和解
舒明の皇后、宝皇女が大王に即位した。
皇極の大王。2人目の女帝である。
皇極2年。
朝廷は飛鳥板蓋宮に遷都された。
この時、大臣毛人はすでにその職を大郎に譲っていた。大郎は名実ともに飛鳥の中心となっていた。
初秋の風が耳成山から渡って来る。大郎は甘樫丘の頂に立っていた。
小高い丘の上から、西の方角を望んだ。耳成山と天香久山が並んで見える。左手には難波に続く道。そして、畝傍の山までも見渡せる。丘の木々でここからは見えないが、後方には板蓋宮がある。
飛鳥川が南から流れて来る。ゆっくりと、流れを目で追う。そして再び、上流の方に目を向けた。
大郎はここからは見る事はできない、加夜奈留美命神社を思った。
「きらら。やはり、ここがいい。飛鳥を守るためには、ここに砦を築くべきだ。
飛鳥の南と東側は山々の天然の城塞に守られている。敵が攻めてくるとすると、北か西からだ」
大郎は方角を指差しながら、白虎に語って聞かせた。
「甘樫丘はちょうど板蓋宮を守っているし、北西から攻めてくる敵を、ここからならばいち早く発見できるはずだ。
絶好の場所ではないか」
大郎と白虎は甘樫から飛鳥の景色を、ぐるっと見渡した。
大郎は甘樫に蘇我の家を建てることに決めた。
生活をするための家ではない。飛鳥を守るための、城砦の機能を持った建物だ。
丁未の戦で見てきた、稲城の砦。旻や玄理から聞いた、扶余の要塞。取り入れられる物は全て取り入れるつもりだ。
「でも、そのためには、山背にも協力してもらいたいんだ。でも、山背にはしばらく会っていないし、顔を合わせても避けられる。
きらら。どうすればいいだろうか」
大郎は、斑鳩の方角を見つめた。
ヒュッと秋の冷たい風が、大郎の髪をなびかせる。
「それでも構わない。斑鳩まで行くしかない。たとえ山背が会ってくれなかったとしても。
なぁ、きらら」
大郎は明るく笑った。
そして、大郎は加夜奈留美命神社の方を見て、大きくうなずいた。
『まるで、加夜奈留美の神から、勇気をもらっているようだ』
白虎は微笑ましく大郎を見ていた。
丘を降りたところで、大郎は山背の後姿を見つけた。
あまりの偶然に、大郎の心臓はドクンドクンと音をたてた。ごくっと唾を飲み込んだ。大郎は意を決すると、つとめて普段通りを装って声をかけた。
「山背」
山背は聞き覚えのある声に反応したが、歩みを止める事はなかった。
大郎は急いで駆け出し、山背に追いついた。
「久しぶりだな。上宮に行くのか?」
「ああ」
山背の返事はそっけない。
「仕事以外で会うのは、えっと、刀自古の叔母上が亡くなった時以来か」
「そうだな」
なかなか、会話は続かない。
大郎は話の回り道はせず、話の本題に入ることにした。
「山背。頼みがある。協力して欲しいことがあるのだ」
突然、大郎の声が変わった。山背は立ち止まり、やっと大郎の顔を見た。
「俺は、この甘樫丘に蘇我の家を建てようと思っている。城砦の機能を持った、守りのための家だ。
飛鳥を守るためには、城塞が必要だ」
「……。」
山背は大郎の顔をまじまじと見ていた。大郎も山背の瞳から逃げなかった。まっすぐに瞳を見つめた。
「それで、頼みというのは。斑鳩の家を見せてほしいという事なんだ。
斑鳩の屋敷は厩戸様が設計に関わったのだろう。からくりや、様々な罠が仕掛けてあると聞いたことがある。
さらには、家の造りも頑丈にできているそうだし、その秘訣を知りたいのだ」
山背は軽く首を左右に振った。
「……。 大郎。お前は、なぜ、そんなに守り、守りと言うのだ。
大王でもそこまで考えていた者はいないだろう。
正直、大王の座を狙う者のほとんどは、権力を欲するだけだ。
宝皇女など、子供のために大王になったのだから、話にならない」
「俺は飛鳥が安泰であれば、それでいいのだ」
「だから、なぜなんだ。お前が個人で、そこまで考えなくてもいいのではないかと言っているのだ」
大郎は初めて、山背から視線を逸らせた。しかし、すぐに視線を山背に戻した。
「国の事業としてやっていたのでは、間に合わない。急がなくてはならないのだ。
正直に言おう。
俺は、この飛鳥に、守りたい人がいるのだ。俺の命に代えても、守るべき人が。
その人のために、平和な飛鳥を残したい。それだけだ」
大郎は朱雀の炎で焼かれ、生死の境を彷徨ったことを思い出していた。
(人の命には限りがある。いつかは死んでしまう。死んでしまえば、俺は加夜を守ることはできない。
しかし加夜は永遠の時を、飛鳥と共に生きるのだ。
もし唐や三国、いやそれ以外にもっと遠くの国が攻め込んできたらどうなる。異文化の者たちに大和の信仰など理解されないだろう。そして民まで改心させられたなら。信仰はなくなり、加夜の存在も消えてしまうかもしれない)
破壊された加夜奈留美神社、踏み潰された草花、汚れた飛鳥川が、大郎の脳裏に浮かぶ。
(俺が、今、加夜にしてあげられるのは、平和な飛鳥を築くこと。加夜が永遠に存在できる世界を残す事だ)
「それが、俺の使命なんだ」
「なっ」
山背は目を丸くした。そして、何度も瞬きをした。
「なんと。大郎がそのような事を言うとは、思ってもみなかった。
妻の所にも通わず、子供も作らない。女嫌いの大郎の言葉とは思えないぞ」
「おい。俺は、女性に興味がないわけではないぞ。俺にだって、愛する人はいる。それは彼女一人だけなのだ。
しかし、その人とは結婚できないんだ」
「お前。まさか、他人の妻に……」
「何を言う! 俺は人の道に外れるような事はしない!」
大郎の必死な顔に、山背は思わず噴き出した。大郎もそれにつられ、笑いだした。
二人はしばらくの間、愉快そうに笑っていた。
(久しぶりに笑えた。山背と、一緒に)
そう思うと、なかなか笑いを止められなかった。
「お前にそこまで言わせるとは、驚きだ。一体どの家の人だ? 俺は会ったことがあるか?」
山背の言葉に、大郎は寂しそうに笑った。
「いや。会ったことはないだろう。
そうだな。いつか。俺も、お前に紹介したいよ」
決してかなわぬ願いであるが、大郎は本当に山背に会ってほしいとさえ思っていた。
「こんな理由かと、お前は呆れたかもしれないが。でも、俺は真剣だ。
だから、頼む。協力してくれ」
大郎は改めて、頭をさげた。
山背は大きなため息をついた。そして、頭をあげた大郎にまっすぐに目を向けた。
「お前は、古人が大王になればいいと、思っているのだろう」
山背はずっと、心に抱えていた、わだかまりを口にした。
「いや。俺は、俺と政策を共にしてくれる者が大王になってくれればいいと、思っている。
正直に言おう。俺にとっては山背、お前でも、古人でもいいのだ。
俺と共に飛鳥を守ってくれる大王であれば、誰でもいいのだ」
山背の顔が厳しくなった。
「すまない。あまりに自分勝手な言い分だった」
目を伏せて謝った大郎を、じっと見つめた。
「お前は、俺を前にして、よくもそう、ずけずけと言えたものだ」
そう言って山背は、笑った。
「お前と話していると、つくづく自分が了見の狭い男に思える。
お前は、本当に飛鳥の事を思っているのだな。
俺は父上がなれなかった大王になる事で、父上より優れていると、自分で思いたかったのだ。飛鳥の事など、二の次だったかもしれん。
まぁ、俺が大王になる可能性はほとんど消えてしまったがな」
「大王にならなくても、お前が優れた人間である事は皆が知っている。
それに、厩戸様だって、大王になれなかったのではない。自らが望まなかったのだ」
「お前は、そうやって父上の事を理解したように話していただろう」
「すまない」
大郎は即座に謝った。
「いや。俺が父上を理解していなかったは事実だ。今になると、わかるのだ。
それに、父上は大郎をかわいがる、実の子である、俺よりもずっと。それが悔しかったのだ。お前を憎く思った事すらある」
山背は大郎をじっと見ていたが、その瞳に非難めいたものは何もなかった。
「俺は、駄々をこねる子供だったのだ。他を責めるだけで、自分を変えようと思わなかった。
いつも父上から注意されていたことだ」
山背は首にかけられた勾玉の首飾りにそっと触れた。
父、厩戸からもらった首飾り。父親代わりに、ずっと身に着けていて、外した事はなかった。
「俺は、宝皇女の事も、責められない。同じだ」
「俺だって、そうだ。俺も、自分勝手な人間だ。
俺は加夜が一番、大切なのだ。
飛鳥の平和、安泰と言ってはいるが、それが飛鳥の民のためかと問われれば、違う。加夜のためだと、俺は答えるだろう」
「そうか。お前の愛しい人は、加夜というのか……」
山背は優しく笑った。山背の微笑みは、これまで見たことがないほど穏やかだった。
(山背のこの笑顔は、一生忘れられないだろう)
大郎は、山背の笑顔を胸に焼き付るように、じっと見つめていた。
「大郎。
俺でよければ、協力させてくれ。
ぜひ、斑鳩の屋敷に来てくれ。
父上の建てた屋敷はすごいぞ。きっと、お前の役に立つ」
山背は握手を求めた。大郎は伸ばしてきた山背の手を、両手で握った。
数年に及んだ二人のわだかまりは、今、氷解した。




