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飛鳥の守護神   作者: 葉月みこと
第五章
35/41

甘樫丘の邸宅

 皇極4年。


 甘樫丘に蘇我の大邸宅が完成した。

 広大な敷地。頑丈に築かれた石垣。宮よりも大きな屋敷。

 どれを取っても、一豪族の屋敷の規模からは逸脱していた。


 古人が甘樫を訪ねてきた。最初の客だ。

「よく来てくれた」

大郎は満面の笑顔で迎えた。

「大郎。何をのんきに笑っているのですか。

 鎌足と中大兄はこの屋敷を口実に、蘇我への攻撃を始めようとしています。

 蘇我は甘樫の上から、宮を見下ろしている。しかも、豪族の家としては必要以上に大きな造りで、大王を威圧している。無礼な行いだと、言いふらしています」

「うむ。それは知っている。心配をかけてすまない。十分、気をつけるよ。

 さあ。案内しよう。この屋敷はすごいぞ」

大郎は子供の様にはしゃいでいた。


 古人は感嘆の声をあげた。

「改めて見ると、なんと、広い。ここは確か、丘でした。こんなに広く、平らな所はなかったはずです」

「ここには、土を盛ったのだ。頑丈に、崩れないように、しっかりと盛り土がしてある」

「それに、この石垣! こんなに広い屋敷なのに、すっかり囲ってあります」

「そうだ。

 戦では守りが重要だ。

 斑鳩の厩戸様のお屋敷にも、立派な垣根があった」

大郎は見せてもらうと言いながら、かなわなかった、斑鳩の上宮家の屋敷の事を思った。


 斑鳩の事件の真実を知っている古人は、遠い目をしている大郎の気持ちを推し量った。

「厩戸様ですか。私は幼かったので記憶にはないのですが。

 いろいろお話しできた大郎が羨ましいです」

「そうだな。俺は運が良かった。厩戸様にかわいがってもらい、色んなことを教えてもらえたのだから。

 今になって、改めて厩戸様の偉大さがわかるよ。

 しかし、あの時、もっと俺が大人であったら、もっとたくさんの話ができたであろうにと、それが残念でならない。

 そうだ、古人。聞いてくれ。

 俺は、今、上宮記(かみつみやのふみ)の作成をしているのだ」

「上宮記ですか?」

「そうだ。厩戸様の事を、後の世に、残しておきたいのだ。当時を知る人から、話を聞いて、それをまとめているのだ。

 厩戸様と俺たちのじい様が手掛けた国記と天皇記も立派な歴史書であるが、厩戸様の事は書かれていないからな」

「国記はまだ蘇我の家にあるのですよね。

 今度、私にも読ませてください」

「それも、甘樫に持って来てある。朝廷に収めるべきだとは思うが、皇極様はあまり興味がないらしい。

 結局、蘇我で保管する事になってしまった。

 いつでも読めるぞ。

 そうだ、それよりも、まず。上宮記を読んでみてくれないか。ほとんど出来上がっているのだ。

 忌憚のない意見を聞かせてくれ」


 大郎達は家の中に入った。

 古人は武器の貯蔵量にも驚いた。

「これだけ装備しても十分か、正直不安なのだ。

 三国も唐も、情勢は緊迫している。今度の三国との交渉がうまくいけば良いが、それがかなわなかった場合、今度こそ、飛鳥も争いに巻き込まれるかもしれぬ」

 大郎の顔が曇った。


 数日後に、大郎の尽力で、百済、高句麗、新羅の役人が飛鳥に集まる事になっている。新羅と戦闘態勢にある百済と高句麗。そのような不安定な情勢の中、三国が集まるという事自体、異例といえた。

「これが、和平への一歩になってくれればいいのだが」

「そうですね。

 大郎が以前から言っていた、等距離外交がなされるか。正念場ですね」

大郎はうなずいた。


 庭に出た。

 馬子の邸宅は観賞用の池や、手入れされたきれいな木々、季節の草花が植えられていた。

 しかし、新しい蘇我の庭には、見張り小屋や避難小屋が建てられていた。そして、水が引き込まれており、さらには水を保管する小屋まであった。

「焼かれたら一巻の終わりだ。少しでも消火作業が効率よくできるように、水はたっぷり準備できている」


「……。大郎。なんだか、ここは家という気がしません。

 こんな戦場にある様な建物では、安らげないのではありませんか?」

「そうだな。俺はこの家に安らぎは求めていない」

大郎の顔は厳しかった。

「大郎。

 あなたは最近、張りつめ過ぎていませんか。全く余裕がない。

 忙しすぎるのも、よくないと思います。

 三国との交渉、それに税制の改革や戸籍、徴兵制度。

 それに、上宮記の執筆もしていたとは。

 大郎。

 顔色が悪いし、やつれていますよ。頬はこけているし、目の下には、こんなに大きなクマができています」

そう言って、古人は親指と人差し指で円を作って、それを自分の目の下に当ててみせた。

「なにもかも、一人で抱えすぎです。

 中にはそれを、独裁と言っている人もいます。」

「本当にありがたい話だ」

「何を言っているのですか」

的を得ない大郎の返事に、古人は大きな声を出してしまった。

「いや。こんなに心配してくれる友が、俺にはまだいたのだ。

 それが、うれしかったのだ」

古人は何も言えなくなった。

 大郎は古人の照れた様な顔を見ながら、垂目や山背を思い出していた。


「古人も気を付けろ。

 中大兄は自分が皇位につくために、邪魔なものは排除している。情け容赦がない。

 お前は、真っ先に狙われる可能性がある。

 何かあったら、すぐに知らせてくれ」

古人は「わかっています」と言って、大きくうなずいた。


 古人は甘樫からの帰路についた。

 何回も甘樫丘を振り返った。大郎の家は、夕暮れ色に染まる空に、消えてしまいそうだった。

 大郎から借りた上宮記をぎゅっと抱えた。

「なにか。胸騒ぎがする」

古人は、嫌な予感を振り払う事ができなかった。

 晩春の飛鳥。じっとりとした空気が古人を包んだ。

 飛鳥は梅雨の季節を迎えていた。

 

 じとじとした雨が続いた。

 古人が心配した通り、大郎は体調を崩した。

 原因不明の熱が続き、食事も食べられなくなった。死んだように眠り、意識がないような状態が3日間、続いた。


 この3日間が、大郎の運命を狂わせた。

 大郎が朝廷に顔を出さなかった事で、中大兄と鎌足に、策略を練る十分な時間を与えてしまった。


 大郎が目を覚ましたのは、三国が集まる、会議の当日だった。

 布団から起き上がったものの、大郎の顔色はどす黒く、目は深く落ちくぼんでいる。頬はさらにやつれ、顔の骨の形が分かるほどになってしまった。

 しかし目を覚まして真っ先に舎人に尋ねたのは、仕事の事だった。

「俺は、いったいどれくらい寝ていたのだ。三国の会議はいつだ?」


「早く、朝参する服を持って来い」

会議の当日と知った大郎は、そう言うと、いきなり立ち上がろうとした。

 しかしいつものように立ち上がる事はできず、その場に崩れ落ちた。

 そこへ、毛人が慌てて部屋に入って来た。

「大郎。大丈夫か。

 そんなに急に起き上がるのは無理だ」

毛人は大郎に駆け寄った。

「まだ、こんなに熱がある。出仕するのは無理だ。

 それに、三国の会議は延期した。大臣であるお前がいなければどうにもならない」

「なっ。せっかく、あそこまで、手筈を整えたのに……」

大郎は力が抜けたように、倒れ込んだ。

 そこへ、朝廷の使いが来たと、知らせがあった。


 大郎に代わって毛人が応対した。

 朝廷の使いの者は、大王の命令で大郎を迎えにきたと述べた。

「今日は、朝参などないであろう」

「その件につきましては、私は存じておりません。

 私は大王のお言葉を申し伝えに参っただけでございます」

毛人はこめかみに指をあてて、思案した。そこに着替えを済ませた大郎が入って来た。

「俺は、大丈夫です。大王がお呼びなのでしょう」

大郎はふらふらと歩き始めた。しかし、まともに歩くことすらできなかった。

「私が代わりに行こう」

毛人が大郎を止めた。

「私は大臣、蘇我大郎鞍作様をご案内するようにと、命じられております」

使者は譲らなかった。

 

 大郎は使者に支えられるようにして出かけて行った。

 毛人は大郎の背中をじっと、見送った。

 雨に霞む大郎の姿。

 毛人は一瞬、大郎の隣に白くて大きな、犬の様な動物が見えた気がした。大郎にしっかりと、寄り添っている。

 毛人がもう1回瞬きをすると、動物の姿は消えていた。

(見間違いではない。動物に姿を変えた神の様だった。

 もし、そうであれば、お願いします。大郎を助けてくだされ)

毛人は垣間見えた白虎に祈った。

 毛人は止み間なく降る雨の中、びしょ濡れになりながらいつまでも門の外に立っていた。


 大郎が家を出てからしばらくして、2つの影が甘樫丘に現れた。

 物部雄君と朱雀。


 雄君は蘇我の家から、少し離れた林の中に立っていた。そこから、濡れながらも身動きせずに立っている毛人を見ていた。

(鎌足には板蓋宮に来るように言われたが……)

雄君は鎌足の言いなりになる気はなかった。しかし何かを企んでいる顔を、忌々しく思い出していた。

(奴は蘇我に何かを仕掛けようとしている)

 ふと、横の朱雀が、せわしなく羽をばたつかせている事に気が付いた。じっと、鋭い瞳で朱雀を見つめた。

(まさか……)


「鎌足と中大兄は、白虎の主を葬るつもりか」

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