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東京時代(「水槽の街」改題)  作者: 恵梨奈孝彦
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サキはクラクションに追い立てられ、タクシーのドライバーに怒鳴られ、ほうほうの体で歩道まで逃げた。

 スクランブル交差点の真ん中で、空を見上げてぼうっとしていたところで信号が変わったのだ。

 雨は止みそうにない。

 ハチ公側に来たが、車を避けてこちらに来ただけだ。

 行く当てなどない。そのまま南に向かって歩いた。

 駅が途切れ、いつのまにか東に曲がっていた。

 こちらは渋谷でも繁華街ではなく住宅街だ。サキのような子にはほとんど縁のない場所だ。

 それでも歩き続ける。止まるあてなどない。繁華街にもどっても同じことだ。そのまま住宅街を歩き続けた。

 水が上から下に流れてくる。それをさかのぼるように歩く。いつの間にか上り坂を歩いていた。

 この辺りは渋谷とは思えないほど街灯が少なく、視界は暗く、まわりはぼんやりとしている。

 それでも、怖いとは思わなかった。

 もう、どうでもいい。

 どうせ、生きていたって、つらいことの繰り返しだ。

 歩き疲れた。ずぶ濡れの体が寒い。

 それでも歩き続ける。歩きたいわけじゃない。止まる場所がない。

 スマホを握っていたことに気がついた。

 のぞみに投げつけられて、そのまま持ってきたのだろう。

 この雨では壊れたかもしれない。

 それでもいい。

 これは、自分とのぞみをつなぐたった一つの物だったが、すでに彼女との関係は切れている。

 いつの間にか、土地が道路より低くなっていて、その上に高い建物が建っている所に来た。なんだか不思議な気がした。

 道路から降りて、建物の前まできた。

 石畳が広がっていて、裸の足がすべりそうになる。

 間口は広くはないが奥行きがありそうな、高い建物。この雨の中でも清潔感を失わない。

 大学の博物館だった。

 大学、学問の府。

 小さいころは、「頭のいい子だ」と言われたこともある。

 だけどそのうちに、家が勉強どころではなくなった。

 自分には何の関わりもない場所だ。

 しかし、「入場無料」と書かれている。

 入ってもかまわないだろう。

 濡れ鼠だけれど、雨宿りさせてもらおう。

 もしかしたら、座れる場所があるかもしれない。

 ガラスのドアを引いた。

 ドアは、サキがいくら引いてもぴくりとも動かない重さを保っていた。

 冷静に考えれば、この時間に博物館が開いているわけもなかったのだが、このドアの重さは、拒絶のしるしにしか感じられなかった。

 なんだか、世界そのものから絶縁されたような気がする。 

その時、近くの民家からだろう。かすかに声が聞こえた。

「お母さん、どこ? どこにいるの?」

「ここだよ、ゆかりちゃん」

 小さな女の子が、母親に名前を呼ばれている。

 自分の母親は、父親がつけた「サキ」という名前さえ嫌悪して、「おまえ」「こいつ」「それ」としか呼ばなかった。

 泊めてくれた男たち…。

 彼らにも本名を名乗ったことなどほとんどない。

 もう、自分の名前を呼ぶ者は、呼んでくれる者は、この世のどこにもいない。

 

 お願いだからサキって呼んでよう…。だれか、あたしの名前を呼んでよう…。


「サキちゃん?」


 …空耳か。激しい雨の音にかき消されそうに聞こえてきた。


「サキちゃんだよね! どうしたの! そんなにぬれて…。靴はどうしたの!」


 さくら? あの、お人よしの。騙されたことに全く気づかず、気づいてからさえも自分を責めようとしなかった大学生?


 振り返ると、あの丸顔にショートカット。驚いたような顔をして後ろから傘を差しかけてくるさくらがいた。


 さくらああああっ!


 さくらは、ずぶ濡れのまま抱きついてきたサキを嫌がることなく、傘を持ちながらも、両手でしっかりと抱きとめてきた。



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