【 第三章 】 束の間の夢が終わる時。(3)
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「うーんっ、楽しかった! その、今日はありがとね? マモル君」
「ううん、こちらこそ。僕も楽しかったよ」
あの後、心行くまでゲームセンターで楽しんだ僕達は、最初に待ち合わせた公園まで帰ってきた。
来た頃の焼けるような陽の明かりは消え失せ、夜の闇に包まれた公園。アヤネはただ静かに、川の流れを眺めていた。
僕達以外には誰もいない空間。先程までの賑やかな空間から一転して、静寂に染まるこの空間は――ここが中央区であることを忘れてしまいそうになるほど、落ち着いた世界。
風の流れ、川のせせらぎ、草木のざわめき。――だからだろうか、普段なら気にも留めないような自然の声が、ハッキリと聞き取れるような気がした。
目の前にいる彼女は瞳を閉じて、そんな自然のメロディに耳を澄ませ、心から堪能しているようだった。
これまた違った、彼女の一面。
会ってからまだ数日の関係だけど……そんな僕でも、わかったことがある。
――響さんは……本当に、色鮮やかにその顔を変えるんだね。
彼女の今日の可愛らしさは、誰かに見繕われたものじゃない。
……いや。彼女にとっては、着飾る衣装も、演出装置も、必要ないんじゃないかな。
心から喜んで、怒って、悲しんで、楽しんで――そんなころころと移り変わる表情が、何もせずとも彼女の魅力を引き出しているような――そんな感じがした。
――でも、だからこそ。ひとつ疑問に感じることがあった。
尋ねるのは野暮かもしれない、けど……いまならその疑問に答えてもらえる気がした。
「……ねぇ、響さん」
「うん?」
「響さんは……いまの仕事、アイドルが……楽しい?」
だから、彼女に問いかける。
彼女が仮面で自分の素顔を隠し、誰もが望むトップアイドルを演じる舞台が。
彼女が自分を『私』と偽るその仕事が……本当に楽しいのか、どうか。
――本当は、触れちゃいけない場所かもしれないけど。
彼女は上を見上げ、夜の空を眺める。星の見えない、穏やかな月だけが世界を見下ろす空。
少しの間を置いて、やがて彼女は振り返り、その答えを告げた。
「……楽しいよ。……でも最近は、辛いことの方が多い……かな。……ちょっと逃げたいって、思っちゃうくらいには、ね」
そっと呟くような声が、風に乗って響き渡る。
いつになく弱気な言葉。僕に背を向け、再び川を眺めると――その言葉の続きを語った。
「あの日……マモル君のお店に行った日ね。……あたし、逃げちゃったんだ。いろんなことから」
「………………」
「日に日に増す仕事。それもね、あたしがみんなに歌を届ける――歌を歌うためなら、頑張れた。……でもね、あたしの頑張りとは裏腹に、歌える機会はどんどん減っていっちゃったんだ」
――アイドルの仕事は、歌手とは別物。
ただ歌を届ける仕事じゃない。それはきっと、彼女もわかっていたはず。
だけど、彼女が拠り所にしていた歌も、徐々に削られていった。
「あたしね、ホントはトークが苦手なんだ。大勢の前でヘタなコトは言えない。そんなプレッシャーから口数が減っちゃって……――そんなトコが、逆にクールなイメージに捉えられちゃったみたい。そんなんじゃないのに、言い出すにも言い出せないし……プロデューサーもそういう方面で売り出したいって――」
「………………」
「……そんな、あたしじゃない『私』を押し付けられて、気持ちとは逆にメディアの露出も増える一方。確かに大勢の人に歌える機会もできたけど……それ以上に、辛い気持ちもあったんだ」
――……やっぱ、無理してたんだ。
辛そうに語る彼女の声。
それは、こんな事を言える相手がいなかったのもあるんだろうけど――僕が想像しているよりも、ずっと苦しい思いをしていたから、という他なかった。
「それに……」
「……それに?」
「……ううん、ごめんね。幻滅させちゃったよね。こんなキャラじゃないよね、あたし」
こちらに振り返ると、精一杯の作り笑いで誤魔化そうとする。
みんながそんな自分のことを求めていない。そう自分で決めつけているからこその言葉。
――……でも。
「……そんなことない。むしろ、よかったよ」
「えっ?」
「響さんのこと、トップアイドルって知った時は……それこそ、雲の上の人みたいに思ってたんだ。……でも、やっぱ僕とそんな変わらない、普通の子なんだな、って――」
――僕としては、逆に安心した……かな。
それこそ別世界の人間のような、といったら言いすぎかもしれないけど。そんな彼女といてもいいのか……正直、不安だった僕にとっては、彼女の年相応な一面に安心した。
きょとんとした顔を浮かべ、僕を見つめる彼女に「あっ」と声を漏らす。
「い、いやっ! 普通の子ってのは悪い意味じゃなくて、その、親しみやすいというか――」
しまったと思った時にはもう遅い。
あたふたと弁明を述べる僕を見つめていた彼女は、やがて――。
「……ふふっ、あははははっ」
「ぇ?」
――口元を抑え、笑いだした。
「ふ、ふふ……い、いや、ごめんね? あたしも、マモル君が思ってた感じと全然違ったから、おかしくって……あははははっ」
「む、むぅ、なんなのさ……?」
急に笑いだした彼女の意図が汲み取れず、ただバカにされてる気がして拗ねた声を漏らす。
「あはは、いい意味でだよ、いい意味で。だってバトルの時とか別人みたいに真剣だし、お店じゃちゃんと礼儀正しい店員さんしてたでしょ? でも今日のマモル君見てると、まだまだ幼いトコがあるというか、なーんかかわいいなぁって」
「もうっ! かわかわないでよっ!?」
「あははっ」
――……もう、これでも高校生なんだけど。
そんな拗ねる僕の姿を見て、また彼女は笑いだした。
◆
その目線を川の流れに向けると、誰に問われるでもなく、彼女は言葉を紡ぐ。
「……ここね、あたしのお気に入りの場所なんだ」
何もない、ただ静かな公園。誰にも邪魔されることのない世界。
だからこそ、彼女は好きだ、と語る。
「普段はみんなの人気者だけど……時々向けられる視線が怖くなる時があるの。誰もいないこの場所は、そんな不安から守ってくれる。この自然の音色が、あたしの心を落ち着けてくれる。――そんな、あたしがあたしでいられるこの場所が、あたしは好き」
「……家族とかは、いないの?」
「お母さんとお父さんは海外出張。家には家政婦さんがいるけど、弱音を吐ける間柄じゃないからね」
「……そっか」
誰もいないこの場所が、自分にとって唯一自分を曝け出せる場所だから。
こうして――理由はわからないけど、僕みたいな話相手がいなかった間は、ここが彼女にとって心の拠り所だったのだろう。
「……そういえば、その帽子」
「うん?」
「ずっと思ってたんだけど、響さんにとって大切なものなの?」
いまも被っている、黒い猫耳のキャスケット。
かわいらしい――もっと言えば、年齢の割に子供っぽいキャスケット。
確かに似合ってるんだけど、食事中も手放さず……滅多なことじゃ外してなかった気がする。やたら大切にしているように見えて、そうなんじゃないかと推測を尋ねる。
「うん、大切なもの。……子供の頃、デビューした記念にね、お母さんにねだって買ってもらったものなんだ」
ぎゅっとキャスケットの縁を握り締め、こちらに微笑みかける。
「その、猫耳とか……子供っぽいかもしれないけどね? でも、その時はすっごい欲しかったの。買ってもらったのはいいんだけど、サイズが全然合ってなくて、ぶっかぶかだったんだけどね。強がって『だいじょーぶ!』とか言い張ってかぶってたんだ」
アヤネは帽子の向きを直すと、その手を降ろし、背中を向けて続きを話す。
「……あの時は、早いとこ大人になりたかった。あたしだって一人前なんだって言えるように。……でも、大人であることを強要されるにつれて……それが嫌になっちゃってた。だけどね、この帽子をかぶってるとね、元気をもらえるんだ。……嬉しいことも、辛いことも、いままで沢山あったけど……この帽子には、デビューした時からの思い出が沢山詰まってるから、また明日も頑張ろうって気になるんだ」
「……大切なもの、なんだね」
「……うん」
――……思い出、かぁ……。
僕には……昔の思い出が、ないけれど……。
きっと彼女にとっては、ただの『モノ』では語りきれない、『想い』が詰まっているモノ。
それが彼女にとっての、力の源でもあるのかもしれない。
「……その、なんか僕ばっか聞いてて、ごめん……?」
「んーん、いいよ。あたしが話したかったから話してただけだし。――でも、そうだなぁ……じゃあ今度は、こっちが逆に質問!」
「え、ええ……?」
そう声を上げた彼女は、いままでのお返しにとばかりに質問を考える。
何も質問しようか考えて唸り声を上げ、考えた結果、最終的にこちらをじーっと見つめる。
――な、なんか恥ずかしいんだけど……。
「…………そういえば、マモル君のこと、あたし全然知らないや」
「……というか、その……会ってからまだ一週間も経ってないし……?」
先週の金曜、日曜のライブ、月曜に顔見せ程度に、そして本日水曜日。
ここ最近やたら会う機会があっただけで、まだ一週間も経ってない。
アヤネもそれには驚いたようで、「あれっ? まだそんなだったっけ?」と零す。
「というか、どうして僕にはそんな色々話してくれるの? そんな信頼できるほど付き合いが長いわけじゃないのに……」
思えば疑問だった。……というか、またこっちが質問しちゃってるけど。
そんな僕の疑問に同じように首を傾げ、「……なんでだろうね?」と声を返す。
「……マモル君があたしのことを色眼鏡で見ない、というのもあるんだけど……なんか話しやすいというか、ついつい話しちゃうというか……んー、親しみやすいのかな?」
「親しみやすいって……」
――そう言われるのは悪い気はしないけど、なんか釈然としない。
複雑な表情を浮かべる僕に、思い出したかのように手をポンと叩いた。
「そうだ、ずっとマモル君に言いたいことがあったんだ」
「え、言いたいことって……なんなの、響さ――」
「それ、その呼び方! 『響さん』ってちょっと他人行儀過ぎない? そんな年が離れてるわけじゃないし、名前で呼んでよっ」
「う、うーん……?」
そんな彼女の提案に、思わず唸り声を漏らす。
確かに、カイの話が正しければ、僕と彼女は同い年……なんだけど、名前に呼ぶことには抵抗がある。打ち解けてはいるものの、相手はあのトップアイドル。いや、そのことを除いても、単純に彼女がかわいいということもあって、恥ずかしくて仕方がない。
だが、逃さないとばかりにじーっと見つめられ――顔を赤く染めながら、小さな声で呟いた。
「……あ、アヤネ、さん?」
「ダメ」
「え、えぇ……」
「『さん』じゃまだ他人行儀すぎるよ! 呼び捨て!」
「そ、それは無理!」
不機嫌そうに「むー」と声を漏らすが、ここだけは譲れない。
ミナミやアリアに対しても未ださん付けなのに、そこをすっ飛ばして呼び捨てとか、僕にはハードルが高すぎる。
だが、それじゃあ納得ができないと睨みつける彼女に、どうしたものかと悩んだ――その結果。
「……あ、あやねちゃん……じゃ、ダメかな……?」
苦しい思いで自分が譲歩できる範囲を考えた結果、こうなった。
その僕の答えに悩んだものの、アヤネはひとつ頷いて答える。
「んー……うん、それならいいよ。今度からそう呼んでね?」
「え、響さ――……あ、あやね、ちゃん……?」
慣れないこともあって、前の呼び方でつい呼びかけ――キッと睨みつけられる。
見事に気圧され、なんとか紡いだ新しい呼び方に、よしよしと頷いた。
――……正直、違和感しかないんだけど……。
自分で譲歩しておいてあれだけど、これでも大分無理してる。
そのうち慣れるのか――いや、そもそも今後会う機会があるのだろうか。
ただ、今日のところは、それで納得している彼女に、無理矢理その違和感を飲み込んだ。
◆
――静寂が気恥ずかしい。
慣れない呼び方に顔を赤く染める中、そういえば、と、すっかり忘れていたものを思い出した。
「あ、そうだ……あやねちゃんに渡したいものがあったんだ」
「うん?」
疑問の声を漏らす彼女に、カバンから僕のデッキケースを取り出し、一枚のカードを取り出す。
「これって――」
「“【1】アンプ・ブースター”。約束したまま、結局渡せてなかったから……」
いつでも渡せるように準備していた、約束のカード。
呆気にとられていた彼女だったが、差し出されたカードをそっと手に取ると――。
「覚えてて、くれたんだ……ありがとね」
――微笑んで、感謝の言葉を告げた。
「……遅くなっちゃって、ごめんね」
「ううん、嬉しいよ。本当に嬉しい」
感激するかのように握り締め――そのカードをカバンから取り出したケースに仕舞うと、何かを思いついたかのように、彼女も一枚のカードを取り出した。
「あっ、そうだ、マモル君。よかったらこのカード、受け取って欲しいな」
「えっ?」
彼女が取り出したのは、“【6】シルフィード・ブレーザー”。
以前カード開封の時に当てていた、風属性のレアカード。
「マモル君、風属性のデッキを使ってたよね? 相性がいいと思うし、持ってないって言ってたよね?」
「い、いや、受け取れないよっ!? 僕の渡したカードとはレアリティが釣り合わな――」
「ただ、あたしがキミに渡したいの。……ダメかな?」
アヤネの言葉に、うっ、と言葉を飲み込む。
そんなことを言われたら、否定するにできない。正直、引け目を感じるところもあるんだけど……ここで受け取らないのは、彼女の気持ちを踏みにじることに違いない。だから――。
「……ありがとう。大切に使うよ」
「うんうんっ」
なんだか嬉しげな彼女の声に、自然と笑みが零れ落ちた。
◆
風の音が静かに響き渡る中、やがて束の間の夢は終わりを告げる。
「……もう夜遅いし、そろそろ帰らないとね」
「……そっ、か」
気付けば時刻は午後八時。
楽しい時間はあっという間だとは言うが、そろそろ別れの時間だ。
お互いに明日がある。いつまでも夢を見ていられない。
次に会える機会はいつになるのだろうか。
約束したとはいえ、それがいつになるのか――僕にはわからない。
だからこそ、名残惜しい。……とても、とっても。
「――ねぇ、マモル君。最後にひとつ、お願いしてもいいかな?」
「うん?」
そんな別れを惜しむ中、彼女が最後の言葉を告げようとする。
風にその橄欖石のような髪を靡かせ、僕の方に振り返った――子猫のような少女。
街灯に照らし出された彼女は、微笑み、その口を開――。
「マモル君、よかったら……あたしと――」
「――アヤネッ!!」
「……っ!?」
その最後の言葉に、水を差された。
静かな公園に響き渡る、男性の声。この場の調和を乱すように現れたのは、アヤネのプロデューサーである、鈴木の姿だ。理由はわからないが、大分息が荒れている……ような気がする。
完全に凍りついた場に、鈴木は怒声を響かせる。
「急にレッスンを抜け出して、こんな時間まで一体何をしていたんだ!?」
「え、えっと……」
こんなところまでやってきた彼に、さすがの彼女も動揺を隠せない。
突然の出来事に上手いこと言葉が紡げず、しどろもどろとしていたアヤネ。
――そんな彼女を、ただ黙って見てられなかった。
「……僕が無理言って連れ出したんです」
「ま、マモル君……?!」
「君は、この間の――」
アヤネを庇うように一歩前に出る。
感情に任せ、怒声を飛ばす鈴木は……物凄い剣幕で、怖いとしか言えない。
――でも。
庇わずにはいられなかった。その手を握り締め、真剣な瞳で睨みつける。
僕がどれだけ迷惑をこうむっても、彼女には……笑っていて、欲しかったから。
「こんな所を誰かに見られれば、スキャンダルになるんだぞ!? もしそうなった場合、君はどう責任をとるつもりだ!?」
「………………」
返す言葉もない。
もしそんな事になった場合、僕にとれる責任なんて、高が知れてる。
下手すれば、彼女のアイドル人生を狂わせていただけに、彼の怒りももっともだと思う。
――だけど。
彼女は、あやねちゃんは、今日一日楽しんでいたんだ。
そんな彼女のことを責めるのは……絶対間違っている。だから――。
「……もういい、もういいの」
だが、そんな睨み合いも、アヤネが前に出ることで終わりを告げる。
「あやねちゃん……」
「……申し訳ありません、プロデューサー。この責任は、私にあります」
しゅんとした様子で前に出た彼女は、頭を下げてこの場を収める。
その姿を見て納得したのか、怒りを抑え、呆れたように声を漏らした。
「……次のステージも近いんだ。こんな勝手なこと、もうするんじゃないぞ」
「……はい」
素っ気ない返答。
だが、それはいつもの――冷静な声じゃない。どこか寂しげな声。
「君もだ。金輪際、アヤネには関わらないでくれ」
「………………」
そのことに鈴木は気付いていないのか、吐き捨てるように言葉を告げる。
これ以上の抵抗は無意味だと、諦めている彼女。でも――。
――……あやねちゃん、本当にそれでいいの……?
ただ彼女の背中に、そんな疑問を投げかけることしかできなかった。
「……なんだ、アヤネ。その帽子は。変装のつもりか?」
「「あっ」」
鈴木は彼女の頭から、黒い猫耳キャスケットを奪い取る。
その瞬間、僕もアヤネも思わず声を漏らし、だが――。
「お前にはお前のイメージがあるんだ。こんな子供っぽい帽子、変装でもかぶってるんじゃない」
「……っ!」
――だが何も知らないからこそ、その帽子を投げ捨てた。
彼女が大切にしている、想いの込められた帽子。
それを無造作に。公園の草むらへと。
今日一日付き合っていたからわかる。
彼女にとって、かけがえのないもの。大切な帽子にそんな扱いをされて、許せないと声を上げ――。
「……ちょっと……ッ!?」
「……いいの」
だが、彼女は。いまにも飛び出そうとする僕のことを、手で静止した。
そんな様子に足を止め――だが、彼女の声が微かに震えていたことを、僕は聞き逃さなかった。
「アヤネ、帰るぞ。早く来なさい」
「……はい」
静かに返答する彼女は、先程までとも、普段とも、様子が違う。
クールを装おうとして、それでも感情が耐えきれず、ごちゃ混ぜになった彼女は。
「……マモル君。今日はありがと。……さよなら」
こちらに振り返ることもなく、プロデューサーの後を追って――去っていった。
◆
後に残された、僕一人。
誰もいない静かな公園で。少年はぽつりと声を漏らす。
「…………なんだよ、『さよなら』って」
まるで、これが最期みたいな――別れの挨拶。
それが納得できないと、ただ一人感情を爆発させる。
「…………なにがいいんだよ……なにもいいわけないじゃないかッ!!」
声を荒げ、衝動のまま駆け出す。
暗い闇夜に放り捨てられた、彼女の帽子。
闇の中を手探りで探し出し、拾い上げ、ついた草を払い除ける。
黒い猫耳キャスケット。
彼女の象徴とも言える、大切な……大切な思い出を見て、決心する。
「……このまま、さよならなんて言わせない」
例え、次が最期。二度と会えなくなっても構わない。
だけど、今日を最期になんか、絶対させない。
「……返すんだ……この帽子を、あやねちゃんに……!」
暗い闇夜の中。
何もできず、怒ることも悲しむこともできなかった彼女を――このまま放ってなんかおけない。
穏やかな月の光を見上げ、最後にひとつだけ願いを込める。
――……何があっても、絶対。『彼女にこの帽子を届けるんだ』、と。