早起きと徳
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
早起きは三文の徳。
みんなもよく聞く、ことわざのひとつでないかと思う。三文、というのはちょびっとというたとえの例であり、めちゃくちゃ良いことではないが、確実に良いことである、ということになっている。
中国では早起きを三日続ければ、一人分の仕事に相当するという言葉があり、それが日本へ入ってきたおり、変化を遂げたとみなされているとか。
そこへ、やれ治水工事の手伝いを朝早くにやると三文の礼金が払われるとか、やれ生類憐みの令で生き物の死骸が家の敷地にあると罰金三文を課せられるから、早起きして確認しておくべきだとか、様々な要素が合わさって「三文の徳」が強調されたとか。
徳とは大小に限らず、積むことに意義がある。
早起きを続けていけば、生活リズムの改善ひいては体調の改善にも一役買う……という科学的知見でのメリットも確かにあるだろう。しかし、スピリット的な面ではどうであっただろうか。
メリットはメリット。しかし、人の観点から見た場合はどのようであるか……。
そのうちのひとつのケース、聞いてみないか?
むかしむかし。
夜明けとともに、起きることを心掛けていた若者がいた。
昨日、どのように遅くに眠ったとしても、彼はいつも夜明けには目を覚ましていたという。もちろん、そこから二度寝にいざなわれたことは一度や二度ではない、と彼自身も多くの人に語ったようだ。
それでも彼が起き続けた理由は、このごろおもしろいものを見るようになったから、とのことだった。
ここではない、どこかの様子。
日によって内容がばらけがちな、眠りの中の夢とは違い、早くに起きたのであれば、しばらくはそのよく知らない場所での景色を見ることができたのだという。そして、それらの光景の終わりに、自分たちが住まうところのわずかな将来を見ることができた、とも語った。
絵心がなかったという彼は、自分の見た光景を書き表そうとしても、子供のいたずらとしか思えない低質な絵ばかりになり、本人でさえ見るにたえないと感じるほどだったという。
口述筆記も依頼してみたのだが、これを引き受けた者たちは描いていくうちにだんだんと頭の痛みに悩まされてしまったらしい。
筆を進めていくうちに、頭蓋の中からゴツゴツとノミで叩かれるような痛みが強まっていき、どうにもならなくなってしまうんだ。一番長く続いたものでも、そばにいた別の人へ手斧を持たせ「俺の頭を割ってくれ!」と懇願してしまった、という話まで出るくらいだったとか。
ゆえに、彼の話はあくまで口伝えのものにとどまる。
早起きして、最初に見る彼の光景は点滅だといった。
身支度を整え、意識せずにしてしまうまばたきの幾度めかで、不意に自分の目の前の景色が変ずる。
赤、黄、緑……およそ、自然でよく見る色たちが目まぐるしく入れかわり、立ちかわり、きらめき続けて若者の視界をふさぎきる。それが終わったのち、彼は夜明け前後とは思えない明るい場所へ飛ばされるというのだ。
緑多く、雲も皆無の澄み渡る空の下、「サイ」たちが歩いていたという。
ああ、動物のほうの「犀」とは別だ。ユリの古名のほうだな。
彼の話では柔らかな日差しのもと、人間のように手足を生やしながら、首から上がユリの花のようになっている生き物……と呼んで怪しいものたちが闊歩し、互いに会釈をしたり、言葉を交わしたりする素振りが見られたというんだ。
若者はそれを見る以外に、何もできない。動くことはいっさいできず、声を発することもできない。そのままユリたちがのし歩くのをしばし眺めていると、やがて元の自分の場所へ戻って来るんだ。
ただし、時間は元の夜明け前後にあらず。若者が見ているのは日暮れどき。夕焼けの沈みかける赤みがかった空へ、どこから急に雲が湧き、雨が降り始める……。
そこで彼はようやく、元の時間へ戻ってくるんだ。
彼の見たもの。それはその日の夕暮れどきに、実際に起こった奇妙な天気そのものだったという。
彼が見るようになった、おもしろいものというのは未来に起こるできごとのことだったわけだ。早起きをすると、これらの予報はほぼ確実に見ることができて、命中精度も非常に高かったという。
回数を重ねるたびに、やがて若者本人のみならず、彼の見たものをあてにする人が少しずつ増えていく。同じように早起きをして、彼と同じ力を得ようと試みた者もまた大勢いたが、これから起こることも見えなければ、色とりどりの明滅ののちに歩くユリたちのいる景色も目の当たりにすることはできなかったそうだ。
この力さえあれば、村も安泰……と考える日々は、そう長くは続かなかった。
長くこの早起きの予見を続けていくうち、彼の身体中にはシミやシワがどんどんと浮かぶようになる。老化の早まりだった。
それだけでなく、早起きでなかったとしても起きている最中に、しばしばあの歩くユリたちの姿と、それに続く未来の姿がふと頭に浮かぶようになる。見据える先も、その日のうちのものでなく、明日、明後日、明々後日……次々と先のことを見通せるようになっていく。
そうしてついには、どれほど先のことを見たかもわからない報せののち、彼は「変わった」。
ある朝、自らが話していたように、彼は人の肉体を持つユリ頭の一員となってしまっていたのだ。
その姿を認めるや、彼はすぐさま入水して命を絶ってしまったとのことで、家族の皆の証言によってのみ、ことの次第が語られている。
彼が最終的にどこまでを見たのかは、いまだ判然としない。ただ彼が途方もない先を見た末に歩くユリと同じものになってしまったのなら、あれは我々がやがて迎える「将来」のひとつであるのかもしれない。
重ねた徳の、行きつく先であった、とね。