僕みたいな話相手がいなかった間は、ここが彼女にとって心の拠り所だったのだろう。



「……そういえば、その帽子」

「うん?」

「ずっと思ってたんだけど、響さんにとって大切なものなの?」


 いまも被っている、黒い猫耳のキャスケット。

 かわいらしい――もっと言えば、年齢の割に子供っぽいキャスケット。

 確かに似合ってるんだけど、食事中も手放さず……滅多なことじゃ外してなかった気がする。やたら大切にしているように見えて、そうなんじゃないかと推測を尋ねる。


「うん、大切なもの。……子供の頃、デビューした記念にね、お母さんにねだって買ってもらったものなんだ」


 ぎゅっとキャスケットの縁を握り締め、こちらに微笑みかける。


「その、猫耳とか……子供っぽいかもしれないけどね? でも、その時はすっごい欲しかったの。買ってもらったのはいいんだけど、サイズが全然合ってなくて、ぶっかぶかだったんだけどね。強がって『だいじょーぶ!』とか言い張ってかぶってたんだ」


 アヤネは帽子の向きを直すと、その手を降ろし、背中を向けて続きを話す。


「……あの時は、早いとこ大人になりたかった。あたしだって一人前なんだって言えるように。……でも、大人であることを強要されるにつれて……それが嫌になっちゃってた。だけどね、この帽子をかぶってるとね、元気をもらえるんだ。……嬉しいことも、辛いことも、いままで沢山あったけど……この帽子には、デビューした時からの思い出が沢山詰まってるから、また明日も頑張ろうって気になるんだ」

「……大切なもの、なんだね」

「……うん」


 ――……思い出、かぁ……。


 僕には……昔の思い出が、ないけれど……。

 きっと彼女にとっては、ただの『モノ』では語りきれない、『想い』が詰まっているモノ。

 それが彼女にとっての、力の源でもあるのかもしれない。


「……その、なんか僕ばっか聞いてて、ごめん……?」

「んーん、いいよ。あたしが話したかったから話してただけだし。――でも、そうだなぁ……じゃあ今度は、こっちが逆に質問!」

「え、ええ……?」


 そう声を上げた彼女は、いままでのお返しにとばかりに質問を考える。

 何も質問しようか考えて唸り声を上げ、考えた結果、最終的にこちらをじーっと見つめる。


 ――な、なんか恥ずかしいんだけど……。


「…………そういえば、マモル君のこと、あたし全然知らないや」

「……というか、その……会ってからまだ一週間も経ってないし……?」


 先週の金曜、日曜のライブ、月曜に顔見せ程度に、そして本日水曜日。

 ここ最近やたら会う機会があっただけで、まだ一週間も経ってない。

 アヤネもそれには驚いたようで、「あれっ? まだそんなだったっけ?」と零す。


「というか、どうして僕にはそんな色々話してくれるの? そんな信頼できるほど付き合いが長いわけじゃないのに……」


 思えば疑問だった。……というか、またこっちが質問しちゃってるけど。

 そんな僕の疑問に同じように首を傾げ、「……なんでだろうね?」と声を返す。


「……マモル君があたしのことを色眼鏡で見ない、というのもあるんだけど……なんか話しやすいというか、ついつい話しちゃうというか……んー、親しみやすいのかな?」

「親しみやすいって……」


 ――そう言われるのは悪い気はしないけど、なんか釈然としない。

 複雑な表情を浮かべる僕に、思い出したかのように手をポンと叩いた。


「そうだ、ずっとマモル君に言いたいことがあったんだ」

「え、言いたいことって……なんなの、響さ――」

「それ、その呼び方! 『響さん』ってちょっと他人行儀過ぎない? そんな年が離れてるわけじゃないし、名前で呼んでよっ」

「う、うーん……?」


 そんな彼女の提案に、思わず唸り声を漏らす。


 確かに、カイの話が正しければ、僕と彼女は同い年……なんだけど、名前に呼ぶことには抵抗がある。打ち解けてはいるものの、相手はあのトップアイドル。いや、そのことを除いても、単純に彼女がかわいいということもあって、恥ずかしくて仕方がない。

 だが、逃さないとばかりにじーっと見つめられ――顔を赤く染めながら、小さな声で呟いた。


「……あ、アヤネ、さん?」

「ダメ」

「え、えぇ……」

「『さん』じゃまだ他人行儀すぎるよ! 呼び捨て!」

「そ、それは無理!」


 不機嫌そうに「むー」と声を漏らすが、ここだけは譲れない。

 ミナミやアリアに対しても未ださん付けなのに、そこをすっ飛ばして呼び捨てとか、僕にはハードルが高すぎる。

 だが、それじゃあ納得ができないと睨みつける彼女に、どうしたものかと悩んだ――その結果。


「……あ、あやねちゃん……じゃ、ダメかな……?」


 苦しい思いで自分が譲歩できる範囲を考えた結果、こうなった。

 その僕の答えに悩んだものの、アヤネはひとつ頷いて答える。


「んー……うん、それならいいよ。今度からそう呼んでね?」

「え、響さ――……あ、あやね、ちゃん……?」


 慣れないこともあって、前の呼び方でつい呼びかけ――キッと睨みつけられる。

 見事に気圧され、なんとか紡いだ新しい呼び方に、よしよしと頷いた。


 ――……正直、違和感しかないんだけど……。


 自分で譲歩しておいてあれだけど、これでも大分無理してる。

 そのうち慣れるのか――いや、そもそも今後会う機会があるのだろうか。

 ただ、今日のところは、それで納得している彼女に、無理矢理その違和感を飲み込んだ。



    ◆



 ――静寂が気恥ずかしい。

 慣れない呼び方に顔を赤く染める中、そういえば、と、すっかり忘れていたものを思い出した。


「あ、そうだ……あやねちゃんに渡したいものがあったんだ」

「うん?」


 疑問の声を漏らす彼女に、カバンから僕のデッキケースを取り出し、一枚のカードを取り出す。


「これって――」

「“【1】アンプ・ブースター”。約束したまま、結局渡せてなかったから……」


 いつでも渡せるように準備していた、約束のカード。

 呆気にとられていた彼女だったが、差し出されたカードをそっと手に取ると――。


「覚えてて、くれたんだ……ありがとね」


 ――微笑んで、感謝の言葉を告げた。


「……遅くなっちゃって、ごめんね」

「ううん、嬉しいよ。本当に嬉しい」


 感激するかのように握り締め――そのカードをカバンから取り出したケースに仕舞うと、何かを思いついたかのように、彼女も一枚のカードを取り出した。


「あっ、そうだ、マモル君。よかったらこのカード、受け取って欲しいな」

「えっ?」


 彼女が取り出したのは、“【6】シルフィード・ブレーザー”。

 以前カード開封の時に当てていた、風属性のレアカード。


「マモル君、風属性のデッキを使ってたよね? 相性がいいと思うし、持ってないって言ってたよね?」

「い、いや、受け取れないよっ!? 僕の渡したカードとはレアリティが釣り合わな――」

「ただ、あたしがキミに渡したいの。……ダメかな?」


 アヤネの言葉に、うっ、と言葉を飲み込む。

 そんなことを言われたら、否定するにできない。正直、引け目を感じるところもあるんだけど……ここで受け取らないのは、彼女の気持ちを踏みにじることに違いない。だから――。


「……ありがとう。大切に使うよ」

「うんうんっ」


 なんだか嬉しげな彼女の声に、自然と笑みが零れ落ちた。



    ◆



 風の音が静かに響き渡る中、やがて束の間の夢は終わりを告げる。


「……もう夜遅いし、そろそろ帰らないとね」

「……そっ、か」


 気付けば時刻は午後八時。

 楽しい時間はあっという間だとは言うが、そろそろ別れの時間だ。

 お互いに明日がある。いつまでも夢を見ていられない。


 次に会える機会はいつになるのだろうか。

 約束したとはいえ、それがいつになるのか――僕にはわからない。

 だからこそ、名残惜しい。……とても、とっても。


「――ねぇ、マモル君。最後にひとつ、お願いしてもいいかな?」

「うん?」


 そんな別れを惜しむ中、彼女が最後の言葉を告げようとする。

 風にその橄欖石ペリドットのような髪を靡かせ、僕の方に振り返った――子猫のような少女。

 街灯に照らし出された彼女は、微笑み、その口を開――。


「マモル君、よかったら……あたしと――」



「――アヤネッ!!」



「……っ!?」


 その最後の言葉に、水を差された。

 静かな公園に響き渡る、男性の声。この場の調和を乱すように現れたのは、アヤネのプロデューサーである、鈴木の姿だ。理由はわからないが、大分息が荒れている……ような気がする。

 完全に凍りついた場に、鈴木は怒声を響かせる。


「急にレッスンを抜け出して、こんな時間まで一体何をしていたんだ!?」

「え、えっと……」


 こんなところまでやってきた彼に、さすがの彼女も動揺を隠せない。

 突然の出来事に上手いこと言葉が紡げず、しどろもどろとしていたアヤネ。


 ――そんな彼女を、ただ黙って見てられなかった。


「……僕が無理言って連れ出したんです」

「ま、マモル君……?!」

「君は、この間の――」


 アヤネを庇うように一歩前に出る。

 感情に任せ、怒声を飛ばす鈴木は……物凄い剣幕で、怖いとしか言えない。


 ――でも。

 庇わずにはいられなかった。その手を握り締め、真剣な瞳で睨みつける。

 僕がどれだけ迷惑をこうむっても、彼女には……笑っていて、欲しかったから。


「こんな所を誰かに見られれば、スキャンダルになるんだぞ!? もしそうなった場合、君はどう責任をとるつもりだ!?」

「………………」


 返す言葉もない。

 もしそんな事になった場合、僕にとれる責任なんて、高が知れてる。

 下手すれば、彼女のアイドル人生を狂わせていただけに、彼の怒りももっともだと思う。


 ――だけど。


 彼女は、あやねちゃんは、今日一日楽しんでいたんだ。

 そんな彼女のことを責めるのは……絶対間違っている。だから――。


「……もういい、もういいの」


 だが、そんな睨み合いも、アヤネが前に出ることで終わりを告げる。


「あやねちゃん……」

「……申し訳ありません、プロデューサー。この責任は、私にあります」


 しゅんとした様子で前に出た彼女は、頭を下げてこの場を収める。

 その姿を見て納得したのか、怒りを抑え、呆れたように声を漏らした。


「……次のステージも近いんだ。こんな勝手なこと、もうするんじゃないぞ」

「……はい」


 素っ気ない返答。

 だが、それはいつもの――冷静な声じゃない。どこか寂しげな声。


「君もだ。金輪際、アヤネには関わらないでくれ」

「………………」


 そのことに鈴木は気付いていないのか、吐き捨てるように言葉を告げる。

 これ以上の抵抗は無意味だと、諦めている彼女。でも――。


 ――……あやねちゃん、本当にそれでいいの……?


 ただ彼女の背中に、そんな疑問を投げかけることしかできなかった。



「……なんだ、アヤネ。その帽子は。変装のつもりか?」

「「あっ」」


 鈴木は彼女の頭から、黒い猫耳キャスケットを奪い取る。

 その瞬間、僕もアヤネも思わず声を漏らし、だが――。


「お前にはお前のイメージがあるんだ。こんな子供っぽい帽子、変装でもかぶってるんじゃない」

「……っ!」



 ――だが何も知らないからこそ、その帽子を投げ捨てた。



 彼女が大切にしている、想いの込められた帽子。

 それを無造作に。公園の草むらへと。


 今日一日付き合っていたからわかる。

 彼女にとって、かけがえのないもの。大切な帽子にそんな扱いをされて、許せないと声を上げ――。


「……ちょっと……ッ!?」

「……いいの」


 だが、彼女は。いまにも飛び出そうとする僕のことを、手で静止した。

 そんな様子に足を止め――だが、彼女の声が微かに震えていたことを、僕は聞き逃さなかった。


「アヤネ、帰るぞ。早く来なさい」

「……はい」


 静かに返答する彼女は、先程までとも、普段とも、様子が違う。

 クールを装おうとして、それでも感情が耐えきれず、ごちゃ混ぜになった彼女は。



「……マモル君。今日はありがと。……さよなら」



 こちらに振り返ることもなく、プロデューサーの後を追って――去っていった。



    ◆



 後に残された、僕一人。

 誰もいない静かな公園で。少年はぽつりと声を漏らす。


「…………なんだよ、『さよなら』って」


 まるで、これが最期みたいな――別れの挨拶。

 それが納得できないと、ただ一人感情を爆発させる。


「…………なにがいいんだよ……なにもいいわけないじゃないかッ!!」


 声を荒げ、衝動のまま駆け出す。

 暗い闇夜に放り捨てられた、彼女の帽子。

 闇の中を手探りで探し出し、拾い上げ、ついた草を払い除ける。


 黒い猫耳キャスケット。

 彼女の象徴とも言える、大切な……大切な思い出を見て、決心する。


「……このまま、さよならなんて言わせない」


 例え、次が最期。二度と会えなくなっても構わない。

 だけど、今日を最期になんか、絶対させない。



「……返すんだ……この帽子を、あやねちゃんに……!」



 暗い闇夜の中。

 何もできず、怒ることも悲しむこともできなかった彼女を――このまま放ってなんかおけない。


 穏やかな月の光を見上げ、最後にひとつだけ願いを込める。



 ――……何があっても、絶対。『彼女にこの帽子を届けるんだ』、と。



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