斑鳩の猛火
山背と和解した翌日の夕刻。大郎は毛人の屋敷を訪ねた。
親子で向かい合うのは久しぶりだった。
「父上。俺は、明日から2、3日、飛鳥を離れます」
毛人は嬉しさを隠せずにいる大郎を、じっと見つめた。
大郎は垂目が亡くなってから、笑う事が少なくなっていた。そしていつも張りつめたような、切羽詰まったような顔をしていたのだ。
「どこへ行くのだ」
「斑鳩に」
「山背王の所か」
「はい」
毛人の顔が曇った。そして額に指をぐりぐりと押し当てた。
「何かありますか」
毛人の思案顔が気になった。
「お前は聞いていないか」
「何をですか」
毛人は深いため息をついてみせた。
「全く気が付いていないのか。
飛鳥を仕切るならば、様々に情報を手にしておかなくてはならない。
前から言っているだろう。イヌを持てと」
「はい。すみません。色々と忙しかったもので。
しかし、相手の事など、どうでもいいのではないでしょうか。自分のやることを、しっかりとやっていればよいと思いますが」
「それが甘いと言うのだ。政には駆け引きも重要なのだ」
毛人は声を荒げた。
「その、イヌの報告だ。中大兄皇子が山背王を狙っている」
「山背を? まさか、大王の問題で?」
大郎はガバッと身を乗り出した。茶碗に膝が当たり、お茶が床に撒き散らされた。
「そうだ。山背王は大王の座を、諦めておられないからな。
加えて、厩戸様への崇拝は、今だに飛鳥の民に残っている。そのお子であるというだけで、中大兄様には邪魔な存在なのだ」
「山背はもう大王の座には、固執していません」
「中大兄様はそうは思っておられない。
自分が大王になるために、表でも裏でも対策を講じられているのだ。少しでも可能性のある者には容赦しないであろう」
大郎は歯をギリギリとかみしめた。
「それは、鎌足だ。鎌足の策略です」
「誰でもいい。
今、斑鳩に行くのは危険だ。いらぬ火の粉を浴びるかもしれぬ」
「どういうことですか」
「中大兄様は斑鳩にすでに刺客を送り込まれた。巨勢徳太だ」
「徳太が?」
「そうだ。徳太め、我が蘇我に使えていたにもかかわらず、今は中大兄様に寝返りおった」
毛人は苦々しそうに顔を歪めた。
「中大兄は、徳太らに山背王の暗殺を命令したのだ」
「!」
大郎は外に飛び出した。
「待て!」
毛人は後を追いかけたが、若く体力のある大郎に追いつく事もできなかった。
「誰か。大郎を止めろ」
毛人が叫んだ。門番に捕まえられるまで、大郎は我を忘れて走っていた。
「離せ。
なぜ、黙っていたのだ。山背を見殺しにするつもりか!」
大郎は鬼の様な目で、毛人をにらんだ。
「中大兄様にとって、一番邪魔なのは、我が蘇我なのだ。
今、斑鳩に行けば、好都合と言わんばかりに山背王と共にやられてしまうかもしれない。
それに、私がその報告を聞いたのは、つい一刻ほど前の事だ。徳太らはもう斑鳩に着いているだろう。
今から行っても、間に合わない」
「うるさい。
山背は、俺を歓迎すると言ってくれた。ようやく、山背と話しができるのだ。
俺の幼き頃からの友だ。こんなことで、山背を失うわけにはいかぬ!」
大郎は門番の手を乱暴にねじ上げた。門番がひるんだすきに、馬小屋に向かった。そしてあっという間に馬を連れ出した。
大郎は疾風のごとく、嶋の家を後にした。
毛人は諦めて、家に戻った。そしてイヌを呼び、大郎を追いかけるよう命令した。
「もう間に合わないというのに。
第一、これから陽が暮れる。灯りも持たずに、斑鳩まで行けるわけがない」
大郎は必死で馬を走らせた。しかし、夜はすっかり更けた。もう先が見えなかった。
(夜に馬を走らせるなど、考えなしだった)
大郎はようやく気が付いた。
大郎は馬を降りた。そして、馬の尻を叩いた。馬は暗闇の中を、ゆっくりと駆け出した。動物には帰巣本能がある。蘇我の家まで、戻れるだろう。
「きらら。俺を、斑鳩まで連れて行ってくれ」
大郎は白虎の目を見ながら言った。白虎は白く光り、その場にかがんだ。大郎は軽やかに白虎の背に乗り、首元にしっかりとつかまった。
「急いでくれ」
白虎は風の様に宙を駆け抜けた。
斑鳩が近づいた。
その斑鳩の方角から、炎があがっている。巨大な炎は、辺りを昼間の様に照らしていた。黒煙は天まで届く勢いだった。
「まさか。あそこは、山背の、厩戸様の屋敷」
斑鳩にあれほど大きな炎で燃える建物は、上宮家の屋敷しかないはずだった。
燃えているのはそれだと、大郎は確信した。
大郎は白虎の毛を強く握った。
大郎の額に汗が流れた。全身がガタガタと震えてきた。
火事の現場に近付くと、炎の塊が大郎の目に入ってきた。
「朱雀!」
朱雀の姿を見つけた。
「雄君様! まさか、朱雀が火をつけたのか!」
白虎は燃え盛る家の前に降り立った。
大郎の白い瞳は、元の色に戻った。それと同時に、体の力が抜け、膝から崩れ落ちた。
それでも必死に立ち上がり、ヨロヨロと歩みを進めた。
「山背ぉぉぉ!」
大郎は、声の限りに友の名を呼んだ。
しかし、その声は、炎の勢いにかき消された。
大郎はふらふらと歩き出した。
「山背。どこだ。どこにいる……」
足に力が入らず、体が思うように動かなかった。
「大郎様……。 どうしてここに?」
大郎は急に呼び止められ、振り返った。
「徳太」
蘇我を裏切って、中大兄についた巨勢徳太だった。
「徳太!
山背は、山背はどうした。逃げ出せたのか?」
大郎は徳太の腕に指が食い込むほどに握りしめた。倒れそうな体を、必死に支えた。
徳太は首を左右に振り、視線を炎に包まれた屋敷に向けた。
「中に、いるのか? まだ、屋敷に!」
大郎はガバッと、立ち上がり、何のためらいもなく、炎の中に駆け込もうとした。
「危ない!」
徳太に腕をつかまれ、引き戻された。
その瞬間。轟音をたてて、屋敷が崩れ落ちた。辺り一帯に、火の粉が舞い上がる。
炎の帯が、天に吸い込まれるように舞い上がった。
「徳太。お前が、火を?」
「いえ、いえ。火をかけたのは私達ではありません。
あ、あの、でも、その……」
「わかっている!
お前が蘇我を裏切ったことも、山背を殺しに来たのも知っている!」
大郎の殺気に、徳太はたじろいだ。
「答えろ! 雄君か? 雄君が火をつけたのか!」
大郎は徳太の襟元を強く締め上げた。徳太は窒息してしまうと思った。自分を殺しかねない大郎に恐怖を感じた。もう隠し事はできなかった。
「わ、わかりません……。
話します。話しますから、許してください……」
徳太は大郎の手をつかんで懇願した。
大郎は投げるようにして、徳太を離した。地面に倒れこんだ徳太は激しく咳き込み、大きく呼吸をした。
真っ赤な顔をしたまま、徳太は大郎の足元にひざまずいた。
「あ、あの、確かに我々は、山背王を葬りに来ました。
しかし、火をつけてはいません
我々は山背王を屋敷に追い詰めました。しかし王の一族は屋敷に集まり、自ら籠城したのです。我々の狙いは山背王だけです。女子供に手を出すつもりはありませんでした。
しかし、手をこまねいていると、屋敷から炎があがりました。
そして、本当にあっという間に、火は広がったのです。尋常の速さではありませんでした」
徳太は必死に訴えた。
「雄君は?」
「はっ?」
「雄君はどこに行ったっ!?」
「お、雄君様は、私たちを見ると、逃げるようにしてどこかに行ってしまいましたので、どこにいるのかは、わかり……」
大郎は徳太の言葉を最後まで聞かずに駆け出した。
「炎の西側に朱雀がいたはず……」
大郎は重い体を引きずるようにして、雄君を探した。
建物の反対側まで来た時、朱雀の姿を見つけた。そして、雄君。
朱雀の隣で、地面に座りうつむいていた。
「雄君……様」
大郎の声は震えていた。
雄君は肩を上下させながら、ゆっくりと顔を大郎に向けた。落ちくぼんだ目とこけた頬。病にかかっているかと思うほどの顔貌だった。
「あ、あなたか? この火は」
「……。 だとしたら、どうする。俺を殺すか。
今なら殺れるぞ。俺は力を使い果たしている」
「なぜ、山背を……」
大郎の憎悪の込められた視線にも、雄君は平然としていた。
「……。 同じことを、何度も言わせるな」
雄君は気だるそうに大きなため息をついた。
「それに、聞いたのだ。斑鳩を攻めると。
他人に、先に、上宮家を滅ぼされては、俺の恨みの行き場がなくなる」
「総攻撃の計画を聞かれたと……。 それは鎌足からお聞きになったのですか?」
大郎の問いに、雄君は答えなかった。
物憂げに地面を見つめていた雄君は、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、苦しかった。物心ついた時から、いつでもイライラしていた。
恨みの感情と知っても、何もできなかった。
そして、それが上宮家と蘇我家に向けられている感情なのだと知っても、どうにもならない」
「雄君様。その感情は、朱雀に宿ったものです。あなたの前の朱雀の主、物部守屋様が、死の間際に抱いた恨みの感情。
それを朱雀が抱え、そして、次の主である雄君様が受け継がれてしまったのです」
雄君は地面を見つめたまま、動きが止まった。全身が凍り付いたように、固まってしまった。
「意味がわからん。
俺が経験したわけでもない事を、なぜ俺が胸に抱えなければならないのだ。
吐き気を催すような、石を飲み込んでいるような苦しさが、いつも胸にあるのだ。
この苦しさが、お前にわかるか」
「しかし雄君様は、蝦夷の軍を、私と一緒に打ち破ってくださったではないですか。
そして、飛鳥を守ってくださったはず。
どうして、朱雀を正しい道に導いてくださらないのか」
「だから、言ったであろう。飛鳥を守るために蝦夷を追い払ったのではないと。
俺は、河内を守りたかったのだ。
しかし、それも、朱雀の記憶によるものなのか。朱雀が河内に、特別な思いを抱いていたのかもしれないな。
結局、俺は、この鳥に振り回された人生を、送るのだ。俺にはどうしようもない事なのだ」
投げやりに言い放った。
「そればかりではないでしょう。
確かに朱雀の抱いた恨みは、雄君様には関係ない事だったかもしれません。
しかし、玄武だって、勝海様の後悔の念を抱えていたのです。
幼い垂目は、いつも玄武を怖がっていました。玄武の気持ちに影響されていたのでしょう。
それでも、垂目はまっすぐに玄武と向かい合いました。ゲンと名をつけ、玄武と心を通わせようとしました。
そして、俺を助けるために、勝海様に封印された、本来の玄武を目覚めさせました。
どうしようもないとか、そんな言葉で逃げるな!」
雄君は下を向いたまま、何の感情も示さなかった。
大郎は雄君を睨み、拳を震わせながら言った。
「今更だ。今更こんなことを言っても、遅いのだ。
同じ四神の主。語り合えば、きっと分かり合えた。
厩戸様はあなたとの会話を望んでおられた。しかし、それがかなわなかったと、ひどく後悔されていたのだ。
俺も、俺も逃げていたのかもしれない。逃げずに、もっと、話を……」
大郎の目から涙がこぼれ落ちてきた。
雄君は黙って、踵をかえした。
そして大郎の前から去って行った。
大郎は追いかける気にはなれなかった。何も言わず、雄君の背中を見ていた。
雄君は歩きながら考えた。
「上宮家を滅ぼしても、俺の心は、少しも晴れない。
もう一つ。蘇我への恨みがあるからかもしれない」
雄君に大郎の心は、届かなかった。
斑鳩に朝陽がさしてきた。
大郎は煙が立ち上る中で、山背を探した。
焼け焦げた臭いと、熱気と煙が大郎を包む。
煙でゴホゴホと咳込んだ。目にも強い刺激が与えられ、涙がにじんだ。
焼けた木材は、まだ熱を帯びている。大郎の手のひらは皮がむけた。全身火傷を負いながら、捜索を続けた。
数刻して、ようやく山背を見つけることができた。
焼け焦げた遺体には、濃緑の勾玉の首飾りがかけられていた。
「父上自ら、俺の首にかけて下さったのだ」
山背が自慢していた言葉を思い出した。
涙が滂沱としてあふれ落ちてきた。しばらくの間、大郎の嗚咽が斑鳩に響いていた。
上宮家一族の遺体は、一か所に固まっていた。炎に囲まれ、逃げ場を失った人々が集まったのだろう。
遺体の塊の中心には子供たちがいた。その周りに大人の遺体が倒れていた。子供たちを、皆でかばっていた。
大郎は一人一人を丁寧に弔った。焼けた遺体を、放置する事はできなかった。
すべてが終わった時、大郎は、その場に倒れ込んだ。呼吸をする力しか、残っていなかった。
その大郎を見つけたのは、毛人のイヌだった。大郎は目覚める気配を見せなかった。
イヌは飛鳥までの長い道のりを、大きな大郎を背負って帰った。
大郎は毛人の怒鳴り声で目が覚めた。自分の部屋で横になっている事に気が付く。
「勝手な事をしおって! 私のいう事をきかないから、この様な事になるのだ」
大郎は布団から起き上がれなかった。横になったまま、毛人に話しかけた。
「この様な、事とは?」
「お前が、上宮家一族を殺した事になっている!」
「えっ? なぜ!」
大郎は起き上がろうとしたが、全身の激痛で、またそのまま横たわってしまった。
「お前が斑鳩にいたと、徳太が吹聴している。それは事実だ。
そして、お前と山背の不仲は、朝廷中の評判だ。
蘇我に従わない山背を、一族もろとも、焼き殺したと。信じる者も少なくない」
「お、俺達は、仲たがいなど……。
しかし、和解したのだ。握手をして、昔のそのままの、山背が……」
大郎は唇を噛み締めた。こぼれ落ちた涙が、枕に染み込んでいく。
「だから、軽々しい事はするなと、言ったであろう」
毛人はため息をつきながら、こめかみをさすった。
毛人は横たわったまま、悔し涙を流している我が子の顔をなでた。火傷の痕が痛々しい。
「お前は、いくつになっても、人目はばからず泣いている。
子供の頃から言っているだろう。大臣の嫡男が、感情を表に出すなと」
毛人の口調は、幼子にしつけをするようだった。
毛人の手は冷えていた。いつも冷たい父の手。大郎は目を閉じ、唇を震わせながら大きく息を吐いた。
大郎は時間をかけて涙を止めた。そして涙を拭いもせず、目を開けた。
毛人はまだ大郎の顔を見ていた。
大郎も毛人の顔をじっと見つめた。しわが増え、髪は白くなってきている。
(年を、とった)
大郎は久しぶりに、父親を見たように思った。
「父上。すみませんでした。
心配ばかり、かけてしまって」
大郎は横になったままで言った。
「どうした。お前がその様な事を言うとは。頭もぶつけたのか?」
「失礼な。
本当に、そう思ったのです。俺は、いつも心配ばかりかけてしまっている。申し訳なく思っています」
毛人は小さな咳ばらいをした。そして懐から布を取り出し、乱暴に大郎の涙を拭った。
そして、父親の顔で大郎をじっと見つめた。
「大郎。
確かにお前にはいつも心配させられた。それに、ひどく変わった子だった」
毛人は昔を懐かしむ様に話し始めた。
「誰かに話しかけているかの様な、大きな独り言を言う。幻でも見えているのか、病気なのかと。父上と心配したものだ。
真っ暗になるまで、帰ってこない事もしばしばあった。神隠しかと、騒ぎになったこともあったな。
飛鳥川が氾濫した時だ。あの時、川下に流されたお前が、数日後には川上からピンピンとして帰ってきた。
そして、今回もそうだ。斑鳩まで、ほんのわずかな時間で着いたらしいではないか。馬はその夜のうちに帰って来たのに、どうやって、斑鳩まで行ったのだ」
大郎は隣にいる白虎に視線を向け、黙り込んだ。
毛人も言葉を発しなかった。
毛人はゆっくりと口を開いた。
「……。 そんなに、警戒する顔をしなくていい。言えないのなら、言わなくてもいい。
お前には言った事はなかったかもしれん。蘇我の一族には、時に不思議な力を持つ者が産まれるという、言い伝えがあるのだ。
大郎。お前は、そうなのだろう。
厩戸様が亡くなった時だ。
あの時、お前と私は庭にいて、厩戸様が亡くなった瞬間などわかるはずもなかった。それなのに、お前は、はっきりと言い切った。厩戸様が “今” 亡くなったと。
あの時、大郎には常人にはない力があるのだと。そう確信したのだ」
毛人は大郎の火傷の痕にそっと触れた。
「お前のけがや病気は、そのためなのか。これまでに、普通では考えられないけがをしてきた。
その力ゆえに、負った傷なのか」
「いや。そうではない。
俺は、きら……、 いや、この力に助けてもらっている。命も救ってもらった。
これがなかったら、俺は死んでいたかもしれない」
大郎は父にはもう隠す必要はないと思った。
「その力は、蘇我のために使えるものではないのか」
「いや。これは飛鳥のための力だ」
大郎は白虎を見つめた。
大郎の揺るぎのない言い方に、毛人は「そうか」と、言っただけだった。




