ひとつぶめ
バレンタインなんて滅んでしまえ。
壱は顰めっ面をしながら、人で溢れ返っている街中を歩いていた。
甘ったるい匂いが鼻にこびりついて離れない。先程までいたバレンタイン売り場のことを思い出し、壱は鼻をしきりに擦る。そこで。
「ちょっと、壱くん!」
鋭い声が飛んできて、壱は足を止めた。
さっきからこの声を無視していたが、ずいぶんと息が上がっているようだ。さすがにこれ以上は可哀想だろう。
そうして壱は、おもむろに振り返る。そこには、思った通りの少女が、壱を睨みつけていた。壱の片思いの相手である真琴だ。
数時間前は、毛先を緩くカールさせて綺麗に整えていた茶髪だが、今はぐちゃぐちゃになっている。薄くしていたメイクも、汗で崩れてしまっていた。
普段はかわいく微笑んでいることが多い真琴だが、見るも無惨な姿である。
かわいい。こんな状況の彼女にそんなことを思って、壱は口角を上げた。
「変な顔だね」
「誰の……せいだと……」
真琴の消え入るような抗議に、壱はとぼけて肩を竦める。
「誰?」
真琴の眉がつり上がった。
「壱くんに決まってるでしょ!」
金切り声をあげると、彼女はツカツカと近寄ってくる。元気じゃん、という呟きは、さすがに胸の中にしまっておいた。
「なんで?」
わざとらしく首を傾げてやると、真琴はぐっと顔を寄せてくる。ぐしゃぐしゃになっている髪に手を伸ばすのは──すんでのところで堪えた。
壱は誤魔化すように自分の後頭部をかいたが、真琴はそれどころでなかったらしい。壱への不満をツラツラと語り始める。
その不満は聞き飽きたもので、「呼んでいるんだから答えてほしい」だとか、「なんで待ってくれないの」とか、「荷物持ちで来てくれたんでしょ」とか、そんな感じの内容だ。
話を右から左に聞き流し、壱は欠伸をする。
「聞いてるの?」
「聞いてない」
「あのね!」
真琴は眦を吊り上げると、壱の胸元をぽこぽこと叩いてくる。
怒っているのだろうが、身長差があるからか、力が入ってないため、あまりダメージはなかった。
「壱くんが『荷物持つよ』って言うから今日は一緒に来たの! そんでこんなに買ったの! そうじゃなかったら、ちゃんと自分が持てるくらいにしたのに! 壱くんのばかっ!」
「あ、真琴ちゃん、もう少し上で」
おちょくる壱に、真琴はぴたりと動きを止めた。
堪えきれないものを天に向かって吐き出すと、真琴は拳を震わせる。それからそっぽを向いた。
「もう壱くんなんか知らない! 絶交だからね!」
呆れて半目を向ければ、真琴は悔しそうに地団駄を踏んだ。
「絶交だよ⁉ 一生口きいてやらないんだからね! なんでそんな余裕なんだよ!」
「ごめんねー。先週のことを思い出してて」
先週も似たようなやりとりをした。それを思い出したのか、真琴は喋るのを止めた。
壱は真琴の顔を覗き込んだ。肩が揺れて、真琴が視線から逃れるように顔を逸らす。目の前にきた小さい耳に、壱は口角を上げた。
「そんで、僕と絶交した真琴ちゃんは、誰に試食を頼むつもりかな?」
彼女の親友は甘い物が苦手だし、他の友達には太るからと断られていたはずだ。
痛いところを突かれた真琴は、胸を押さえる。
「…………」
胸が痛いのはこっちのほうだ。俯いて、頬を赤らめる真琴から目をそらす。
そこで、彼女の足が目についた。
「──真琴ちゃん、それ」
膝から血が滲んでいる。
「途中で転けたの」
「え。ご、ごめん」
そんなこと、気づかなかった。
壱は慌てて彼女から荷物を取り上げる。真琴は目を瞠り、ふにゃっと笑った。
「ありがとう」
なんとも現金なもので、真琴は一気に上機嫌になると、近くにあったベンチを指した。
「絆創膏貼ってもいい?」
「うん」
壱が頷くと、真琴はひょこひょこと歩いて行って、ベンチに腰掛けた。
その横に座ると、壱は彼女の荷物を眺める。
中には、チョコレートを中心に、牛乳やら小麦粉やらの材料がぎっしりと入っている。バレンタインに向けて、お菓子作りの練習に使うらしい。
毎年練習して、もうずいぶん上手くなっていると思うが、まだ頑張るんだなぁ(しかも、それは他の男のためだ)と思うと、口内に苦いものが広がった。
(進歩ないなあ……)
イライラするのは分かっているのに、傍にいたいからなんて理由で買い物に付き合っているし、チョコの試食にもする。フラれたと泣く彼女を慰めてもいる。
そんなことを五年続けたって、真琴はちっとも振り向いてくれない。一番近くにいるのは壱なのに。
毎回、壱と全く別のタイプを好きになる真琴に、壱は告白しようという気も湧いてこなかった。
「──よし。できた」
壱がぼうっとしている間に、真琴は絆創膏を貼り終えたらしい。
「立てそう?」
壱は真琴の手を取った。
爪が丸っこくて、指はあまり長くない。だけど、よく手入れされた滑らかな手だし、男の自分とは違う、女の子の手だった。
「ありがとう」
壱はこうやって彼女の至る所にドキドキしているのに、真琴はなにも考えてなそうな顔で笑う。
彼女のそういうところがとても好きで、本当に嫌いだ。
嘆息すると、後ろから自分の名前が聞こえた。
「──壱くん?」
振り返って、目を瞠る。後ろにいたのは、意外な女の子だった。
「……ひなちゃん?」
壱の元カノ。水瀬雛子だった。
雛子は壱が名前を呼ぶと、ほっと胸を撫で下ろした。
「あ、やっぱりそうだ。久しぶりだね」
「ひ、久しぶり……?」
手を振りながら、壱は混乱した。
付き合ってる時の雛子は、こんな風に気軽に話しかけてくるような子じゃなかった。友達の女子に押され、壱と無理やり並ばされて、壱が話しかけるまで、縮こまっているような子だったのに。
(……あ!)
今の状況を思い出し、壱は急いで真琴から手を離した。
「い、いや、別にこれは……違うくて」
「うん?」
狼狽える壱に、雛子は首を傾げた。
「あ、えっと……」
よかった。普通だ。
雛子が傷ついてないことにほっとして、でもその考えがよく分からなくて、壱は一人であたふたしていた。
「ひな。お待たせ」
すると、雛子の肩に手が置かれて、少年が顔を出した。
「……え、キリくん?」
その人物がまた知っていて、それも意外なやつだったので、壱は素っ頓狂な声を出した。
「あ?」
少年、キリはメンチを切ったが、相手が壱だと分かると、あっさり手の平を返した。
「いっちーじゃん。久しぶり」
「久しぶ──おっと」
そのまま話しだそうとしたが、真琴に袖を引かれて、我に返る。
「あの。どちらさま……?」
「小学校で一緒だったやつ。男がキリで、女の子がひなちゃん」
卒業以来会っていなかったが、比較的仲は良かった友達だ。
「二人とも、真琴ちゃんだよ。中学から一緒なんだ」
「西ノ谷真琴です。よろしくね」
ようやく紹介された真琴が、笑って手を出す。雛子がそれに応えていると、ふいにキリが爆弾を落とした。
「……あ、そうか。前にひなが言ってた付き合ってたってやつって壱のこと?」
余計なことを言ってくれるものだ。キリを横目で睨んだ。
「そうなの?」
「……まあ、全然話さなかったんだけどね。付き合ってたのかも、正直微妙っていうか」
真琴の問いに答えながら、壱は頭をかく。なぜか自然と早口になった。
今さら昔のことを蒸し返されるのも嫌だったし、なんとなく、雛子には、真琴といるところを見られたくなかった。
どうしてだかは、よく分からないけれど。
「……あー、えっと……」
とりあえず、なにか言わないといけない。雛子といるとそればっかりだ。毎日のようにせっついてきた女子達を思い出し、胃が張るような感覚に口を押さえた。
そんな調子で、雛子に振る話題を一生懸命考えていると、キリがおもむろに体を動かした。
「え、」
後ろから雛子を抱きしめて、壱も雛子も固まる。唯一、真琴だけが小さく黄色い声をあげた。
「ま、今は俺達が付き合ってるからさ。変に気を持ってもだめだよ」
ぎろりと睨まれて、壱は思わず驚きの声をあげた。
そういえば、どうしてこの二人が一緒にいるのかだとか、疑問は感じていたけど、ちゃんと考えていなかった。
まさか、付き合っていたとは。
「なに。なんか文句ある?」
「あるよ!」
雛子とキリ。不釣り合いにも程がある!
「キリくん、自分、小学校の時、なんて言われてたか覚えてる⁉ 狂犬! 狂犬だよ! 小学生ですでに狂ってるって言われるの相当だよ⁉」
「覚えてはいるけど、別になんの悪さもしてないのに、そのあだ名は全然納得してない。ボス猿が勝手につけただけなのに、広まる理由もよく分からん」
「みんな納得のあだ名だったの!」
ひたすら自分を貫いている、一匹狼だった狂犬が、よりによって雛子と。あの、小さくて大人しくてかわいくて、小動物にしか見えない雛子と。
「大丈夫なの?」
雛子に詰め寄ろうとしたが、キリに距離を離されてしまった。こいつ、徹底している。
「大丈夫だよ」
「ほんと? 雛子ちゃん、キリくんに脅されてない?」
「いやいや。脅されてないよ」
雛子は苦笑して、それでもきっぱりと否定した。
「キリくん、とっても優しいよ。壱くんも知ってるでしょ?」
「……。まあ、知ってるけど……」
キリは基本的に弱い者や困っている人に優しい人だ。誤解もされやすいし怖いけれど、壱はそういうところに憧れていた。
「じゃあ、あの女子達に無理やりくっつけられたんでしょ。正解だ」
なんせあの女子共、雛子が萎縮するような男を無理やりくっつけるから。
壱の名推理にキリは深々とため息を吐く。不機嫌そうだ。
「……まあ……その通りだけど」
「でしょ⁉」
「でも今は超仲良いから。なー」
「う、うん……えへへ……」
「よ……よかったね……」
雛子に対してだけ、声にトゲがなくってデレデレしている。雛子もなんだか嬉しそうだ。壱は思わずたじろいだ。
キリは、恋愛にはてんで興味がないと言っていたはずだ。雛子だって、壱がどれだけ頑張ってもあんな顔で笑わなかったのに。
それが結構ショックで、ショックを受けている自分も、なんか嫌だった。
「……あ、ごめんね」
ハッとした雛子が、真琴の方を向いて、頭を下げた。
「西ノ谷さんのこと、置いてけぼりにしちゃった」
「え、全然いいよ。ごちそうさまって感じだった」
ただでさえ赤かった雛子の顔が、真琴の言葉でさらに赤く染まる。
真琴はそんな雛子に優しく笑うと、彼女の肩を軽く叩いた。
「あ、ていうか、真琴でいいよ、ひなちゃん」
「あ、うん……えへへ、真琴ちゃん」
「かわいい! ね、ね、連絡先交換しようよ」
「……西ノ谷だっけ? すごいフランクだな」
(あ。やっばい……)
キリは、テンションの高い女子があまり好きではなかった。真琴とは相性が悪そうだ。
「お友達は多いほうがいいじゃん? そんなわけでキリくんも、はい。交換」
「ま、真琴ちゃ」
「ん」
真琴に言われるままキリがスマホを出して、壱は目を剥いた。
あのキリが、文句も言わず、顔も歪めずに真琴みたいな女子の相手をしているなんて。
「でも俺、あんまりメッセージ返さないよ」
あ、そういうことは言うのか。思わずほっとしていると、隣で真琴がからりと笑う。
「ひなちゃんのだったら返すくせに」
「や、電話するよ。声聞きたいじゃん」
「ねえ、キリくんどうしたの? 変な物食べたの? 大丈夫⁉」
「うるっせえなあ」
キリの肩を掴んで揺らすと、その手を振り払われる。
「お前も成長しろ、成長を」
「……なんだよ」
恋愛してたら大人だなんて。そんなこと、キリには言われたくなかった。
拗ねる壱にため息を吐くと、キリはスマホを向けてくる。
意図することが解って、壱は慌ててトークアプリを起動した。
「っつーか、自分だってかわいい彼女連れてんじゃん。人のこと言えんの?」
キリがにやりと笑う。壱は心臓を跳ねさせた。
「いや、僕と真琴ちゃんは、その」
どくどくとうるさい心臓を押さえ、壱は雛子に目を向ける。
早いこと言い訳しなければ。雛子が傷ついて──そんなことを考え、俯く壱の背中に衝撃が走った。
「あっはは。壱くんと付き合うなんて、そんなわけないじゃない。友達、友達」
「…………」
「あー……まあ、どんまい」
半眼になる壱に、今度はキリが肩を叩いてくる。
苦笑する雛子を一瞥して、壱は一人だけ分かってない真琴の腹を、肘で突いた。




