キトラ古墳
キトラ古墳の壁画は、“四神の館”で展示されている。キトラ古墳の隣にある。
ここはキトラ古墳の壁画展示だけではない。歴史を学ぶコーナーや、ものづくりの体験コーナーもあり体験型施設となっている。
そして、壁画や出土物の保存という、重要な役目もある。
バスは四神の館に到着。
その時にはサトルの咳も治まっていた。
ふたりは受付を済ませ、展示室のある2階に上がった。
2階のフロアでは、すでに20人ほどの人が集まっていた。係員の案内で並んでいたが、ざわざわとして落ち着きがなかった。
その中で、ひときわ大きな関西弁の、女性の話し声が聞こえていた。
「大阪のおばちゃんって感じ? 元気いいわね」
「そうですね。
でも、たくさんいるんですね。壁画を見たいって人。
って見に来ている、俺が言うのもなんですけど」
サトルは背伸びをして、前の方の列を見た。
「俺たち、若い方ですかね。でも、いろんな年齢層がいますね」
「そうね。この景色見ると、歴史に興味がある人って、いっぱいいるんだって、改めて思うわね」
「そうだけど、今ひとつ、俺にはその歴史への興味って、分からないんですよね。
こう言っちゃなんですけど、古墳ってお墓なんですよね。死んだ人が入ってたんですよね。怖くないですか? お墓見て、面白いんですか。
俺、カービィのことがなければ、来ようとは思わなかったかもしれないです」
「そう言われると、そうねって思うけど」
「ですよね。
だいたい、誰が埋葬されていたのか分からないってのも、なんか、不気味だし」
「そうね。誰のお墓なんだろう」
キミはパンフレットを見たり、スマートフォンで検索したりした。
「天武天皇の子供の可能性が高いみたい」
「天武天皇ですか。
よく、分からないですけど」
「そうね」
キミはクスクスと笑った。
「カービィ。お前。知っているか?
えっ? どうした!」
サトルは何気なく玄武を見たが、突然驚きの声をあげた。前に並ぶ人に、ジロッとにらまれてしまった。サトルは「すみません」と、蚊の鳴くような声で謝った。
「どうしたの?」
キミにも驚かれてしまった。
「すみません。思わず、大きな声が出てしまいました」
今度はキミにだけ聞こえる程度の声で話しかけた。
「カービィがいつもと違うんですよ。
あれ、朱雀もそうですね」
「えっ?」
キミも朱雀に目を向けた。
「何か違う? 私、よくわからないけど」
「はい。目がぱっちりと開いているんですよ。いつもは半開きなのに。それに、なんだか、黒い光が体から出ていて。
朱雀もそうですよね。目がパッチリと開いているし、さっきより炎の量が多い。光が強い感じがしませんか」
「……。 サトルくんって、四神の事、よく見ているのね。私、よくわからない」
「こんなにそばにいて、いつも一緒なのに、ですか?」
「だって、私この鳥の事、そんなに見ないし。これって鏡にも映らないし。
目に入れば仕方ないけど、自分から見る事もないし。そばにいるって、すっかり忘れてしまうこともある位だもん」
(そういえば、キミさん。朱雀を見る眼、冷たい気がする。そう、言葉も)
「お待たせしました」
係員の言葉が響いた。入場を待つ人のざわめきが、ピタッと止まった。皆の視線は、前にいる係員に集まった。
係員からは、見学時の注意事項が説明された。
説明がされている最中、サトル達の後方の扉が開いた。
サトルは背中に風を感じた。圧迫感という感覚にも思えた。サトルは振り向いた。
展示室の中からぞろぞろと人が出て来るところだった。見学の終わった人達だ。
(気のせいか……)
一瞬の出来事で、もう風は吹いてこない。サトルは正面に向き直り、引き続き説明を聞いた。
係員の説明が終わったあと、しばらくその場で待たされた。
係員が腕時計をのぞき込む。
「では、順番にお入りください」
頑丈な造りの扉が、恭しく開かれた。
整列していた見学者は、速足で中に流れ込んだ。走らないようにと注意を受けたばかりである。走る人はいなかったが、みな気持ちだけは走っていた。
展示室は壁も床も灰色だった。なんの装飾もない。狭くて、無味乾燥な室内だった。
(なんか、圧迫感がある)
サトルはこの部屋の空気に威圧されているように感じた。足を踏み入れるのに、決心が必要な気がした。
その瞬間。サトルの目の前の景色が一変した。
広大な平原。猫柳の様な茶色の草。遠くに、木々の生い茂る丘。
その丘から、風が吹き降りてくる。風は金色に光り、サトルの頬をなでていった。
「どうぞ、進んで下さい」
係の人に促された。
その声でサトルの目の前の景色は、元に戻った。
頬の風の感触が残っている。確かに風は吹いていた。
「どうしたの?」
「あっ。な、なんでもないです」
サトルは横を向いた。玄武の姿を見て、うなずいた。
「行きましょう」
サトルは意を決して、玄武の展示されているガラスケースに向かった。
(そういえば、飛鳥駅の前でも、こんな風になったっけ。
あの後、キミさんに会ったりして、すっかり忘れていた)
壁画の玄武が展示されているガラスケースの前には、人だかりができていた。
二人は列の最後に並んだ。少しずつ人の波が動く。ゆっくりと、玄武が近づいてきた。
そして、ようやく玄武の前に辿り着いた。
ガラスケースの前には足台が準備されていた。サトルとキミはそれに上がり、ガラスケースをのぞき込んだ。
1400年も昔に描かれた、玄武の絵が、目の前にあった。
薄くはぎとられた壁に、うっすらと映し出されている玄武。
首の長い亀。それに巻き付いている蛇。二匹は顔を突き合わせている。
サトルは目を離すことができなかった。長い時間、瞬きせずに、じぃっと玄武の絵を見つめた。
(? 目が。玄武と目が合った?)
サトルはパチパチとまぶたを瞬かせた。
壁画の玄武の瞳が動いたのだ。サトルに視線が向いている。
(なんで。絵が。
あっ。カービィだ。カービィを見ているんだ)
サトルは隣の玄武に目を向けた。
玄武もまた、壁画の玄武を見つめていた。二匹の玄武は、見つめあっていた。
「キミさん」
サトルは右側にいるキミに声をかけた。
しかしキミは泣いていた。壁画を見つめているその目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちていた。
サトルは話しかけられなくなった。
その時、人の波が押し寄せてきた。キミは押されるようにして、サトルにぶつかってきた。
「ああ。ごめんな」
体格の良い中年の女性が謝ってきた。
「いえ」
サトルは頭をさげた。キミの肩を支えて、足台から降りた。
サトルはキミの肩を抱いたまま、部屋の隅に移動した。そしてリュックの中を探って、ハンカチを取り出し、キミに差し出した。
「えっ?」
ハンカチを渡され、キミは驚いていた。
「あっ。いや、その、泣いているから……」
サトルにそう言われ、キミは指で頬に触れてみた。その指先は濡れていた。
「あれ。なんで」
そう言って、戸惑いながらサトルのハンカチを受け取った。キミは涙を流している事に気がついていなかったのだ。
「ありがとう」
キミは頬にハンカチを当てた。
「なんか、懐かしいような、そんな感じがしたの。
なんなのか、わからないんだけど」
1回ぐすっと、鼻をすすった。
「もう1回見てきましょう」
サトルはキミの手を引っ張って、展示ケースに向かった。
2人は残りの時間、玄武だけを見ていた。
10分間の見学時間はあっという間だった。
2人は屋外に出た。外の空気は澄み切っていた。りんとした冷たい風が吹いてきた。
キミは大きく何回も深呼吸をした。サトルも隣で、思い切り空気を吸い込んだ。
(思い切り空気が吸える。やっと、呼吸ができる気がする)
2人は休憩室でペットボトルのお茶を買った。
休憩室は満席で、座ることができなかった。お茶を持って外に行き、ベンチに腰かけた。
サトルはお茶を一口飲み、ホッと一息吐いた。
「キミさん。
ここに来てから、不思議な事が起きると思いませんか。
俺は幻が見えるようなんですよ。目の前の景色が突然変わってしまうんです。昔の景色みたいなんですよ。だだっ広い草むらが広がっている、みたいな。
それ、飛鳥駅に着いた時と展示室でも見えたんです。
そうだ。不思議な声も聞こえたんです。
キミさんも玄武の絵を懐かしいって思ったんですよね。初めて見るのに」
「うん。
そうね。この鳥も大きくなってたりしているしね」
キミは朱雀は見ずに、指を差した。
「はい。
……。 あの、キミさん。
キミさんは朱雀の事、嫌いですか」
「えっ?」
キミの声が裏返った。
「好きも嫌いもないでしょ。
この鳥なんて、隣にいるだけ。それだけで、なんとも思わないわ。
サトルくんは玄武の事、好きなの?」
「そうか。そうですね。好きも嫌いもないですよね。
でも、俺は一人っ子で、母子家庭だったから、家では独りでいる事が多かったんですよ。だから、カービィ相手に遊んでいたんですよね」
「これと遊ぶ?」
キミは信じられないと言わんばかりの表情。
「まさか、玄武の事、かわいいとか思っている?
……。 そうか、そうよね。そう思っているわよね。カービィなんてかわいい名前、付けているくらいなんだもの。
ぶっちゃけ、私には不気味にしか見えないけど」
「そうですよね。そう言われたら、否定できないですよ」
サトルは苦笑した。
「じゃ、朱雀の事、綺麗とか思います?」
「別に。なんとも、思わないわね。
この鳥への感情って、そうね。いなかったらいいのにって、事かしら。
この鳥のせいで、私の人生狂ったって思っているから」
「そう、ですよね」
サトルは突然表情をなくしたキミを見て、胸が痛くなった。
「俺も、どうして俺だけにこんな亀と蛇がくっついているんだろうって、悩んだこともあります」
サトルはそう言いながらも、優しい瞳で玄武を見つめた。
「俺、小さい頃、カービィはみんなにも見えているって、思っていたんですよ。だから、カービィの事、普通に周りの人にも話していたんですよね。
そしたら、病院に連れていかれました。今、思えば精神科に受診していたんでしょうね。幻視とか幻聴だろうって、思われたみたいで。
そのせいだと思うんですけど、両親の喧嘩が増えたんですよ。
おれが亀だの蛇だの言っているのは、誰の責任だとか。お互い責任転嫁し合って。
で、結局、離婚してしまったんです。
それで、俺達は長野に引っ越したんです。母親の実家なんです。
その時になって、やっと気が付いたんです。カービィの事は誰にも話してはいけないんじゃないかって。
だからそれ以来、カービィの事は誰にも話してはいません。
母親は俺の幻視は、治ったって思っているみたいですよ」
キミはサトルの話を、泣きそうな顔で聞いていた。そして伏し目がちのまま、サトルに話しかけた。
「それって、何歳くらいの時の話なの?」
「俺が引っ越したのが5歳の時なんで、その年ですね」
「そっか。
やっぱりサトル君って、小さい頃から賢かったのね。
私なんて、小学生になっても、まだ、鳥の事、人に話していたらしいの」
「なんか、人の事みたいに話すんですね」
「そうね。あんまり、覚えていないの。
私、養護施設で育ったんだけど。そこの相談員さんに、聞いたの。私が施設を出る時に。みんな。
私は家に閉じ込められていたんだって。
うーん。病院に連れていかれた方が、まだいいのかなって思っちゃう。
父はね、私がおかしなことばかり言うからって、母を責めたんだって。
それに母と私に暴力をふるっていたんだって。
そして、母が自殺してしまった」
サトルは大きな瞳で、キミの横顔をじっと見つめた。
キミの顔は、何の感情も示してはいなかった。
「それでも私は、鳥の事を言い続けていたらしいのよね。
だから、私、父にずっと虐待受けて、それで家に閉じ込められていたんだって。それが3年生の時に知られて、施設に保護されたの。
その時、この明日香村から離れたことになるわね。
私の記憶があるのは、施設に入ってからなの。そこが人生の始まりって感じ。
施設に入ってから、私は鳥の事は言っちゃいけないんだって、やっと気がついたの。だから、それからは話していないわ。
でも、なかなか他人にはなじめなくって、学校もあんまり行かなくって。
で、高校はなんとか卒業したんだけど、一大決心して奈良県飛び出して、一人で生きてきたの。
今は北海道で、ホステスしているんだ。
えっ? やだ。なに泣いているのよ」
サトルの目からは涙が落ちていた。
「いや、だって……」
サトルは次の言葉が出てこなかった。
「ありがと。なんか、うれしいな。
今まで、私の気持ち、わかる人いなかったじゃない。同じ立場じゃなきゃ、わからないわよね。
でもね、私は自分の子供の頃の事思い出せないから、なんか他人事みたいなのよね。だから、そんなに辛いわけじゃないの。
母の事も、父の事も覚えていないし。
さっきも言ったけど、この鳥がいなかったら、もっと違う人生だったかなとは、思っちゃうわよね。でも、いなくたって、虐待うける子もいたし、親に捨てられた子もいる。
そんなに、変わらないのかもしれないわね。
この鳥のせいばかりにしてちゃ、いけないかなって、思っているんだけどね」
「俺も、カービィがいなかったら、両親は離婚しなかったかなって、思う事もあります。でも、その前からそんなに仲の良い夫婦じゃなかったみたいですし。
カービィがいてもいなくても、結果は同じだったかもしれないですよね」
サトルは手の甲で涙を拭いた。
「私、思い切って、ここに来てよかった。私、本当はここに来れば、この鳥と離れられる方法が見つかるかもしれないって、思ってきたの。
北海道から、わざわざ明日香村に来て、何にもなかったら悲しいなって、思っていたんだ。
それに、ここには良い思い出ないし。っていうか、覚えてはいないんだけどね。でも。結構、勇気が必要だったのよ。
でも、サトルくんに出会えただけでも、来てよかったって思う」
キミは潤んだ目をして、サトルに微笑みかけた。
泣いていたサトルは目と鼻が赤くなっていたが、この一言で、顔全体が真っ赤に染まった。