悪女だって愛されたい〜処刑された筈の伯爵令嬢は現代日本に異世界転移する~
人々が行き交う交差点。その横断歩道の真ん中に質素な服を来た少女は立っていた。
耳鳴りがしたかと思えば、先程まで聞こえていた音とは少し違う喧騒に違和感を覚えて彼女は目を開ける。
「…………え?」
見たことも無いほどに高くそびえ立つ建物。夜なのに眩いほど明るい町並み。すれ違う人々が見たこともない服に身を包んでいる。
これは……夢? でも、わたくしはさっきまで処刑台の上にいて、ギロチンで首を刎ねられた筈ですわ。
彼女はそこまで考えてハッと確かめるように自分の首に触れた。だが、何ともない。
彼女の名前はナターシャ・ベル・ファンシー。リュラフス王国のアイーリズ伯爵の娘として生を受けた。
カレンデム公爵令嬢のエリノアから王太子であるウィルフリッドの婚約者の座を略奪する為、あらゆる努力をしてきた。そして父親の指示通りカレンデム公爵令嬢を陥れるため、夜会でエリノアがナターシャを襲わせたように見せかけたのだが、王太子であるウィルフリッドの働きによって、ナターシャたちアイーリズ伯爵家の企みは暴かれてしまったのだ。
これが所謂あの世という場所なのかしら? とナターシャは首を傾げる。
「────い。おい! アンタ!!」
思考を巡らせていたナターシャの耳に低い声が聞こえた。それと同時に強い力で腕を掴まれたかと思うと、ナターシャはグイッと引っ張られる。
「きゃあっ!!!?」
悲鳴を上げながらナターシャは何かに顔をぶつけた。
「いっ!!」
「赤信号に変わったのに、いつまで横断歩道に突っ立ってるワケ? アンタ死ぬ気?」
死ぬ気? と、問いかける割には感情が篭っていないような冷静な声がナターシャの頭上に降ってきた。その声の主を確認しようとナターシャは顔を上げる。
黒い髪に黒い瞳の青年がナターシャを見下ろしていた。暗がりでも分かるほど整った顔に、一瞬ナターシャは目を奪われる。だが、そんなときめきは彼が次に放った言葉で一瞬にして崩れ去った。
「つーか、何だその汚れたボロボロのワンピース……」
上から下までを何度か行き来するその視線にナターシャはムッとする。
「わ、わたくしだって! 好き好んでこんなのを着ている訳じゃありませんわ!! というか、いつまで掴んているのっ! 離しなさい!! 無礼ですわよ!!」
掴まれている手を振り払おうとナターシャは腕を振る。案外簡単に手が離れて、ギロリとナターシャは目の前の青年を睨みつけた。すると、目の前の青年がポカン口を開く。それから、少しの間をおいて「……は?」とその口から戸惑いの声が漏れる。
「は? ではありませんわっ!! わたくしを誰だと思っていますの!? アイーリズ伯爵家の娘ですわよ!?」
「は、……はくしゃく?」
「そうですわ! ……というか、貴方変な服を着ていますのね? 平民ですの? 貴族のわたくしに軽々しく触れないでちょうだい!!」
「貴族……?」と呟いた青年に「そうですわ」と返事をするナターシャ。
これで彼も分かったでしょう。そして、先程までの無礼な態度に土下座して謝る筈ですわ!!
何処か得意気な気分でフンッと腕を組んでナターシャは青年から顔を逸らす。だが、次に返ってきた言葉はナターシャの予想を遥かに上回る回答だった。
「アンタ、頭おかしいんじゃない?」
そう言って、コテンと青年が首を傾げる。
「なっ!? 何ですって!? おかしいのは貴方の方でしょう!!!?」
「今どき、“ですわ”とか言う話し方する奴いないでしょ。それか何? そういう設定のコスプレ? 何かのアニメとか?」
「ア、アニメ? ……何ですの? それは?」
「…………。」
ナターシャが聞き返すと相手が黙り込んだ。その沈黙にナターシャは戸惑う。
「何故黙りますの!? 何とか仰ったらどうなのっ!!」
「…………いや、何と言うか、………。やっぱり変な奴だなと思って。……アンタ、頭打った?」
しどろもどろに呟かれた失礼な物言いにナターシャはイライラが募っていく。
「先程から聞いていれば、アンタ、アンタと失礼ですわね! わたくしにはナターシャという名前がありますわ!!」
「ナターシャ?」
反復するように呟いた青年が眉を顰める。そしてポツリと一言。
「変な名前……」
「なっ!」
「外国人?」
「そういう貴方は!? 人の名前を聞くのであれば、先にそちらから名乗るのが礼儀ではありませんの!?」
むぅぅぅっ、とナターシャがムキになる。だが、青年も思うところがあったらしく、先程のように失礼な物言いはせず素直に名乗った。
「あきら……谷澤晶」
♢♢♢♢♢
「アキラ、これは今何処に向かっているの?」
ナターシャは青年、もとい晶に手を引かれるがままあとをついて行く。
「交番」
「コウバン?」
「そ。警察にアンタを預ける」
「ケーサツ? 何ですの? それは?」
「アンタ、警察も知らないの?」
「バ、バカにしないで! これでもわたくし、学園では休み時間に王太子殿下に勉強を教えてもらっていましたのよ!」
「…………。へー」
「何ですの! その生返事はっ!!」
少し間があった晶の返しにぎゃあぎゃあと騒ぐナターシャ。それに対して、晶はうるさい女……と、冷めた思考をしていた。何故、晶がナターシャを連れて歩く羽目になったかと言うと、横断歩道の前で今のようにナターシャが騒いだ事から始まる。通りすがりの通行人の視線が痛く晶に突き刺さったのだ。「じゃあ、そういう事で」と立ち去ろうとしたのだが、「待ちなさい!」とナターシャに腕を掴まれて止められた。
「貴方、色々知っているようだから、責任を持ってわたくしをアイーリズ伯爵邸に送り届けなさい!」
ビシッと指を差して言われた晶。
面倒くさい女……と呆れたが、このままではいつまでも因縁を付けられかねない。こういう相手は無視するという選択肢もあるが、先程それに失敗したばかりだ。ならばと、交番を目指しているというわけである。
「先程から気になっているのですが、馬車より早い速度で通り過ぎていくあの大きな箱は何ですの?」
そう言って、ナターシャが指したのは道を走る車だ。車も知らないとは、ますます変な女だと晶は冷静に分析する。
「車」
「クルマ?」
「人や荷物を早く運べる」
「えっ!? あの箱、乗れますの!? でも馬もいないのに! 一体、どうやって動かしていますの!?」
「……煩い。ちょっと黙って」
いい加減、いちいち相手にするのも疲れた……と晶は疲労感に襲われる。
「煩いとは何ですかっ! 全く! 失礼な平民ですこと」
フンッとナターシャの機嫌が悪くなったが、これで漸く静かになった。
交番に着いたらこの人の事を何て説明しようか……と晶は思考を巡らせた所で、一度聞いた彼女の名前が思い出せず、仕方なく話しかける。
「アンタ名前何だっけ?」
「それが人に物を尋ねる態度ですの? わたくしに尋ねるのなら、もっと敬いなさい」
その言葉に晶は立ち止まってナターシャを振り返る。晶が急に止まると思っていなかったナターシャは、彼の胸にまたしても顔をぶつけた。
「っ! きゃ!? もう!! 止まるならそう仰ったらどうですの!?」
不服そうに晶を見上げるナターシャ。
「……もう一度、名前を教えてください」
真っ直ぐ見つめて問い掛けてくる晶にナターシャは何故か戸惑った。
「…………ナターシャ・ベル・ファンシー。アイーリズ伯爵家の娘ですわ。一度で覚えなさい……」
晶はポケットに入れていたスマホを取り出すと、メモ帳を開いて忘れないうちに打ち込んでいく。
「!! その手の中で光る小さく薄い物は何ですの!?」
「何って、スマホだけど?」
「ス、スマホ?」
「スマートフォン。アンタ、本当に何も知らないんだな。記憶喪失?」
コテンと首を傾げる晶。その態度にナターシャはバカにされているような気分になる。
「なっ! だから、バカにしないでって言ってるでしょう!!」
「……じゃあ、住所は? 何処に住んでるの?」
「どこって、今はリュラフス王国の王都ですわ。社交シーズンが終われば、アイーリズ伯爵領に戻りますけれどね」
「リュラフェス王国??」
「リュラフス!! ですわ!」
ナターシャが言った国名を晶は手元のスマホで検索する。だが、該当する国は出てこない。
「そんな国、無いんだけど」
「はい? 何を言っているの? そんな筈ありませんわ。それ程大きくはありませんが、古くから続く歴史ある国ですのよ?」
「……。」
ナターシャを見る晶の目が怪しむように細められる。またきゃあきゃあ何かを喚いているナターシャ。
早く交番に行ってこの人を引き渡そう。
「よし」と口にして、晶は再び目的地に向かって歩き出した。「ちょっと! どうして無視するの!」と喚くナターシャの手を引いて先を急ぐのだった。
♢♢♢♢♢
暫く歩いていると、ナターシャは静かになった。目的地に着いた晶は立ち止まって建物を見やる。
ぽすっと晶の背中にぶつかったナターシャだが、もはや彼女に先程のように喚く元気はない。
「……着きましたの?」
「あぁ」
だが肝心の交番の中に人が居ない。小さな交番だから、何処かへ出動していて誰もいないのかも知れない。
ツンっとナターシャと繋いでいた方の手が引っ張られる感じがした晶。顔を向けるとナターシャがしゃがんでいた。
「わたくし、もう歩けませんわ……」
「……。」
「大体、わたくしをこんなに歩かせるだなんて、……どういうつもりですの?」
随分と覇気のない話し方だった。最初の頃とは大違いだと思うと、晶は少しだけナターシャが可愛く思えた。そして、妹がいたらこんな感じだろうか、と考える。
それはさておき、困ったことになったと晶は顎に手を当てて考える。警察官が帰って来るのを待ってもいいが、何時になるか分からない。それに夜ももう遅い。いい加減お腹も空いたし、ナターシャも疲れた様子で眠そうだ。
「仕方ない。交番は諦めるか……」
「? ……諦めますの?」
「あぁ。家に帰る。もう少し歩くから早く立って」
「……嫌ですわ」
「我儘言わないでくれる?」
「そんな事言われても、もう一歩も歩けないんだもの……」
「……。」
晶はナターシャをジッと見下ろす。だが、ナターシャは俯いたまま晶を見る気配すらない。
はぁぁぁぁと、深いため息を付いて、晶はナターシャに背中を向けてしゃがみ込んだ。
「乗って」
短く告げられた言葉に漸くナターシャは顔を上げると、目の前の背中に問い掛ける。
「馬車が来ますの?」
「この時代に馬車なんて走ってない」
「では、先程のクルマとやらは?」
「俺、免許持ってないし。……飯田さんに頼めば迎えに来てもらえるかもしれないけど、ここからなら待ってる間に家に着く」
「……めん、きょ?」
ぽやぽやとした話し方のナターシャ。いつまで経っても晶の背中に乗る気配がない。痺れを切らした晶は一度立ち上がるとナターシャのすぐ側まで寄って、ナターシャを背中に乗せた。
「っ! きゃあっ!! な、何を!? お、降ろしなさい!!」
背中の上でジタバタと講義するナターシャ。
「落とすから暴れないで。置いてくよ?」
低い声が冷静に告げた言葉に、ナターシャは落とされても置いていかれても困ると大人しくする。それを確認すると、晶はまた歩き始めた。
♢♢♢♢♢
「アキラ! とっ、扉が自動で開きましたわ!!」
「アキラ? こんな狭い箱に入ってどうしますの?」
「なっ!? アキラッ!! ど、どうして箱の中に入ってきた時とは違う景色が広がっていますのっ!?」
自動ドアやエレベーターにいちいち驚くナターシャに晶は淡々と答えていった。本当に何も知らないらしいナターシャ。だが、知っていることがある中で“知らない”ということを知っているのならば、記憶喪失というわけでは無さそうだと考える。
家の前まで辿り着いた晶は、器用にポケットから鍵を取り出すとドアを開けた。
「アキラ、ここは?」
「俺の家」
玄関に入って、晶がナターシャを降ろした所で奥から家政婦の宮下が現れた。
「晶さんお帰りなさいませ。……あの、そちらの方は?」
驚く彼女に何も考えずにナターシャを連れてきてしまった晶は一瞬返事に困る。
「………………拾った?」
「ひ、……拾った?」
「ちょっと! 人を物や動物みたいに言わないでちょうだい!!」
困惑する宮下。対してナターシャはムッと言い返す。ちらりと晶の視線がナターシャに向けられた。
「少なくとも、捨て犬みたいなカッコしたアンタには、ぴったりの言葉だと思うけど??」
「なっ、何ですって!?」
キィィィッ!! とナターシャが頭に血を上らせる。けれど晶はお構い無しだ。靴を脱ぐと廊下に上がる。そしてまだ玄関に立ったままだったナターシャを振り返った。
「とりあえず、アンタは風呂にでも入りなよ。その汚い服もどうにかしないと」
「だからっ! わたくしだって好き好んでこんな服を着ている訳ではありませんわ!!」
抗議するナターシャを無視して晶は「お風呂、湧いてるよね?」と宮下に確認する。
「はい。いつでも入れます」
「じゃあ、この人の案内頼むよ。それと着替えも。……母さんの最近使ってないやつ貸してあげて」
「承知しました」
「ちょっと! アキラ! 聞いていますの!?」
ナターシャがアキラに詰め寄る。だが、そこは玄関から一歩、廊下に上がった場所だ。
「ちょっ!? アンタ!!」
ガバっと晶はナターシャを抱き上げる。突然の浮遊感に「きゃぁ!」とナターシャは声を上げた。
少し前まで晶におぶられて密着していたナターシャだが、さっきまでとは違って晶の整った顔がグンッと目の前にある。ボッと顔に熱が集まるのが分かった。
「何してんの」
「そっ、それはわたくしの台詞ですわっ!! お、降ろしなさい!!」
混乱する思考。それから、バクバクとうるさい心臓。ナターシャは晶から離れようと抵抗する。
「駄目。靴脱いでから」
顔を赤くして騒ぐナターシャに対して、落ち着いている晶。
「宮下さん手伝って」
「は、はいっ!」
晶は宮下の手を借りながらナターシャの靴を脱がせる。ナターシャが履いている靴は現代の物とは全く異なるデザインだった。まるで西洋を舞台にした映画にでも出てきそうだと晶は感じていた。
♢♢♢♢♢
「中々いいお湯でしたわ」
リビングでテレビを見ていた晶の耳にそんな声が届く。
お風呂で温まってポカポカと暖かそうなナターシャは、宮下の後をついてここまで来ると、ソファーに座っていた晶の隣にストンと腰を下ろした。
およそ1時間前、晶と宮下に連れて行かれるがまま脱衣所に辿り着いたナターシャ。
『お着替えは後で持ってきますから。ゆっくり、ご入浴下さい。では』と扉を閉めようとした宮下に『待ちなさい!』とナターシャは止めた。
『お風呂に入るのでしょう? それなのに誰もいないじゃない。メイドを呼んできなさい』
そう言ってきたナターシャに晶と宮下は目が点になった。
『うちにメイドはいない。それに、お風呂に入るのにメイドなんか呼んでどうすんの?』
『何を仰っていますの? というか、メイドがいないですって? あぁ、やはりアキラは庶民でしたのね』
『お言葉ですが晶さんは谷澤グループの跡取り息子で、この家のお坊ちゃんです』
跡取り息子やお坊ちゃんと言われることが嫌いな晶は『宮下さん』と家政婦を嗜める。ハッとした宮下が『申し訳ありません』と謝った。そして、晶はため息を付くと気を取り直してナターシャに話しかける。
『大体、何で人を呼ぶ必要があるわけ?』
『わたくしの入浴を手伝わせる為に決まっていますわ』
『は?』
『服を脱ぐのも着せるのも、身体を磨くのも全てメイドの仕事ですわ』
ナターシャの発言に晶と宮下は顔を見合わせる。
『まさかとは思うけど、……アンタ風呂に一人で入ったことない?』
『当たり前でしょう』
ナターシャの肯定に晶は一気に疲労感に襲われた気分になる。
『宮下さん、悪いんだけど今日だけコイツが風呂に入るの手伝ってあげてくれる?』
『え、えぇっと……』と戸惑った宮下だったが、男である晶がやるわけにもいかない。それに彼はこの家の雇い主の息子なのだ。お坊ちゃんにそんな事させられる訳が無い。
『分かりました。今後、彼女が一人でも入浴出来るようにお教えします』
宮下の了承に晶は『助かるよ』と胸を撫で下ろしたのだった。
晶の母のパジャマはナターシャにも丁度よいサイズだったらしい。お風呂で汚れが洗い流された事でナターシャの髪は綺麗なストロベリーブロンドを取り戻していた。
明るい所で見ると日本人離れした髪色に、ブロンドの薄い色素の瞳。ナターシャが外国人の血を引いていることは間違いなさそうだと晶は考えた。
そして、お風呂上がりの年頃の女子がすぐ隣にいる状況でまじまじと彼女を見てしまったことに晶は言い知れぬ罪悪を覚えて視線をテレビへ戻した。
キッチンに立った宮下は、晶たちが帰って来る前に作りかけていた料理の仕上げに入りながら「そう言えば」と口を開く。
「ナターシャさんのお体は汚れていましたが、洗い流すと肌も髪もとてもよく手入れされているようで、スベスベでした。一体どんなお手入れをされていたのですか?」
「ミヤシタ、わたくしの名前を呼ぶなら様を付けなさい。無礼ですわよ!!」
後ろのキッチンを向いたナターシャがビシッと指摘する。だが、その隣から何とも気の抜けた声が飛んでくる。
「宮下さん、様なんて付けなくていいよ。この人、ただの拾い物だし」
その発言にナターシャは顔を赤くして怒る。
「ですからっ! わたくしは物ではありませんわ!!」
「ナターシャ」
初めてまともにナターシャの名前を呼んだ晶がちらりとナターシャに視線を向ける。
「ここはアンタが住んでたって言う、リュラフス王国じゃない。日本だ。そして、ここは俺の家。宮下さんは俺の父親が雇っている家政婦さんだよ。リュラフス王国とやらじゃ、アンタは偉い人の娘だったのかもしれない。だけど、ここの家では俺に従ってもらう」
そこまで言うと、晶がズイッと体ごとナターシャに近付いて顔を覗き込んでくる。
「それができないなら、今すぐ出て行ってくれる?」
「っ!!」
冷酷さを思わせる冷めた瞳がナターシャのを瞳を真っ直ぐ射抜いていた。有無を言わせないその視線に、ナターシャは狼か蛇にでも睨まれているような気分になる。そして、処刑台で見たウィルフリッドを思い出した。
ナターシャがエリノアを睨みつけると、彼は庇うように背中でエリノアを隠し、ナターシャを睨みつけてきたのだ。その瞳を目にした瞬間、誰にでも優しい事で知られてい王太子にとって自分は軽蔑する対象になってしまったのだと気付いた。
「……分かり、ましたわ」
ナターシャが何とか答えると、晶は身体を元に戻して前を向いた。テレビでは相変わらず先ほどと同じニュース番組が流れている。
──明日で事故から3年が経とうとしています。太平洋に不時着した飛行機に乗っていた当時大学1年生だった野村憂斗さんは、当時お付き合いをしていた川西瑛里さんを旅行へ誘い今回の事故に巻き込まれました。ご遺族によると野村さんは────
特集として放送されているのは、3年前に起きた飛行機事故の話だった。顔写真付きで亡くなった被害者が名前とともに映し出されている。それはナターシャの知っている二人の人物によく似ていた。だが、今のナターシャにはテレビというリュラフス王国にはなかったその存在そのものが目に入らないほど心が沈んでいた。
ソファーの上で三角座りをすると、ナターシャは顔を伏せる。
アイーリズ伯爵家から王妃を排出して、王家にアイーリズ伯爵家の血筋を残す。そんな父の考えにナターシャは賛同して従った。何より、王族になればもっと優雅な暮らしが出来ると思ったのだ。その為に王太子であるウィルフリッドに近づいた。だけど、そうやって一緒にいるうちにウィルフリッドに心を惹かれている自分がいることにナターシャは気付いてしまった。
今までナターシャが望めば、父が何でも与えてくれた。ナターシャの思い通りになった。だから、今回も父の言うことを聞けばウィルフリッドの心が手に入ると思っていた。
だけど、違った。
父の言う通りにしても、お金があってもウィルフリッドはナターシャに振り向いてくれなかった。
エリノアを陥れる計画を両親から明かされた時、父と母はナターシャの為だと言っていた。だけど、それも違ったのだろう。
『お前のせいだ! ナターシャ!! お前がしくじったから!! この役立たず!! あれ程金をかけてやったというのに!! 親不孝者め!!』
事情聴取の為に牢屋から連れ出された時、父であるアイーリズ伯爵がナターシャに放った言葉だった。両親はナターシャのためではなく、家のためにナターシャを王太子妃にしようとしていたのだと、それを聞いてナターシャは思った。
わたくしは家族に愛されていたのかしら?
グスッとナターシャが鼻をすする。
「……何で泣く?」
罰が悪そうな声で晶が尋ねるが、ナターシャは「……泣いていませんわ」と虚勢を張る。ナターシャは心が、感情がぐちゃぐちゃだった。
処刑されて死んだと思ったら、ワケのわからない場所にいるし、わたくしをここまで連れてきたアキラは優しいのか冷たいのかよくわかりませんわ。
「っ、泣くなよ」
戸惑う晶の手がナターシャの背中を不器用に撫でた。
「っ!」
驚いたナターシャが顔を上げて隣を見ると、何やら複雑そうな表情を浮かべる晶がいる。不器用な晶の行動に触れた途端、ぽろぽろとナターシャの瞳から涙が溢れていく。
「ごめん。……泣かれるほど脅したつもりはなかったんだ」
「だっ、だから! 泣いていませんわ!!」
ナターシャが声を張る。だが、彼女の目は赤く充血していて、頬も涙で濡れている。泣いていないと言うには無理があった。
親友だったヴィッキーと処刑される数日前に別れた時ですらギリギリの所で涙を堪えたナターシャ。だけど、今回はそうはいかなかった。
「お二人共、晩御飯が出来ましたよ。ほら、ナターシャさんは顔を拭いてくたさい」
宮下はナターシャたちの元にやってくるとナターシャにハンカチを手渡した。ナターシャはそれを受け取ると目元をそっと拭う。
出会った時にボロボロのワンピースを着ていたナターシャからは想像しづらい上品なその仕草に、晶は目を見張る。
「今配膳しますね」
テキパキと動く宮下によって、あっと言う間にダイニングテーブルに食事が並べられた。
大ぶりのお肉が盛り付けられたビーフシチューは湯気が立ち上っており、先程から部屋に薄っすらと漂っていたいい匂いが更に強くなっていく。
「ほら、冷めないうちに食べるよ」
ソファーから立ち上がった晶がナターシャの手を引く。
無遠慮に晶に掴まれた手。そして、ナターシャが立ち上がるのを待たずに歩き出した晶。
何て下手で勝手なエスコートなんですの。
心ではそう文句を漏らしているのに、何故か晶からは優しさが滲んで感じ取れた。
「晶さん、今日はおかわりはありませんので、そのつもりで召し上がってください」
「分かった」
いつもはおかわりをする晶。だが、今日はナターシャという突然の訪問者が現れたことでおかわりは無しとなった。
晶はナターシャを席に座らせると自分も向かいの席に腰掛ける。
「あ、所でアンタ……ナターシャはフォークとナイフ、スプーンの使い方、分かる?」
涙が止んだナターシャはそんな晶の言葉にムッとする。
「子どもじゃありませんのよ。バカにしないでちょうだい」
そう言うと、ナターシャはテーブルの上のお皿を見る。テーブルにはサラダとビーフシチュー、それからライスがのったお皿がある。
「まぁ! アキラの家では前菜とメインが一度に出てきますの?」
一瞬何のことかと晶は思ったが、前菜という言葉からして、西洋のコース料理が浮んだ。
「店じゃないんだから、何でもいいでしょ」
「ところで、こちらの白いのは何です?」
そう言ってナターシャが指したのは白ご飯だ。
「ご飯、ライスだよ。ビーフシチューと一緒に食べると美味い」
「ゴハン? ライス? 何ですそれは? パンはありませんの??」
ビーフシチューとパンは分かるのか? と晶は首を傾げながら「店ならパンを出すところもあるが、我が家はご飯だ」と答えた。
「フォークが一つしかありませんわ」
「店じゃないんだから。使い回すに決まってるでしょ」
晶が言うと渋々といった様子で、ナターシャはフォークを取るとサラダに手を付けた。
フォークの使い方は分かるんだなと、それを見届けて晶も自分の食事を開始する。暫くしてサラダを食べ終えたナターシャがスプーンを手にとってビーフシチューのスープを掬った。野菜はともかく、知らないことが多いナターシャにビーフシチューが口に合うのか、晶も宮下も少し心配だった。
ナターシャがスプーンを口に運ぶと一口飲み込んだ。瞬間、彼女の目が少し見開かれる。
「お、美味しいですわ……」
感動したようなナターシャの声。そこには瞳をキラキラさせたナターシャがいた。
「お口にあって何よりです」
「ミヤシタ! 貴女、天才ですわ!! 我が家のシェフに負けず劣らずの料理の腕前ですのね!!」
ナターシャの反応と褒め言葉の数々に宮下も嬉しそうに笑う。そして、ナターシャはフォークとナイフを手にすると、優雅な手つきで肉を切り分けて口に運んでいく。その仕草があまりにも綺麗で、気付くと晶はナターシャをまじまじと見つめていた。
頭が可笑しいんじゃないかと思うほど怪しげで、何も知らないナターシャだが、今の食事を見ていればテーブルマナーが完璧であることが晶には分かった。
谷澤グループの跡取り息子である晶は、会社絡みの付き合いで大学生にして普通の人よりそういったマナーが求められる店に何度も足を運んでいる。
何も知らないナターシャがそれを当たり前のようにやってのけた。つまり、ナターシャはテーブルマナーを知っているのだ。
彼女は本当に何処かの国のお嬢様なのかも知れない。
そう想う一方で晶には疑問もあった。
どうしてボロボロのワンピースを着て横断歩道に突っ立っていたのか。外見からして日本人には見えないが、何故これほどまでに日本語が達者なのか。そして、何故彼女は交番やスマホ、ご飯といった日常生活で当たり前のようにある物を知らないのか。
「──? ─キラ? アキラってば、聞いていますの?」
ナターシャに呼ばれて晶はハッとする。
「え、あ、いや? 何?」
「何? じゃ有りませんわ。先程から、わたくしを見たまま呆けたお顔をして、どうしましたの?」
ナターシャの首が不思議そうに傾げられる。指摘された恥ずかしさからか、晶の顔が少し熱を持つ。何故だか晶は、ナターシャをもっと知りたいと思った。
「何でもない」と誤魔化して晶は食事を続けながら考える。
明日になったらナターシャを交番に連れて行って保護してもらおうと思ったが、もう少し家で預かれないだろうか? 色々と面倒な手続きはあるだろうが、親父が何とかしてくれるだろう。
「ナターシャ」
晶に呼ばれてナターシャは顔を上げる。
「アンタさえ良ければ、リュラフス王国とやらに帰るまでこの家にいなよ。仕方ないから面倒見てあげる」
突然の申し出にナターシャは「えっ?」と驚いて固まる。
「手続きもあるだろうから、思い通りに行かないかもしれない。仮にそれが可能だったとして、それまで別のところで過ごすことになるかもしれない。それでもいいなら、俺の気が変わらない内に返事してほしいんだけど?」
じんわりとナターシャの心に温かいものが広がる。こんな自分を気にかけてくれる人がまた現れると思っていなかったからだ。
「ア、アキラがそうしたいと言うなら、付き合ってあげても良いですわよ」
何故か素直に「はい」と言えないナターシャはそんな自分が嫌になったが、晶はフッと笑った。
「じゃあ、よろしく。ナターシャ」
──ナターシャと晶がお互いの気持ちに気付くのは、まだもう少し先のお話し。
─おわり─
最後までお読み頂きありがとうございます!
このお話は、連載中の『悪役令嬢にされてしまった公爵令嬢は未来の旦那様を探す旅に出たい〜それなのに、婚約破棄だと言ってきた王太子殿下が止めてきます〜』略して『あくたび』の番外編です。
ご興味があれば、本編の『あくたび』もよろしくお願いします。