第1話
瞼の外がほんのりと明るい。目を開けようとして初めて自分が眠っていたことに気づいた。
酷く重いそれを押し上げてみると、眼前には白と黒それぞれの色の球体が2つ浮いていた。
体を動かそうにも全身がひび割れてしまったかのように軋んで痛む。少しでも動かしたらバラバラに砕け散ってしまうのではないかと思った。
自分の身に起きていることがわからず、何とか開いた目からは熱いものが溢れた。痛みに対するものなのか、混乱によるものなのかはわからない。
「やあ。目が覚めたかい」
白の球体が語りかけてくる。いや、語るというには発声器官もなにもないように思う。
不思議なそれは、だがこちらの困惑を介さず続けて声を発生させた。
「ごめんね。私のせいでこんなことになってしまった。もっとスムーズにできたらよかったんだけど」
白い球体はどうやら落ち込んでいるようだった。見た目にはわからないが発する声音がそう感じさせて、まったく事情はわからないが私は心の中でいいよ、と笑った。
「君にこんな不便を強いて、情けないったらないね……。今の私にはこれが精一杯なんだ。どうか、目が覚めた後の君に幸多からんことを」
白がそう言うと、隣で浮遊していただけの黒い方の球体がスルスルと寄ってきて私の胸の上で止まった。
かと思うと、今度こそ全身が砕けんばかりの激痛が走る。あまりの衝撃に視界がチカチカと明滅した。胸を掻きむしりたくても体はやはりピクリとも動かない。
「呪いは、あくまでも君が解除しなくてはならない。君の生き方ひとつなんだ」
白いのが何か言っているが理解できない。痛みで頭がおかしくなりそうだった。もう私の体なんて砕け散って破片ばかりになっているのではないだろうか。もがく視界の先で球体だったはずの黒いものがモヤになって私の中に入っていくのが見えた。
「どうか、君に大切なものができますように。できることならたくさん、ね」
白の言葉は聞こえない。ただ、その声は少しだけ私を励まそうとしているような、優しいものに思えた。
横たえた身体が、下から突き上げるような振動を感じとる。何かがこちらに向かってくる。そう気づいた瞬間、意識が急激に浮上した。
ドアが爆音とともに開いたかと思うと、何かがベッドに飛び込んできた。
「さくちゃん!」
その“何か”――リヒャルトさんの巨大な体が私を包み込むように抱きしめる。
「ぐ、ぐるじい! リヒャルトさん、肺が潰れるっ!」
顔を潰されながら手当たり次第に胸を叩く。硬い。まるで木彫りの熊でも殴ってる気分だ。なのに当の本人は、微動だにしない。
「さく……泣いてるじゃないか」
ふわりと触れた手が、私の目尻をなぞった。少しくすぐったい。夢の名残か、まだ顔が熱い。
「泣いてないよ。ていうかまず、離して。ほんとに苦しい!」
ようやく解放されたと思ったら、目の前に完璧すぎる顔面が現れた。朝イチでこの顔はずるい。
どう見ても神様が酒飲みながらふざけて造ったレベルの顔面。こっちは寝起きの顔を晒しているのに、朝からこの仕打ちはひどい。
「……っ、怖くないよ。ただの変な夢。毎回わけわかんないやつ」
「夢、また見たんだな。悪い夢だったら、いっそ忘れてくれたほうがいいのに」
その声は、やけに静かだった。そんな顔をされると、なんだか申し訳ない気がする。
「ま、夢の内容ほとんど覚えてないし」
「そうか。……でも、さくが泣いてる気配がして、すぐ来たんだぞ。心配になるだろう?」
この人の“気配を察知する能力”だけは謎だ。というか、
「ちょっと待って、今気づいたけど、パンイチじゃん!?」
「朝風呂入ってたんだけど、さくが目覚める気配がしたから飛んできた」
いや、それさっきと話が違う。しかも湿気を含んだ胸板の感触、今思い出しただけでもつらい。叩いても揺るがないこの筋肉に、理不尽を感じる。
「ほら、朝ごはん作ってくるから一緒においで。今日は俺の当番だぞ」
「だからその状態でうろつかないで! てか、着替えてから来て!」
無理やりベッドから追い出すと、彼はあっさり立ち退く。背中が広い。というか高い。こっちは見上げすぎて首が痛いんだよな。
行き倒れた私を拾って、何も言わず面倒を見てくれてる人。過保護を通り越して、もはや保育士みたいだ。
あの灰色の髪、光が当たると銀色に見えるんだよね……。目も同じ色で、よく見ると虹彩に銀の粒が混ざってる。お気に入り。いや、何言ってんだ私は。
その後ろ姿をぼんやり眺めていると、リヒャルトさんは私が着いてこないことに気づいてくるりと振り返る。
ふいに顔面国宝とバチッと目が合った。キョトンとしながら小首をかしげるあざとい国宝。グッとくるのは否定しないが、この男35歳(独身)。
リヒャルトさんは、私のことを記憶喪失だと思っている。それは半分本当で、半分嘘だ。
リヒャルトさんの背中越しに、未だ違和感のある景色を見た。
石造りの建物に、音の出る魔道灯の看板。やたら背の高い街路樹に、草の匂いが濃い空気。
もう驚くことはない。けれど、どこかまだ“借り物”の景色に感じるのは――私の根っこが、ここにないからだ。
「さく?」
呼ばれて、ぼんやりしていた意識が戻る。
「……ううん、なんでもない」
ほんとはあるけど。言えないだけで。
リヒャルトさんが私に「さくや」と名前をつけてくれて、みんなは記憶喪失だと思ってる。
目が覚めると、そこは知らない部屋だった。行き倒れていた私を病院に運び、ひと月以上も付き添ってくれていたのが、リヒャルトさん。
生死の境を彷徨うほどのギリギリ具合だったらしく、股間にチューブが刺さっているのに気づいた時は泣いた。
皆が口にする言葉は分かるのに、看板の文字はただの模様にしか見えなかった。小さな子供でさえすらすら読んでいたけれど、私には一つも分からなかった。
エルダーニア神聖王国。この国の名を聞いたとき、反射的に『そんな国、聞いたことない』と叫んでいた。必死に、元いた場所の名前や季節や習慣をまくし立てても、リヒャルトさんは眉をひそめて、黙って私の頭を撫でただけだった。
「よっぽと怖い思いをしたんだな……可哀想に。だけどそんな話、外でしないようにしような」
家の中だけだぞ、と悲しみを含んだ優しい微笑みを浮かべて哀れまれた。これ以上食い下がっては狂人扱いされかねないと、私は口を噤んで記憶喪失という設定を受けいれた。
なぜ、どうして。私はこの世界で行き倒れていたのか。名前や家族どころか事態の前後さえも覚えていない。
なにか意味があるのだろうか。出来ることなら無意味でないことを祈るが、何か特別なことが起きることはなく、リヒャルトさんに引き取られてからそろそろ1年が経とうとしていた。
「さく」
ん? 呼ばれて顔を上げると目の前に唇のドアップ。気づいた時にはチュッと頬にキスをされた。
「ぎゃあああ!!!!」
「難しい顔してるな。気にすんなって言ってるだろ?」
「気にするよ!! 」
マジのガチの赤ん坊扱いに憤慨するも、リヒャルトさんはわははと笑ってもう一度、今度は額に吸い付いた。
「世界でいちばん可愛い俺の子。俺のさくや。さあ、今日の朝ごはんはさくやの好きなの作ろうな。俺が食べさせてやる」
「いや、私18歳なんだけど!?」
怒りの鉄拳をいとも簡単に躱して、顔面国宝は拝みたくなるほど爽やかな笑顔を浮かべたのだった。