【外伝:九】My Way
夜空に燦然と輝く月に向かって、真っ直ぐに腕を伸ばす。
今にも届きそうな黄金の輝きは遠く指先を掠め、琴華は静かに瞼を閉じた。
「――お見事な舞でした、皇女様」
「お褒めに預かり光栄です」
礼国語でそう述べ頭を下げる相手に、琴華も優雅な微笑みを返した。
中秋の名月を愛でる、観月の宴。
交易の再開を祝うという名目で、今年も観月宴には、錚雲の特使が招かれている。そして琴華は二年連続で、宴の目玉の一つ、月に住まうという女神に捧げる舞を任されていた。
自ら琴華を舞い手に指名した父は、娘の奉納演舞にひとしきり賛辞を送った後、早々に自室に引き上げている。特使の歓待も兼ねた夜の会食は、琴華と、外交や儀礼を司る典采の地位にある彼女の実兄・穏翊が、皇族を代表してを出席することになった。
涼しさを増した秋の、美しく輝く満月の光の下。屋外に設けられた宴会場で、父の重臣や名門貴族の長たちは、美食や美酒に舌鼓を打つ。彼らは互いに会話を楽しむ素振りを見せながらも、宴席に並んだ異国の特使の様子を、油断なく横目で窺っていた。特使も彼らの視線には気付きながら、あくまで品良く、礼式の宴を楽しんでいるように見える。
琴華は責任者の一人として周囲に目を配りながら、彼らと、隣に座す兄に密かに注意を払っていた。
琴華たちの義妹である澄蘭が、今年の初め、いわれのない罪で突如身柄を拘束された。後に解放されたものの、彼女は何故か、隣国へ嫁ぐことがが決定された。
その前後から、目に見えて兄の様子がおかしくなったことに、琴華は気付いていた。
(七年前のあの時も、そうだったわ……)
かつて、兄の婚約者候補だった令嬢が父親の罪に連座する形で、流刑を命じられた時のことだ。奴婢となる将来に絶望した彼女は不幸な最期を迎え、その姿を目撃してしまった兄は一時期、かなり不安定になっていた。今も、普段は朗らかに人と接し、皇太子である義兄の直謙を献身的に補佐しているものの、時折昏い瞳で地の一点を見つめている。彼女たちの母である王雅妃も、息子が再び見せるようになった危うげな表情に、随分と気を揉んでいた。
琴華は内心で溜め息を零す。だが、表面上はあくまで楽しげに、自身と同じ卓に就く隣国の特使に声を掛けた。
「ところで、特使様。義妹は、そちらで問題なく過ごしておりますか?」
途端に一帯が静まり返り、琴華はまたもや内心で嘆息する。
彼女の義妹である澄蘭に着せられた「皇太子位簒奪」の疑惑は、全くの出鱈目であったことが、父皇の口から正式に通達されている。澄蘭の婚約者であった温 遠珂とその父も同様に、反逆者の汚名は完全に雪がれた。不運にも家族を失ってしまった温忠業の妹・陽葵は、澄蘭の祖父である沈 如松の支援のもと、地方で療養しているはずだ。
それでも尚、澄蘭たちに向けられる目は、消えぬ疑惑と奇異の念に満ち溢れている。中には立場を弁えず、露骨に噂話や嘲笑を浮かべる者すらいる始末だ。そしてその話が、隣国に伝わっていないはずもない。
この場で澄蘭について触れれば、兄を筆頭に、居並ぶ官僚や貴族たちが顔を顰めるのは分かっていた。だが琴華は、尋ねずにはいられなかった。
問われた特使は、あくまで穏やかに微笑み、首をかすかに傾げてみせた。
「……大国の姫君が住まわれる後宮の様子など、小職のような者には、雲の上のお伽噺でありますれば」
琴華は「まあ」と微笑み、黙って特使を見つめる。
これは単に自分を卑下する物言いか、本当に何も知らないのか。あるいは、澄蘭を「何も知らない大国の皇女」と馬鹿にする意図か。
琴華は黒水晶に例えられる大きな煌めく瞳を細め、様々な表情を浮かべる周囲を観察していた。澄蘭の名を耳にして眉根を寄せる者、あからさまに冷めた目をする者。給仕担当の女官たちさえ、鼻白んでいるのが分かる。
琴華は敢えて大輪の花のように微笑み、声を張った。
「義妹贔屓が過ぎるかも知れませんが、あの子は努力家で、学問をこよなく愛する自慢のきょうだいですの。きっと礼と錚雲、両国の関係深化に尽力してくれると信じていますわ」
白ける場を無視し堂々と言い切る琴華に、隣に座る兄の穏翊が窘めるように彼女の名を呼ぶ。
「……琴華、そのあたりにしないか」
「あら、穏翊兄様。兄様もそう思うでしょう? あの子の素晴らしさは、兄様もよくご存知のはずよ」
澄蘭が投獄され、そして急に隣国に嫁ぐことになった経緯は、琴華には知らされない。どれほど尋ねても、澄蘭自身も口にすることはないだろう。
琴華はじっと、兄の目を見つめていた。
「……琴華公主様。あまり、無理はなさらないでください」
琴華が子どもの頃から仕えてくれている侍女が、着替えを手伝いながら、そっと宥めるように言う。琴華は苦笑し、「分かってるわ。心配かけてごめんね」と素直に謝った。
礼という国は、「女性らしい淑やかさ」を至上の美、あるべき才女の姿と評価する。その意味で、芸術や内相向きの才に優れた琴華は「淑女の鑑」と呼ばれ、男性顔向けの知性を誇る澄蘭は「皇女失格」の烙印を押された。
けれど、わずか五歳で四書五経の入門書を読み終え、「分からないことに触れるのが楽しい」と微笑む神童が、その辺にごろごろ転がって居るはずがないではないか。それは目を瞠べき才能だ。
(……いいえ。そもそも才があろうとなかろうと、自らの意思で立ち、歩んでいく人は皆、尊いのよ)
その才を用いて他者を苦しめたり、世界を壊そうと企む相手だけは、琴華も絶対に認め難い。だが、それ以外では皆、「そこに存在するだけで奇跡だ」と思っている。
自分の物差しに当てはまらない人間を「愚か」と弾くことほど、虚しい生き方もない。
鼻息も荒く寝間着に着替える琴華を、侍女は苦笑気味に見守ってくれている。彼女だけは、琴華が澄蘭に寄せる思いを否定しない。彼女のような侍女に支えてもらえて、自分は恵まれていると本当にありがたく思う。
澄蘭には、姷明という名の侍女が同行してくれていた。彼女たちはあちらで、上手くやれているだろうか。
(澄蘭、元気にしてるかな。──会いたいな)
「──ねえ、円円。月が綺麗だったわね」
不意に琴華がポツリと零した言葉に、侍女──円円は瞬きをして微笑んだ。
「そうですわね。……きっとあちらで、澄蘭公主も、同じ月を眺めていらっしゃるでしょう」
うん、と微笑み、琴華はぐっと伸びをした。
あの子は賢くて強い、琴華の自慢の義妹だ。
いつか再会するその日まで、自分もこの国で、自分らしく強く生きていこう琴華は思う。あの子に負けないように、恥じないように。
ふっと息を吐き、琴華は円円の方を振り返って言った。
「――明日は、どちらのご令嬢とのお茶会だったかしら?」
「刑部忠勝の、三のご息女ですわ。皇后陛下のご実家と対立する家系の」
間髪入れずに答えてくれる侍女の優秀さに感心しながら、琴華は目を細めた。
「ああ、あそこね。……あらかじめ、趙皇后にも話は通っていて?」
「はい、もちろん。『くれぐれもよろしく』と、王雅妃様経由で伝言を託かっております」
打てば響くように答える侍女に、「さすがね」と微笑み、琴華は自身の両頬を張った。
タイトルは、フランク・シナトラの曲名より。




