美少女
これはきちんと小説形式なので、風景描写も心理描写もあります。
水槽の街
彼女は、美しかった。
ただひたすらに、美しかった…。
渋谷駅で山手線を降りると、緑が足早にホームを歩き始めた。
さくらは時々小走りになりながら、必死に母を追いかけた。
ホームの階段を昇ると、駅の構内に出た。視界の端にトイレや土産物屋や喫煙コーナーが見える。とにかく人が多い。背広姿の男が、短いスカートの女子高生が、やたら子どもが元気な家族連れが、パンツルックの若い女が、ジーンズ姿の若者が、化粧の厚い中年女のグループが、タイトスカートのスーツの女が、ロマンスグレーのダンディーなご老人と上品な着物のおばあさんの夫婦が、真っ黒なフリフリのついたワンピース(当時はゴスロリという言葉を知らなかった)の少女が、いろんな人たちが、圧倒的な体積でもって、思い思いの方向に歩いていく。動く歩道がある。駅の中なのだから「歩道」ではないのかもしれないが、要するに平たいエスカレーターだ。止まっていても動くのに、誰も立ち止まらない。みんな歩いている。さらに階段を昇る。ホームに出た。強い日差しにさらされる。外に出るのになぜホームを歩くのか? 渋谷駅をダンジョンと呼んだ人がいた。ゲームを一切やらないさくらにはその例えがよくわからなかったが、「迷宮」という意味らしい。ホームの階段をもう一度昇るとまた構内だ。昼間の蛍光灯のあかりの中をたくさんの人たちと歩く。さくらは母の後をついていくことによって、ようやく駅の外にでることができた。
渋谷駅の東口を出ると、急な階段を下った。残暑といいながら、九月の日差しは肌を焼き尽くしそうだ。
しばらく母と歩いて行くと、大きな通りに出た。駅の外に出ると緑の歩くスピードが急に緩やかになった。
母はこの陽気に当てられたのか、それとも少しでも早く駅の人混みを抜けたかったのかもしれない。
大通りに出ると右に曲がった。左に曲がれば「渋谷ヒカリエ」という巨大なビルがあるが、右に曲がって進んでいくとだんだん雰囲気が変わってくる。コンビニやチェーンのカレー屋など、たくさんの店舗が並んでいるのだが、一つ一つはどこの地方都市にもありそうな個人商店だ。
渋谷川が見えた。
「川」といっても、幅数メートルの、両岸というより両側をコンクリートで固められた水路のような川だ。都会らしいといえば都会らしいのだが、地方都市出身のさくらにはむしろかわいらしく見える。橋の前を通って左に曲がる。大通りを横切る。坂を登る。けっして急ではないが、長い上り坂がある。そこに入ると一気に閑静な住宅街だ。
数百メートルそばの都会の喧噪など嘘のような、落ち着いた町並みが続いている。ここまで来ると歩いている人があまりいない。途中に一軒、昔ながらといった感じの雑貨屋がある。
オープンキャンパスで初めてここに来たとき、こんな街のそばに…、とさくらは感動したが、緑は「多分この店の売り上げより固定資産税の方がずっと高いだろうね」と余計なことを言っていた。
さらに昇っていくと、民家を足下ににゅっと突き出るように建っている鉄筋コンクリートの建築物が見えてきた。むろんこの渋谷にはさらに高いビルがいくつもあるのだろう。しかし小高い丘の住宅街に建っているため、はっきりと目立つ。外壁にはさくらの憧れの大学名がここからでも読めるほど大きく書かれている。
さらに昇ると十字路が見えてきた。左側に大学の図書館と博物館、道を挟んで右側に試験が行われる校舎がある。さくらは立ち止まって前を行く緑に声をかけた。
「お母さん、ここまででいいから」
「何言ってるの! もう少しでしょ!」
「もう少しだからだよ。さすがにもういいって」
「無事に受けられなかったらなんにもならないでしょ! とにかく親の言うことを聞いておけば間違いないんだ! あんたはまだ子どもだし、お人好しだし…」
「お母さん、ここに来るの二度目だよね。あたしはオーキャンに三度来てるから四度目だよ」
「あのねえさくらちゃん。ただ受験するだけじゃないんだよ。受験料の三万八千円を入試課に持っていかなきゃならないんだよ」
さすがにキャンパスの中にまで親についてきてもらうのは恥ずかしい。
「大丈夫だって!」
緑がさすがに黙った。ここまでさくらが言いつのるのが珍しいからだろう。
「わかったよ。じゃあ、自分の責任で受験しなさい」
「うん」
「とにかく、絶対に無事に受験するんだよ」
「わかった」
ハンドバッグから封筒を出してさくらに受験料を渡す。
「これでもし合格できなかったら、山本家には浪人させるようなお金はないからね」
なんで受験前にそういうことを言うかなぁ…。
「わかってるよ」
「夏のAOだからって、落ちたら他を受ければいいなんて思ってないよね」
「夏休みの間、このAOのレポートと論述試験の勉強しかしてないよ!」
第一志望なのだ。というより他に行きたい大学がないというくらいに恋い焦がれている。
「だったらいいよ、がんばってきなさい!」
緑はそう言ってにっこりと笑った。
「うん! がんばってくる!」
「じゃあわたしは、このまま新幹線に乗って家に帰るから。スマホに連絡してきても助けてあげられないよ」
「大丈夫だよ。心配しないで」
緑はさくらを残して一人坂を下り始めた。なんだか母に悪いことをしたような気がしてきた。緑が振り返った。手を振っている。ほっとしてさくらも振り返した。
踵を返して大学の校舎をにらんだ。受験開始まであと一時間あるけれど、その前に入試課にお金を持っていかなければならない。
道路に視線をもどす。
驚いた。
少女が歩いていた。
さくらを驚かせたのは、少女の圧倒的な美しさだった。
夏の野外の強い日差しを浴びているのに、それを全く感じさせない、透けるように白い肌をしている。
その白い肌とは対照的な黒い髪はつややかで、髪質の美しさにもかかわらず肩の上で切りそろえた髪型はむしろかわいらしい。
色白の肌にすっと通った鼻筋は、その高い鼻梁が冷たい印象を与えかねないところを、化粧しているとは見えないのにピンクに艶めいている唇と、クルミのように大きな目の愛らしさがそれを救っている。
背の高さを見ると中学生くらいだろうか。
上半身は簡素なTシャツに、脚線美を惜しげもなく外気にさらしたホットパンツに、素足にヒールのついたサンダル。
こういうファッションの娘はどこにでもいるのだが、その白くて格好のいいふくらはぎと健康そうな腿の印象とあいまって、おそろしく垢抜けている。とにかくオーラというか、カリスマまでも感じさせる。
これが美少女というものか。
自分が何をするためにここにいるのかを忘れてしまうほど、さくらは少女に見とれていた。
美少女がこちらを見た。
思い切り目が合った。
しまった! 顔をジロジロ見てしまった。
だけど目が離せない。
美少女は、そのさくらんぼのような唇を動かしてこう言った。
「さくらちゃん?」
え…。あたしの名前?