ifよりもここから
どこかにひゅーんって飛んで行けたら良いのかもしれない。そんなことを思う。眠りの質を良くする為に新しい枕と枕カバーを買っても、なかなか開封出来なくて。少しだけウォーキングにと思って歩き始めると、すぐに疲れてしまって。人のいる場所が、苦手で。外へ行くたびに身体的にも精神的にも息苦しさを覚える。こんな私が行く場所など、もしかしたらどこにもないのかもしれない。そんな風に思いながら、思い切って見上げた空は絵筆で刷いたような白い雲が少しだけある、どこまでも続く水色の空。冬の空を見上げて、少しだけ息を吐いて。溜め息のような。あの、途方もない憧れのような、どうしようもない気持ち。誰にも繋がれない、ぽつんとした小さな灯りのような私の孤独。この抱えているのが苦しい気持ち。空に解き放つことが出来れば、楽になるのかなと考える。でも、きっとこれが私。いままでの悲しいことも苦しいことも、いまのつらさも抱えて立っている、これが等身大の私。勿論、楽しかったことも嬉しかったことも私の中にちゃんとある。悲しみも喜びもつらさも大切な私の持ち物。私の感情。私の記憶。
だけど、もしも一度だけ、時間を戻してやり直せるとしたら。私は、ひゅーんと飛んでどこの地点に着陸するのだろう。懐かしくて楽しい記憶が多い、小学生の時だろうか。母と気が合わないと思い始める頃だろうか。大好きな父が亡くなる前だろうか。正社員になって社会人として一生懸命に働き始めた頃だろうか。鬱状態などの病状を自覚する頃だろうか。
私は、家庭環境がきっと良くなかった。それでも、違う母の元に生まれ直したいとは思わなくなった。思っていた時期もあった。母に愛されていれば、私は違う人生を歩めたのにと。幸せに、なれたのにと。けれど、そうすれば文字通りの「違う人生」だ。父も母も違って、私も違う人になる。経験や想いや記憶も価値観も考え方も違う「私」になる。そんなもしもの話だけれど、果たしてそれで私は幸せなのだろうか。痛みを抱えたいまの私こそがかけがえのない本当のたったひとりの私で、私は他の私になりたいとは思わないと、心の奥底では実は充分に良く分かっている。分かっていても、空を見上げる。どこかに、ひゅーんと飛んで行きたいと。いまの家が大好きなのに。ずっと家にいたいのに。痛みも苦しみもなくて、抱えた病状もなくて、悲しかった思い出も自分の悔悟もない、どこか。そんな世界を不意に探してしまう時がある。空の遠くに。叶わない夢をみてしまう。
けれど、現実世界の合間に不意にみる夢だから良いのだろうと、本当は私は分かっている。ここで私は生きて行く。相性が良くない母にいつか会えたらとか、亡くなった父といつか天国で会えたらとか、病状がほとんどなくなってげんきいっぱいになれたらとか。そういう夢をみるのはここで私が生きていたいからだ。何者かになりたい想い、近くて遠い誰かに物語を届ける小説家になりたいという夢、大好きな紅茶を飲みながら大好きな読書をする時間。他にも沢山の想い、夢、趣味を大切にしたい自分自身。その私自身が私は好きなのだ。健康だったら、もっと多くのことが出来たとは思う。ばりばり執筆活動をしたり、るんるんと散歩に行ったり、人を愛したり。ささやかな夢を沢山、叶えたり。色々なことが出来たと思う。でも、私はまだ諦めていない。抱えている沢山の夢や希望を手離さない。ひゅーんと、風船のように軽々とどこかへ飛んで行きたくなる時もあるけれど。私は自分のいまが大切なのだと、根っこのところで良く分かっている。だから、ここにいる。
もうすぐ、春が来る。私の好きな花である、タンポポが咲く。父は小さい子供だった私に、タンポポの描き方を教えてくれた。タンポポの花を描く時は、最初に薄く丸を描いて、そこに付け足すように花びらを描いて行くと良い感じになるよと父は実際に描きながら教えてくれた。私はその思い出を大切に持っている。今度、父の教えてくれた描き方で久しぶりにタンポポを描いてみようと思う。私の足元でいつも咲き、私を見守ってくれる花であるタンポポを。
想いを巡らせることは、ひゅーんと自由に出来る。母を想い、父を想うことは出来る。小説家になるという夢をみて、叶える為に模索し、執筆をすることも出来る。大好きな紅茶を探し、淹れて、飲むことも出来る。読書をすることも出来る。私には出来ることが沢山あるし、叶えたい夢もある。だから、羽はなくても私は私の夢の先を目指して歩いて行ける。いつも、ここから始まって行ける。今日も、明日も、その先の未来も。いつでも私はここから始まって行く。




