亀石
二人は高松塚古墳を後にした。
そして次の目的地、亀石には歩いて向かう事にした。ちょうど良い時間のバスがなかったのだ。
マップのアプリは高松塚古墳から亀石までの道のりを「1km。ほぼ平坦です」と案内した。
「これくらいなら、歩いて行けますね」
「平坦です」は、サトルにとって大きなポイントだった。
亀石まではなだらかな道のりだった。
のどかな田園風景。点在する木材家屋。
「いいですね。すっごく穏やかな気持ちになりますよね。
俺、実家は長野だから、そんなに都会じゃないですけど。この景色に比べたら、比べものにならないっていうか」
「そうね。
私もこんな、静かな所に住んでいたのね」
2人は景色を満喫した。
スマートフォンのマップに従って歩く。
狭い田んぼ道を進むうち、民家が増えてきた。道は真っ直ぐ伸びており、先まで見渡せる。その道の途中に、人だかりが見えてきた。
「あ、あそこじゃない? 人がいっぱいいるもの」
キミは指差した。2人は知らず知らず速足になっていた。
亀石は民家と民家の間に置かれていた。6、7人の観光客らしき人だかりが、その周りを取り囲んでいた。
「でかっ」
サトルの第一声。
「ほんと。思ったより大きいのね。写真で見た時は、こんなに大きいと思わなかった。
亀石って言うより、岩よね」
亀石と呼ばれる、楕円形の大きな石は、長い所で4、5メートルはありそうだった。高さも、一番高い所で2メートルほどだ。
楕円の先端に、亀の顔がある。大きな目が2つ。半円形の瞼付きだ。
亀石の隣で写真を撮る人。恐る恐る触れる人。遠巻きに眺める人。人それぞれに、楽しんでいるようだった。
サトルとキミは亀石の脇に置いてある、石碑の前に立った。
そこには、亀石の説明が書かれているプレートが貼り付けられていた。
『むかし、大和が湖であったころ、湖の対岸の当麻と、ここ川原の間にけんかが起こった。長いけんかのすえ、湖の水を当麻に取られてしまった。湖に住んでいたたくさんの亀は死んでしまった。何年か後に亀を哀れに思った村人達は亀の形を石に刻んで供養したそうである。
今、亀は南西を向いているが、もし西を向き当麻をにらみつけたとき、大和盆地は泥沼になるという』
「この亀って、やっぱり玄武と関係あるのかな」
説明を読み終えたキミがつぶやいた。
「えっ、やっぱそうなんですか。これに玄武の事、書いてあるんですか?」
「書いてはないけど。
えっ、サトルくん。これ読まなかったの? 一緒に見ていたのに」
「あ、はい。
こういう長い文って、読む気にならなくて」
「長くなんて、ないわよ」
キミの声が大きくなった。
「すみません」
「謝らなくたっていいわよ。怒ったわけじゃないんだから。
えっと……。 つまりは、この亀石が西を向くと、大和盆地が水没するって書いてあるの。
亀石の伝説っていうか、いわれが書かれているのよ」
「そうなんですか。
で、玄武と何が関係あるんですか」
やはりサトルは説明を読む気はないらしい。
「玄武って、水でしょ」
「水でしょって、言われても……」
「本当。私以上に何にも知らないのね」
キミはため息をついた。
「私もそんなに詳しいわけじゃないし、はっきりと覚えているわけじゃないのよ」
そういって、スマートフォンで調べ始めた。
「四神っていうのは、方角が決まっているのよ。
……、あ、あった。えっと、四神は四方の方角を司っている。東の青龍。南の朱雀。西の白虎。北の玄武。
そしてその象徴する色がある。でね、ほら、玄武は黒なの。それで水を操るの」
「じゃ、もしかして、朱雀は火と赤ですか」
「そう。まんまよね」
2人で顔を見合わせ笑った。
しかしすぐに、キミは真剣な表情に戻った。
いつのまにか、周囲に人の姿はなくなっていた。亀石の前には、サトルとキミの二人だけになっていた。
とつぜん真剣な顔つきになったキミ。
「どうかしましたか?」
サトルが心配そうに顔をのぞき込んだ。
「うん。私、さっきの事、思い出したの」
「さっきの事って」
「ペンションに行く途中での事。
サトルくんの目が黒く光って、雨が降ってきたじゃない」
「ああ、さっき言っていた事ですよね。俺、全然、わからないですけど」
「うん。でも、私ははっきり覚えている。
でね、今、気が付いたの。玄武は黒と水。さっきのサトルくんにぴったり当てはまるって。
黒く光った瞳と水。玄武と同じよね。
それに、この亀石も水びたしにするって。つまり水に関係しているじゃない。
だから、亀石と玄武も関係あるのかなって」
「確かに……」
サトルは玄武をじっとみつめた。
「カービィ。お前、水を降らせたりするのか」
サトルは玄武に優しい声で語りかけた。
サトルの方を向いていた玄武。サトルと目が合った瞬間、玄武の目から黒い光が発せられた。
「カービィ!」
サトルが叫んだ。
「サトルくん。目が、光ってる。黒い!」
キミも大きな声をあげた。
「えっ?」
サトルはキミの声に反応し、キミの方を向こうとしたが、玄武の目から視線を離せなかった。
次の瞬間、玄武の体全体から、水が噴き出した。噴水の様に上方に吹き上がり、二人に降り注いできた。霧雨が降っているようだった。
サトルは体の力が抜けてしまった。ヨロヨロと崩れ落ち、亀石にもたれかかった。
目を開けることもできず、亀石に体を密着させた。
「垂目! 来るな!」
サトルの頭の中に、男の声が響いた。
飛鳥駅で聞いた声だ。
サトルの意識の中で見知らぬ景色が繰り広げられた。
亀石の両隣りにあった家はなくなっていた。小さな、荒れた田んぼ。幅の一定していない砂利道。
サトルの目の前には、朱雀がいた。
朱雀は羽をばたつかせた。羽からは火の玉が飛ばされた。
(まぶしい!)
サトルは朱雀から目を逸らせた。
その時に気が付いた。朱雀の隣にいるのは、キミではなかった。
背の高い、やせた男で、長い髪を両耳の脇でしばっている。生成りの、丸首のたっぷりとしたTシャツ。同じ色の袴をはいている。明日香村の観光マップで見た、イラストと同じ服。飛鳥時代の衣装だった。
朱雀の炎は、1人の男を襲った。炎は男の服に燃え移り、燃え上がった。
その男の隣には4本足の動物がいた。犬にも猫にも見える。
しかしそれは白虎であると、サトルは確信した。
『大郎様!』
サトルは自分の口を押さえた。自分が発した声だと思ったのだ。しかし、サトルの声ではなかった。
『げん。火を消してよ! 大郎様を助けてぇ』
また、自分でない声が、口から発せられた。
目の前に火だるまの人がもんどりうっている。
(死んでしまうよ! 誰か、助けて。助けてくれぇ!)
サトルは叫んだ。しかしサトルの声は出てこなかった。頭の中に自分の悲鳴が響き渡った。
突然に亀石もたれて、全く動かなくなったサトル。キミはサトルの脇にしゃがみ込んだ。そしてサトルの肩を抱き、体を揺さぶった。
サトルは亀石から体が離れると、力なくキミに倒れこんだ。
キミはサトルの頬をさすった。
「サトルくん。サトルくん……」
震える声で名前を呼んだ。
(……。 キミさん? キミさんが俺を呼んでいる?)
サトルはゆっくりと目を開けた。
目を開けたそのすぐ先に亀石の顔があった。1回、ゆっくりと瞬きをした。
まぶたは動いたが、体はだるくて動かす気にならなかった。
サトルは眼球だけを動かして、景色を確認した。亀石の先に、家、車、電信柱、そして電線が見えた。
(戻ってきた)
サトルはホッと一息ついた。
「大丈夫? サトルくん」
頭の上からキミの声が聞こえてきた。
(えっ?)
サトルは視線を上方に向けた。すぐ目の前に、キミのドアップの顔があった。このままキスでもできそうな至近距離。
「!!」
数秒間、本当にサトルの呼吸が止まった。仰臥したまま、体も硬直してしまった。
この衝撃でサトルに思考能力が戻ってきた。そして、この現状を把握できた。
サトルは亀石の顔の真ん前で、キミに膝枕をしてもらっているのだ。
「よかった。目、開けてくれた」
キミはかがんでいた背中を伸ばし、大きく深呼吸をした。
「どうする? 病院とか行った方がいいのかしら」
「だ、大丈夫です。すみません……」
サトルは重い体を必死に動かして、キミの膝枕から降りた。そして上半身を起こし、砂利の上に座った。
サトルは一息つくと、少しづつ後ずさった。キミがあまりにも近いのだ。しかし、少し動いただけで、ゼイゼイと咳込んでしまった。
その時、にぎやかな声が聞こえてきた。2人はとっさに、声の方向に振り返った。
女性が3人。亀石に向かって歩いてきていた。すると、そのうちの1人が、小走りで駆け寄って来た。
「どうしたん。大丈夫?」
座り込んでいる2人を見つけ、心配してくれた様子。4、50歳台と思われる、ぽっちゃりとした人だった。
「あっ。はい。大丈夫です」
サトルは立ち上がったが、そこでまた咳込んだ。
「なに言っとんの。大丈夫やないわ。真っ白い顔して。
それに、その咳。あんた、喘息やないの?」
そう言ってサトルの腕を抱えた。サトルは抗うこともできず、女性に引っ張られてその場を移動した。
女性は亀石の近くにある休憩所にサトルを連行し。強制的にベンチに座らせた。
女性の連れの2人は、キミと一緒にやって来た。
女性はサトルの背中に回り、サトルが背負っていたリュックをはぎ取った。そしてダウンコートをまくり上げ、サトルの背中に耳を押し当てた。
「えっ?」
女性の予想外の行動に戸惑うサトル。しかし女性はお構いなしだ。
「はい。息吸って。勢いよく吐いて!」
サトルは言われるがまま、深呼吸を繰り返した。
「ほらっ。ピーピー言っとる。メプチン、持っとらんの?」
「あっ。持っています。あの、さっき、吸入したんですけど」
「さっきって、いつや」
「えっと。午前中で、11時頃です」
「なら、時間経っとるし、も1回吸入しとき。そんでもだめなら、病院や」
「あ、でも、そんなに苦しくないし、病院には行かなくても、大丈夫そうなんですけど」
「あかんて! 喘息なめたら、あかん!
いい? 喘息は死に至る病なんよ」
女性はサトルの膝をバシッと叩いた。サトルは背筋をピンと伸ばして固まった。
女性にすっかり圧倒されてしまったが、サトルはさっきより体がシャキッとした様に感じた。
「ともさん。声、でかいわ。かわいそうに彼氏、戸惑っとるやんか」
後ろにいた、目のぱっちりとした女性が、声をかけてきた。
「あら、ごめんね」
ともさんと呼ばれた女性、朋子は豪快に笑った。
「大丈夫よ。この人、こんなんだけど、看護師さんやから」
もう一人の背の高い女性が声をかけた。
「ちょっと、いっちゃ。失礼やない。
こんなんって、なんなん。職歴25年のベテラン看護師やで」
いっちゃと呼ばれたのは仁子。
「失礼しました」
仁子は笑いながら頭をさげた。
「はい。あめちゃん、どうぞ」
目の大きな女性、かおりが二人に大きな飴玉を手渡した。
「えっ?」
「いいから、とっとき」
かおりは笑って言った。
呆然となっていたキミは、手を引かれサトルの隣に、強引に座らせられた。
キミは飴玉を見ながらサトルに耳打ちした。
「マジであめちゃんって、言うのね」
「はい。さらっと、カバンから出てきましたよ」
朋子とかおりは向かい合ったベンチに腰掛けた。仁子はキミの隣に腰掛け、ひそひそ話をしている二人を、にやにやしながら見ていた。
「おたくら、どういう関係? 姉弟には見えへんけど。
やっぱ、カップル? 付き合うとるんかいな。
学校の先生と生徒とか? 言ったらあかんような関係やったりして」
「きゃー。そんな、ストレートに聞いたらあかんて」
「……。 いえ。サトルくんは弟でもないし、生徒でもないし、彼氏でもありません」
キミはむっとした顔で答えた。
(まぁ、事実だよな)
サトルは少しがっかりする。
「ええっ? でも、この辺の人と違うやろ。彼氏でもない人と、こんなとこまで、来る?」
「ちょっと、いっちゃ。こんなとこって何? 聞き捨てならんわ」
ぱっちりとした目を、さらに大きくさせてかおりが詰め寄った。
「あら。失礼しました」
「おーこちゃん。歴史好きでな。明日香村が大好きなんや」
かおりはおーこちゃんと呼ばれていた。
「そや。明日香村は偉大なとこなんや。それを『こんなとこ』よばわりされる筋合いないわ」
大きな声で話す3人を、サトルとキミは唖然として眺めていた。
「ああ、うちらな、高校ん時の同級生なんよ。
だから、未だにそん時のあだ名で、呼びおうとるん。
おーこちゃんは旧姓、大田かおり、大田やから、おーこちゃんや。
ともさんは旧姓、下柳朋子。あら、旧姓関係ないな」
仁子は一人で笑った。
「で、いっちゃは、旧姓、市川仁子や。だから、いっちゃや」
「はぁ。あっ。俺は、大谷智です」
サトルは思わず、自己紹介してしまった。
「彼女は?」
「真田妃美です」
「サトルくんにキミちゃんね」
「そや。亀石、見に行かんと。
サトルくん。あんた、大丈夫やね。はよ、メプチンして、休んどき」
朋子がガバッと、立ち上がった。
「そやそや」
かおりも慌てて立ち上がり、駆け出した。仁子と朋子はゆっくりと歩いてかおりを追いかけた。
「にぎやかね。それに、話があちこち飛びすぎて、ついて行けないわ」
「はい」
2人はぽかんとして、おばちゃん達の背中を見送った。
サトルはリュックの中から吸入薬を取り出した。そして手早く吸入を済ませた。
「サトルくん、目が黒くなるたびに、具合が悪くなる気がする」
「確かに。なんか、関係あるんでしょうか」
「キミさん」
サトルは神妙にキミに向き直った。
「あの、キミさんは、さっき、変な景色、見ませんでしたか?」
「さっきって、サトルくんの目が光った時?」
「はい」
サトルはうなずいた。
「ううん。別に、なにも……。
サトルくん、なにか見えたの?」
「はい。また、昔の世界の景色が見えたんですよ。たぶん。
それに、朱雀の隣に、知らない男の人がいて。それに、白虎がいたんです。白虎を連れていた人は、火傷していて……」
「キミちゃーーん」
おばちゃん達の大きな声で、話は遮られた。
「えっ?」
キミは驚いて、立ち上がった。
「ちょっと来てぇーー」
「えっ。今、話しているのに。
ちょっと、待ってもらえないかしら」
そんなキミの声は、向こうには聞こえない。
「早くーー。 キミちゃーーん」
「キミさん。近所迷惑になりそうだから、行った方がいいですよ」
「そうね」
キミはため息をつきながら立ち上がり、おばちゃん達の元に小走りで向かった。
キミは3人からカメラを手渡された。写真を撮るために、呼ばれたようだった。
満足げにおばちゃん達が帰って来た。キミだけが戸惑った顔をしている。
「サトルくん。どう。治った?」
朋子が真っ先に駆け寄って来た。
「はい。ありがとうございます。おかげ様で、もう大丈夫みたいです」
「そやね。顔色も良うなってきたわ。ほんなら、大丈夫やね。
うちら、一緒に観光する事になったから。よろしくね」
「えっ?」
サトルはパッとキミに視線を向けた。
キミは片目をつぶって、謝るように両手を合わせていた。
「車な、すぐそこの駐車場に停めてあるから。
次は、橘寺や。いいやろ」
仁子が指差しながら歩き出した。
3人のおばちゃん達の後を、サトルとキミはゆっくりとついて行った。
「ごめんね。バスと歩きで回っているって言ったら、じゃ、一緒に行こうって。車の方が便利だって。
返事をする前に、決定事項になっているんだもの」
「いえ。あの勢いで言われたら、断れないですよ。
まぁ。あの人達、悪気はなさそうだし、いいんじゃないですか。
確かに車の方が楽だし。
それに、歴史好きな人がいるって言っていたじゃないですか。観光するのにいいかもしれないですよ」
「そうね。確かに便利かもしれないわよね。
うん。ポジティブに考えましょ」