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飛鳥の守護神   作者: 葉月みこと
第五章
36/41

板蓋宮の惨劇

 6月12日。

 早朝から雨の降りしきる、肌寒い日だった。


 大郎は大王の使者と2人で朝廷に向かった。

大郎は朦朧として歩いた。

(俺の足は地面についているのか? 目の前はゆらゆらと揺らめいているし。

 まるで水の中にいるようだ)

大郎はぼんやりと考えた。

 途中、激しく咳き込んで、膝をついた。咳が治まるまで、使者も立ち止まった。


 白虎が大郎にすり寄って来た。大郎は白虎の首筋を優しくなでた。

「大丈夫だ。きらら」

大郎は白虎に話しかけた。その声は囁くほどで、雨の音にかき消された。すぐ隣にいる使者には聞こえなかった。

 

 白虎は大郎の足にさらにじゃれつく。

 そして、一度、天に向かって咆哮した。

 しかしその動きに大郎は、気が付かなかった。


 板蓋宮にいつもの倍以上の時間をかけて、辿り着いた。

 門の所では門番に、腰に提げている剣を預けるように言われた。

「なぜ?」

「三国の客人が集まる会議です。武器は携帯できません」

大郎の問いに、門番はそっけなく答えた。

「会議は中止と聞いたが」

「私達は会議は開かれると、伺っております」

大郎はとっさに(おかしい)と、思った。しかし集中が保てず、思考が途切れてしまった。

 大郎は言われるがままに、剣を門番に渡した。


 ふらふらと、頼りない足取りで歩く大郎を、木陰に隠れて見つめる二つの影があった。

 中臣鎌足と中大兄皇子である。

「あんな状態であれば、こんな手の込んだことをしなくても、よかったのではないか」

中大兄が大郎の姿を見ながら言った。

「いいえ。奴にはなにか、不思議な力があるのです。油断はなりません」

「力か……。 お前はしばしばそう言うが、いったい何なのだ。その力で、何をするというのだ」

「私にもはっきりとはわからないのですが。とにかく、奴を侮ってはいけません。

 それに、蘇我が飛鳥にとって悪であるから、大郎が成敗されたという、事実が重要なのです。そしてそれを、大王に承認して頂く必要があります。

そのために皇極様においで頂いているのです。

闇討ちでは意味がありません」

そう言って、鎌足は表情を引き締めた。


 女帝は御簾の中に着座し、大郎は御簾の一番前に立った。

 大郎の背後に、群臣が整然と並んだ。皆、一言も話さなかった。


 そして大極殿の後方にある物陰では、長槍を持った中大兄皇子、弓矢を担いだ中臣鎌足、短剣を腰にさした佐伯子麻呂(さえきのこまろ)、長剣を抱えた葛城(かつらぎの)稚犬養網田(わかいぬかいのあみた)、そして上表文を読み上げる役割の蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)が息を潜めていた。石川麻呂は大郎のいとこに当たる。大郎は身内にも裏切られるのだ。

 子麻呂と稚犬養網田、石川麻呂は5日前に鎌足に集められた。そして、蘇我大郎殺害の計画を聞かされたばかりだった。大郎の政策に不満を持つ者は多く、3人は即座に話に乗った。


 大極殿内に、重々しい緊張感が漂った。時折、大郎の咳が響いた。


 蘇我石川麻呂がようやく巻物を抱えて入ってきた。そして大郎の脇に立った。

 石川麻呂は会議が始まる前から、緊張していた。顔は紅潮し、汗が大量に流れている。

(石川麻呂の様子がおかしい)

大郎は隣で震えている、いとこの様子をうかがった。しかし激しい咳に、思考は止まってしまった。

 

 開始の合図が鳴らされた。

 大郎はまっすぐに前を向いた。御簾をはさんで正面にいる大王を見つめた。

 彼女は大きな扇を顔の前に掲げていた。扇がゆらゆらと揺れる。

(いや。手が震えているのか。なぜ、あんなに手が震える)

大郎ははっきりしない頭で考えを巡らせた。

 そして、御簾の中に中大兄がいないことに、気が付いた。直系の皇子は、大王の後ろに控える事になっている。

 会議が始まっても、三国の使者は入って来ない。


(やはり、おかしい)

大郎はもう一度、そこに考えが至った。

 皇族の席に列席していた古人も、不穏な空気を感じた。不安そうにきょろきょろと周囲を見渡した。


 大郎は隣にいる白虎に視線を向けた。白虎はしきりに顔を動かし、天に向かって吠える動作を何回もしていた。

 大郎は、ようやく、白虎がせわしなく動いている事に気が付いた。


 石川麻呂がようやく動き出した。震える手で巻物を持ち、顔の前に掲げた。

 次に口上を述べるはずであったが、なかなか言葉が出てこなかった。

「蘇我石川麻呂。どうした」

大郎がゆっくりと問いかける。

「大王の御前にて、緊張しているだけでございます」

石川麻呂は震える声で答えた。


 その瞬間。大極殿に怒号が響いた。

 入り口から長槍を振りかざした中大兄が駆けてきた。その後ろから鎌足、そして子麻呂と稚犬養網田が続いた。

 4人は大郎に向かって、まっすぐに走って来た。

 目は血走り、大郎だけを標的に定めている。


「蘇我大郎鞍作。覚悟しろ!」

中大兄が叫んだ。

(俺を殺そうというのか)

大郎は一瞬で理解した。

 この儀式は計画された芝居である事。石川麻呂も皇極も、この場に集まった群臣も、大郎の剣を奪い取った門番も、皆、中大兄と鎌足に従っている事。

 そして、剣を取り上げられ、思う様に体が動かない自分は、中大兄の剣からは逃れられないという事も。


 大郎は白虎を抱擁した。

「きらら。ありがとう。俺は幸せだった」

大郎は死ぬ時は、この世に恨みや後悔を残さないと誓っていた。

白虎のため、そして、次に白虎の主となる者のために。

 しかし、この言葉は心から出た言葉だった。死を前にしては、真実しか語ることができない。


 かがんで白虎と抱擁している大郎は、中大兄達に背中を向けていた。中大兄は大郎の背中を斬りつけた。そして続けざまに子麻呂が大郎の足に剣を振り下ろした。

 大郎はその場に倒れ込んだ。傷から、大量に血液が流れた。

「大郎!」

古人は御簾の中から飛び出し、大郎の元に駆け付けようとした。しかし即座に、石川麻呂によって阻まれた。


「大王!」

中大兄が剣を掲げたまま、御簾の向こうの母親に声をかけた。

「この、蘇我大郎鞍作は飛鳥を我が物にしようとしています。大王をないがしろにするその所業。許すわけにはいかぬ」

中大兄は唾液を飛ばしながら、叫んだ。

 そして、もう一太刀、大郎に浴びせた。


 大郎は痛みを感じなくなっていた。意識が薄れていく。

 大郎は這って、白虎の正面に移動した。白虎の顔を手でつかみ、真正面から瞳を見つめた。大郎の目が、白く光った。

「きらら。俺を、加夜の、元へ。最期に、加夜に。一目、加夜に……」

主の命令を、四神はしっかりと聞き取った。

 大郎は最期の力をふり絞って、白虎の背中に乗った。

 白虎は軽やかに宙に飛び上がった。


 大郎が宙に浮かんだ。

 白虎の見えない者にとっては、大郎が一人で浮かんでいるようにしか見えない。


 場内は大混乱に陥った。

 悲鳴を上げて逃げまどう者。経を唱える者。土下座をする者。腰を抜かす者。

 女帝はその場に倒れた。付き人に抱えられて、退室した。

 中大兄と鎌足も、自分たちの目が信じられなかった。声は喉でつまり、全身は縄で縛られたように、動けなかった。


 白虎に乗り宙に浮かんだ大郎は、風の様に板蓋宮をあとにした。

 蘇我大郎鞍作の体は消え、そこには大量の血液が残るだけだった。


「大臣の怨念だ」「祟られる」と、板蓋宮の混乱は収まることはなかった。


 古人は、家に駆けこんだ。体がガタガタと震えた。

 大郎を失った悲しみと、怒りが押し寄せる。それは大郎が空を飛んで消えるという、怪奇な現象への驚きをも超えていた。

感情を抑えることはできなかった。

「大郎を、本当に大郎を殺すとは! 中大兄め。もう、弟とは思わぬ。

 韓人め。大郎を殺してまで、そこまで、百済に肩入れするのか!」

古人の叫びは、家中に響いていた。それを聞いた家族や舎人たちが、あちこちで言いふらした。

 韓人とはだれを指すのかと。


 この一件は鎌足の耳にも入ってきた。

(俺の事を言っているのか! なぜ、秘密を知っている!

 消さなければ。俺の秘密を知っているのであれば、早々に殺さなければならぬ)


 事件から、3日。古人は中大兄の差し向けた刺客によって、殺された。


 甘樫丘に立つ、物部雄君。

 降りしきる雨の中。ずぶぬれになりながら蘇我の邸宅を見下ろす場所に立っていた。

 その日、朱雀は落ち着きなく羽を動かしていた。

 突然、動きが激しくなった。バタバタを激しく羽を動かした。顔を上に向け、口を大きく開けた。天に向かって、聞こえない声をあげているのだ。

 雄君も朱雀の見ている天を見上げた。

 そして、とうとう畝傍山に向かって、白い光の道ができあがった。


 白虎が光の上を歩いてきた。

 それだけで、雄君には何が起きたのか理解できた。

「蘇我大郎。死んだか。

 いくらお前を憎く思っても、同じ四神の主を殺す事は、俺にはできなかった。

 しかし、お前が消えた今、俺は、蘇我を滅ぼす。

 これで、俺の恨みに、決着がつけられる」


 雄君はカッと目を見開き、朱雀と視線を合わせた。雄君の赤い瞳の命令に従い、朱雀は炎を吐き出した。

 大郎が魂込めて作った甘樫の家は、あっという間に炎に包まれた。

 普通の火事とは違う。中にいた者たちは逃げる事もできなかった。

 この時、蘇我毛人は焼死した。

 こうして蘇我本家は滅びた。


 白虎はゆっくりと道の上を歩いていた。いつもの軽やかな動きとは違う。

「あいつは、畝傍に帰りたくないのか。蘇我大郎は、この世に未練があると見える」


 突然。白虎が立ち止まった。そして、今来た道を、振り返った。

 帰って行く四神が、途中で立ち止まるなど、雄君は見たことがなかった。

力を使った雄君は、足の力が抜け、どすんと座り込んだ。それでも白虎からは目を離さなかった。


 しばらく、後ろを向いたまま、動かなかった白虎。

 その時、パッと白い光の道が消えた。すると、白虎は軽やかに飛鳥の空を走り出した。まるで呪縛が解けたように、白虎は自由になった。

 白虎は今来た道を、戻って行った。

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