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東京時代(「水槽の街」改題)  作者: 恵梨奈孝彦
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水槽の街

外に出てしばらく、雨が降っていることにさえ気づかなかった。

 気が付けば路面が濡れていて、裸足の足裏に容赦なく冷水と細かい石が食い込む。

 舗装されているとはいえ、靴を履かずに歩けるような道ではない。

 風こそないが、垂直に降ってくる雨が、サキの髪を濡らす。

 しばらく歩いていると、着の身着のままのスウェットが濡れ、ぐっしょりと水を含んだ。

 冷たい。

 六月とは思えないほどに冷たい。

 この冷たさが、自分のような子にふさわしいような気がする。

 彼女を泊めた男たちにも、あんなことを言われたことはない。

 男たちは、自分がしていることの後ろめたさからか、サキにあからさまに軽蔑した態度を取るものはなかった。

 むろん、尊敬されていると思ったこともない。

 しかし、一度は「信用した女性」に裏切られたことはショックだった。

 男たちも女たちも、態度に出さないだけで、自分を軽蔑している。

 これまでもそうだったし、これからもそうだろう。

 あの、異常な方法で自分を愛した父親でさえ、そうだったのではないか。


「この子はなかなか賢い子だから、先が楽しみだよ」

 

 そんな風に言ってくれた人がひとりだけいた。

 サキは、家での扱いはひどいものだったが、父親の実家に行った時だけは普通の子どものように遇されていた。

 特に祖母は、唯一の女の子の孫として、サキをとても可愛がってくれた。

 家ではとてもそんなものを買ってもらえなかったが、とっておいたという、父親が子どものころに読んでいた学習雑誌を見せてもらったことがある。

 あれは、今日のような雨の日だった。

 ちょっと古い作りの家で、屋根を打つ雨音が大きくて、ときどき祖母の声が聞こえなくて、何度も聞き直したりした。

 畳の上にうつ伏せになって、麻の着物姿で正座している祖母を傍らに、夢中になって読んだ。

「あなたのお父さんが小さい頃はね…、日本がどんどん豊かになったころで、21世紀になったら、エアカーやテレビ電話や宇宙ステーションまでも使われているって誰でも信じていたような、本当に夢のような時代だったよ」

 その雑誌に、「これが水中(すいちゅう)都市(とし)だ!」という特集が載っていた。

 見開きのページいっぱいが濃い青に塗られていて、あちこちに気泡が描かれ、ここが深海だということをはっきり示している。

 右ページには、色鮮やかな、洗練された形の建物が驚くほど丁寧に描かれ、建物のあちこちに蛸壺のような半透明の出っ張りが突き出している。

 その出っ張りは強化ガラスでできているらしい。一つずつの出っ張りに一人ずつ入っていて、海の中を見ている。子どももいる。兄弟だろうか、小さな男の子と女の子が二人、ひとつの出っ張りの中にいる。

 左ページには、「せんすいかんはっちゃくじょ」と書かれていて、たくさんの丸い窓がある、流線形の「潜水艦」が、海中に繋がれている。

 「ゴー」「ストップ」という文字が書かれた、巨大な信号機がある。潜水艦の交通整理をするためだろう。

 見開きの真ん中には巨大な潜水艦が描かれ、行儀よく並んだ丸窓一つ一つに、子どもたちが顔を覗かせている。

 そんな潜水艦のまわりを、エイやエビや魚たちが、優雅に泳いでいる。潜水艦の舳先に張り付いてるタコが、なんだか可愛くて好きだった。

 なんだかこのページを見ていると、自分が海の中にいるような、海の底に立っているような気持ちになれた。 

 この本がお気に入りであり、祖母の家に行く度に見せてもらった。

 しかし、両親が離婚してから、父の実家に行くこともできなくなった。

 祖母がそれからまもなく死んだと聞いたのは、ずいぶん経ってからだったような気がする。

ふと、立ち止まった。

 自分の周囲を、厚い水の壁が覆っている。

 視界のほとんどが濃い青一色だ。

 それでいて息ができる。

 きっと最新の科学で、そういう技術が開発されたのだろう。

見上げると、巨大な、四角いものが光っている。

 あれは、潜水艦の発着所なのではないか。

 その証拠に、水の壁があるために見づらいが、その四角いものは次々に色と形を変化させている。

 見回すと、そういう発着所があちこちにあるのがわかる。

 間違いない。

ここは「水中都市」なんだ!

 どこかで見たような、洗練された形の大きな建物がいくつも見える。

 きっと潜水艦がぶつからないための用心なのだろう。全ての建物が、蛍光色に光っている。

 海底だけあって、サキは一人だけで立っている。サキのまわりの広い平地に人はひとりもいない。

 蛍光色のグリーンが、一斉にレッドに変わった。



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