板蓋宮の惨劇
6月12日。
早朝から雨の降りしきる、肌寒い日だった。
大郎は大王の使者と2人で朝廷に向かった。
大郎は朦朧として歩いた。
(俺の足は地面についているのか? 目の前はゆらゆらと揺らめいているし。
まるで水の中にいるようだ)
大郎はぼんやりと考えた。
途中、激しく咳き込んで、膝をついた。咳が治まるまで、使者も立ち止まった。
白虎が大郎にすり寄って来た。大郎は白虎の首筋を優しくなでた。
「大丈夫だ。きらら」
大郎は白虎に話しかけた。その声は囁くほどで、雨の音にかき消された。すぐ隣にいる使者には聞こえなかった。
白虎は大郎の足にさらにじゃれつく。
そして、一度、天に向かって咆哮した。
しかしその動きに大郎は、気が付かなかった。
板蓋宮にいつもの倍以上の時間をかけて、辿り着いた。
門の所では門番に、腰に提げている剣を預けるように言われた。
「なぜ?」
「三国の客人が集まる会議です。武器は携帯できません」
大郎の問いに、門番はそっけなく答えた。
「会議は中止と聞いたが」
「私達は会議は開かれると、伺っております」
大郎はとっさに(おかしい)と、思った。しかし集中が保てず、思考が途切れてしまった。
大郎は言われるがままに、剣を門番に渡した。
ふらふらと、頼りない足取りで歩く大郎を、木陰に隠れて見つめる二つの影があった。
中臣鎌足と中大兄皇子である。
「あんな状態であれば、こんな手の込んだことをしなくても、よかったのではないか」
中大兄が大郎の姿を見ながら言った。
「いいえ。奴にはなにか、不思議な力があるのです。油断はなりません」
「力か……。 お前はしばしばそう言うが、いったい何なのだ。その力で、何をするというのだ」
「私にもはっきりとはわからないのですが。とにかく、奴を侮ってはいけません。
それに、蘇我が飛鳥にとって悪であるから、大郎が成敗されたという、事実が重要なのです。そしてそれを、大王に承認して頂く必要があります。
そのために皇極様においで頂いているのです。
闇討ちでは意味がありません」
そう言って、鎌足は表情を引き締めた。
女帝は御簾の中に着座し、大郎は御簾の一番前に立った。
大郎の背後に、群臣が整然と並んだ。皆、一言も話さなかった。
そして大極殿の後方にある物陰では、長槍を持った中大兄皇子、弓矢を担いだ中臣鎌足、短剣を腰にさした佐伯子麻呂、長剣を抱えた葛城稚犬養網田、そして上表文を読み上げる役割の蘇我石川麻呂が息を潜めていた。石川麻呂は大郎のいとこに当たる。大郎は身内にも裏切られるのだ。
子麻呂と稚犬養網田、石川麻呂は5日前に鎌足に集められた。そして、蘇我大郎殺害の計画を聞かされたばかりだった。大郎の政策に不満を持つ者は多く、3人は即座に話に乗った。
大極殿内に、重々しい緊張感が漂った。時折、大郎の咳が響いた。
蘇我石川麻呂がようやく巻物を抱えて入ってきた。そして大郎の脇に立った。
石川麻呂は会議が始まる前から、緊張していた。顔は紅潮し、汗が大量に流れている。
(石川麻呂の様子がおかしい)
大郎は隣で震えている、いとこの様子をうかがった。しかし激しい咳に、思考は止まってしまった。
開始の合図が鳴らされた。
大郎はまっすぐに前を向いた。御簾をはさんで正面にいる大王を見つめた。
彼女は大きな扇を顔の前に掲げていた。扇がゆらゆらと揺れる。
(いや。手が震えているのか。なぜ、あんなに手が震える)
大郎ははっきりしない頭で考えを巡らせた。
そして、御簾の中に中大兄がいないことに、気が付いた。直系の皇子は、大王の後ろに控える事になっている。
会議が始まっても、三国の使者は入って来ない。
(やはり、おかしい)
大郎はもう一度、そこに考えが至った。
皇族の席に列席していた古人も、不穏な空気を感じた。不安そうにきょろきょろと周囲を見渡した。
大郎は隣にいる白虎に視線を向けた。白虎はしきりに顔を動かし、天に向かって吠える動作を何回もしていた。
大郎は、ようやく、白虎がせわしなく動いている事に気が付いた。
石川麻呂がようやく動き出した。震える手で巻物を持ち、顔の前に掲げた。
次に口上を述べるはずであったが、なかなか言葉が出てこなかった。
「蘇我石川麻呂。どうした」
大郎がゆっくりと問いかける。
「大王の御前にて、緊張しているだけでございます」
石川麻呂は震える声で答えた。
その瞬間。大極殿に怒号が響いた。
入り口から長槍を振りかざした中大兄が駆けてきた。その後ろから鎌足、そして子麻呂と稚犬養網田が続いた。
4人は大郎に向かって、まっすぐに走って来た。
目は血走り、大郎だけを標的に定めている。
「蘇我大郎鞍作。覚悟しろ!」
中大兄が叫んだ。
(俺を殺そうというのか)
大郎は一瞬で理解した。
この儀式は計画された芝居である事。石川麻呂も皇極も、この場に集まった群臣も、大郎の剣を奪い取った門番も、皆、中大兄と鎌足に従っている事。
そして、剣を取り上げられ、思う様に体が動かない自分は、中大兄の剣からは逃れられないという事も。
大郎は白虎を抱擁した。
「きらら。ありがとう。俺は幸せだった」
大郎は死ぬ時は、この世に恨みや後悔を残さないと誓っていた。
白虎のため、そして、次に白虎の主となる者のために。
しかし、この言葉は心から出た言葉だった。死を前にしては、真実しか語ることができない。
かがんで白虎と抱擁している大郎は、中大兄達に背中を向けていた。中大兄は大郎の背中を斬りつけた。そして続けざまに子麻呂が大郎の足に剣を振り下ろした。
大郎はその場に倒れ込んだ。傷から、大量に血液が流れた。
「大郎!」
古人は御簾の中から飛び出し、大郎の元に駆け付けようとした。しかし即座に、石川麻呂によって阻まれた。
「大王!」
中大兄が剣を掲げたまま、御簾の向こうの母親に声をかけた。
「この、蘇我大郎鞍作は飛鳥を我が物にしようとしています。大王をないがしろにするその所業。許すわけにはいかぬ」
中大兄は唾液を飛ばしながら、叫んだ。
そして、もう一太刀、大郎に浴びせた。
大郎は痛みを感じなくなっていた。意識が薄れていく。
大郎は這って、白虎の正面に移動した。白虎の顔を手でつかみ、真正面から瞳を見つめた。大郎の目が、白く光った。
「きらら。俺を、加夜の、元へ。最期に、加夜に。一目、加夜に……」
主の命令を、四神はしっかりと聞き取った。
大郎は最期の力をふり絞って、白虎の背中に乗った。
白虎は軽やかに宙に飛び上がった。
大郎が宙に浮かんだ。
白虎の見えない者にとっては、大郎が一人で浮かんでいるようにしか見えない。
場内は大混乱に陥った。
悲鳴を上げて逃げまどう者。経を唱える者。土下座をする者。腰を抜かす者。
女帝はその場に倒れた。付き人に抱えられて、退室した。
中大兄と鎌足も、自分たちの目が信じられなかった。声は喉でつまり、全身は縄で縛られたように、動けなかった。
白虎に乗り宙に浮かんだ大郎は、風の様に板蓋宮をあとにした。
蘇我大郎鞍作の体は消え、そこには大量の血液が残るだけだった。
「大臣の怨念だ」「祟られる」と、板蓋宮の混乱は収まることはなかった。
古人は、家に駆けこんだ。体がガタガタと震えた。
大郎を失った悲しみと、怒りが押し寄せる。それは大郎が空を飛んで消えるという、怪奇な現象への驚きをも超えていた。
感情を抑えることはできなかった。
「大郎を、本当に大郎を殺すとは! 中大兄め。もう、弟とは思わぬ。
韓人め。大郎を殺してまで、そこまで、百済に肩入れするのか!」
古人の叫びは、家中に響いていた。それを聞いた家族や舎人たちが、あちこちで言いふらした。
韓人とはだれを指すのかと。
この一件は鎌足の耳にも入ってきた。
(俺の事を言っているのか! なぜ、秘密を知っている!
消さなければ。俺の秘密を知っているのであれば、早々に殺さなければならぬ)
事件から、3日。古人は中大兄の差し向けた刺客によって、殺された。
甘樫丘に立つ、物部雄君。
降りしきる雨の中。ずぶぬれになりながら蘇我の邸宅を見下ろす場所に立っていた。
その日、朱雀は落ち着きなく羽を動かしていた。
突然、動きが激しくなった。バタバタを激しく羽を動かした。顔を上に向け、口を大きく開けた。天に向かって、聞こえない声をあげているのだ。
雄君も朱雀の見ている天を見上げた。
そして、とうとう畝傍山に向かって、白い光の道ができあがった。
白虎が光の上を歩いてきた。
それだけで、雄君には何が起きたのか理解できた。
「蘇我大郎。死んだか。
いくらお前を憎く思っても、同じ四神の主を殺す事は、俺にはできなかった。
しかし、お前が消えた今、俺は、蘇我を滅ぼす。
これで、俺の恨みに、決着がつけられる」
雄君はカッと目を見開き、朱雀と視線を合わせた。雄君の赤い瞳の命令に従い、朱雀は炎を吐き出した。
大郎が魂込めて作った甘樫の家は、あっという間に炎に包まれた。
普通の火事とは違う。中にいた者たちは逃げる事もできなかった。
この時、蘇我毛人は焼死した。
こうして蘇我本家は滅びた。
白虎はゆっくりと道の上を歩いていた。いつもの軽やかな動きとは違う。
「あいつは、畝傍に帰りたくないのか。蘇我大郎は、この世に未練があると見える」
突然。白虎が立ち止まった。そして、今来た道を、振り返った。
帰って行く四神が、途中で立ち止まるなど、雄君は見たことがなかった。
力を使った雄君は、足の力が抜け、どすんと座り込んだ。それでも白虎からは目を離さなかった。
しばらく、後ろを向いたまま、動かなかった白虎。
その時、パッと白い光の道が消えた。すると、白虎は軽やかに飛鳥の空を走り出した。まるで呪縛が解けたように、白虎は自由になった。
白虎は今来た道を、戻って行った。




