大郎と加夜ときららと
加夜奈留美命神社。
大郎は完全に脱力したまま、白虎の背中に乗っていた。中大兄に斬られた傷からは、血液が流れ続けた。
瀕死の状態で加夜の前に横たわった。
大郎の生命の灯は、まさに今、消えようとしていた。
大郎は必死に目を開けた。表情を失った加夜奈留美の顔がそこにあった。
大郎はかすかに微笑む。
「加夜。笑って。いつもの。もう……、これ、最期……」
大郎は最期の言葉をふり絞った。
大郎はそう言うと、目を閉じた。徐々に、徐々に、呼吸が弱くなる。
ガオォォォ。
白虎が天に向かって吠えた。
白虎から白い光が発せられ、畝傍山に戻る道が完成した。強制的に歩かされる道。そして、戻ることも許されない道。
白虎は光に乗った。そして畝傍山に向かって歩き出した。
大郎と加夜奈留美だけが、そこに残された。
「大郎!」
加夜奈留美の叫びが響き渡った。
神である加夜奈留美。人の世界に干渉することは許されない。しかし、彼女は大郎を失うことを、是としなかった。
加夜奈留美は目を閉じた。
飛鳥川の水、川のほとりの草木、草木を生やす大地、飛鳥を照らす太陽の炎。
加夜奈留美は、飛鳥の自然の気を吸収した。
次の瞬間、加夜奈留美の体から煌めく光が発せられた。
目を開けることすらできない、まばゆい世界となった。
その時、加夜奈留美の体から神宝が現れた。
沖津鏡。辺津鏡。八握剣。生玉。死返玉。足玉。道返玉。蛇比礼。蜂比礼。品物之比礼。
十種神宝。
十個の神宝は宙に浮き、円を描いた。神宝は横たわる大郎を囲んだ。
神宝をひとつひとつ確認すると、加夜奈留美は言葉を紡いだ。
「一二三四 五六七八 九十 布留部 由良由良止 布留部」
布留言。
十種神宝から白色の閃光が発せられた。
その光は大郎の体に吸い込まれていった。
大郎の体が白く光った。
白い光を失い、元の姿に戻った十種神宝は、加夜奈留美の体に取り込まれていった。
古びた鳥居。小さな本殿。鮮やかな緑の草木。
そして、いつもの加夜奈留美命神社に戻っていた。
ゆっくりと、大郎の目が開いた。
大郎が最初に見たのは加夜奈留美だった。最期に会いたいと願った、愛しい人の顔があった。
「加夜」
大郎はあらん限りの愛を込めて、その名を呼んだ。
「大郎」
加夜奈留美の声が、大郎の耳にはっきりと届いた。
「加夜の声が聞こえる」
大郎は横になったまま、手を伸ばした。加夜奈留美の肌が、大郎の手に触れた。
いつもならば、すり抜けてしまう体。しかし今、加夜奈留美を感じる事ができる。
大郎は加夜奈留美の両腕をつかんで立ち上がり、勢いよく抱きしめた。
「加夜。加夜」
抱き締める腕に力が入る。華奢な加夜奈留美の体が、押し潰されそうになる。
しかし加夜奈留美は大郎の背中に手をまわし、彼女は忘我の中で、大郎の体を確かめた。
大郎は加夜奈留美の頭を右手に抱き、2人の頬を合わせた。
「大郎。大郎」
加夜奈留美の透きとおった声が、大郎の耳に聞こえてくる。大郎は何も考えられなかった。
大郎は左手でしっかりと彼女の肩をつかんでいた。身動きひとつせず、2人は抱き合った。
これまでの、触れる事すらできなかった長い時間を取り戻す様に。
どれ位の時が経ったかも、わからない。
「大郎」
低い、落ち着いた声で名を呼ばれた。
大郎は聞き覚えのあるその声で、夢の中から戻ってきた。
「……。 きらら?」
大郎は時間をかけて、加夜奈留美の体から離れた。そしてゆっくりと、声の方へ振り返った。
目の前に、白虎が立っていた。
白虎は嬉しそうに大郎にすり寄ってきた。
「大郎。我の声が聞こえるのか」
「ああ。聞こえる。きららと話す事ができるとは。やはり、ここは夢の中なのか」
大郎はいつもの様に白虎の首を撫でた。
大郎の穏やかな目が、何かを思い出した様に、突然見開かれた。そして手のひらを目の前に掲げた。手は細かく震えている。
「俺。死んだはず……。 なぜ?」
大郎はゆっくりと白虎に問いかけた。
「確かに。大郎は死んだ……」
白虎も思案している。
「我にもわからぬ。
我は白い光に導かれ、畝傍の山に向かった。
しかし、山まで辿り着けなかった。一歩手前で光が消えたのだ。我は自由に動ける様になり、大郎の元に帰って来られた。
このような事は、初めてだ」
白虎は大郎の隣にいる、加夜奈留美に視線を向けた。
「あなたか。加夜奈留美命」
白虎の問いかけに、加夜奈留美はうなずいた。
「私が、術を使いました」
加夜奈留美は大郎と白虎をかわるがわる見つめた。
「私には十種神宝と布留の言が封印されていました。
守屋様が、私に封印したのです。
この術は饒速日様が天孫降臨される際に、天照大神様から授けられた神宝です。
死した人も蘇る術です」
「俺は死んだ。
しかし、その術で蘇ったと」
加夜奈留美はこくっとうなずいた。
「饒速日様の末裔である物部一族が、この術を守っていました。
物部の中で一番お強かったのが、守屋様です。
守屋様は私の姿を見る事ができました。そう、大郎と同じ力を持っていました。
守屋様は私に言いました。
『これは人の世にあってはならぬもの。人の命には限りがあり、いつかは死ぬ。それが人の道。これを使うことで、人の道を外れてしまう。人の道は外してはならぬ』と」
大郎に遠い昔の記憶が蘇った。上宮の家で、厩戸から言われた話。
『約束しておくれ。決して人の道を外れないと。
これだけは、しっかりと覚えておくのだ。人の道を間違えないと』
そしてもう一度。厩戸は今際の際にも、大郎に人の道について説いた。
『これが、人の運命。この世に産まれ、死す。
大郎。忘れるな。これが人。外れるな。人の道』
「厩戸様は神宝の事を、ご存じだったのだ。
丁未の戦の時。守屋様が亡くなる前。お二人は言い争いをされていた。禁断の術はお前のものにはならないとか。
そう、そうだ。神に封印したって」
白虎は大きくうなずいた。
「それで、厩戸は気が付いたのだ。
物部は飛鳥川、つまり加夜奈留美命を守る一族。守屋の言う神とは、加夜奈留美命だろうと。
つまり、守屋は加夜奈留美命に十種神宝と布留の言を封印したのだと」
「だから、俺に、あんなに強く加夜に会うなとおっしゃったのだ。
それなのに、俺は、厩戸様との約束をやぶってしまった……」
「私は身の中に封印されれば、それを解く事はできない。守屋様も、私もそう思っていました。
でも、神である私が、人である大郎を愛してしまった。
大郎を失いたくなかった。
あなたの魂が、体から離れようとした時、私の心は壊れてしまいました。
その時、封印が解かれたのです。
自由になった術を使って、私は大郎を蘇らせてしまいました」
「守屋も、まさか神が人を愛するなど、考えもしなかっただろう」
白虎の言葉に、加夜奈留美はうつむいた。
「我は、まだ、畝傍の山に辿り着いていなかった。
眠りにつく前に、大郎が生き返った。それで我は呼び戻されたのだろう。
四神が眠りにつくと同時に、主とのつながりは消えるのだ。
我は間に合ったのだ。我の主はまだ大郎だった。だから、我は大郎の元に戻って来られたのだ」
「よかった。きららが戻ってきてくれて」
大郎は白虎の首を、くしゃくしゃと激しく撫でた。
「大郎。
この術は人を蘇らせるだけではないのです。
この術によって、蘇った者は、永遠の命を得るのです」
大郎の動きがピタッと止まった。何度も瞬きをしながら、加夜奈留美の瞳を見つめた。
「俺に、永遠の命が? という事は、俺は死なないという事か」
大郎はゆっくりとした言葉で尋ねた。
加夜奈留美はこくりとうなずいた。
大郎は自分の腕、胸、そして顔に触れた。
白虎は大郎から離れ、大郎と加夜奈留美の2人の前に立った。
「その様な術があると知れたら、欲深き者はそれを欲するだろう。
それを争って、戦や殺し合いが起きるやもしれぬ」
「はい。守屋様は私に言いました。
『これは人に悪用されてはならないのです。きっと、争いの元となります。
長きにわたって、物部が守ってきたものですが、飛鳥の平穏のためには、人の手に留めておくべきではないと思います。
だから神である、加夜奈留美命様に託します。神は永遠。飛鳥のために、永遠にこの神宝を守ってください』
そう言われたのです。でも、私は、その言葉を裏切った。大郎を生き返らせ、永遠の命を与えてしまったのです」
「俺に、永遠の命……」
大郎には実感がなかった。自分の手を見つめる。何も変わった所はなかった。
大郎は強く拳を握り、晴れ晴れとした顔で上を向いた。
「これは、間違った事かもしれぬ。
だが、俺は嬉しいのだ。きららと会え、これからも一緒に過ごせる」
白虎に快活に微笑みかけた。
そして加夜奈留美に向き直った。
「加夜」
名前を呼びながら、大郎は加夜奈留美をぎゅっと抱きしめた。
白虎の視線を気にすることなく、大郎と加夜奈留美は抱き合った。
名残惜しそうに大郎は腕をほどいた。
「加夜とも、こうやって触れる事ができる。迷う事など何もない。
俺は加夜ときららと共に、飛鳥を守る」
大郎は加夜ときららの瞳を見て、微笑んだ。
「そして、今度こそ俺が加夜を守る。
永遠に」




