垂目との別れ
宝皇女の雨乞いでは、結局、本物の雨は降ってこなかった。
夜になっても、むしむしと暑かった。
大郎は何度も寝返りをうった。
しかし目を閉じると苦しそうに呼吸をする垂目の顔が浮かぶ。なかなか寝付けなかった。
垂目の真っ青な顔が、苦しそうにゆがんでいる。大きな目をさらに見開き、左手で自分の首をつかみ、右手を大郎に伸ばしてくる。
垂目に駆け寄ろうとするが、足が動かない。大郎の足に紐が縛りつけてある。その紐を後ろから引っ張る者がいた。
大郎は振り向いた。鎌足だ。鎌足は笑いながら紐を手繰り寄せている。そこへ中大兄が加勢してきた。大郎は垂目からどんどん離れてしまう。
大郎は手を伸ばし叫んだ。
「垂目ーー!」
大郎は飛び起きた。
座ったまま、キョロキョロと見回した。自分の部屋だと気がつくまで、少し時間がかかった。
(夢か)
大きく安堵のため息をついた。
外はまだ薄暗かった。
いつもの朝の様に、白虎に言葉をかけたその時。白虎の落ち着かない様子に気が付いた。
「きらら!」
大郎は白虎に駆け寄った。
「なぜ、なぜ、その様に、動きまわっているのだ!」
大郎は大きな声をあげた。
白虎のこの仕草は、四神の主が産まれるか、亡くなる時のもの。今、大郎には、思い当たる心配があった。
「垂目!」
昨日の垂目の様子が思い出された。
白虎は、外に向かって咆哮する動作を始めた。
白虎が向いている方向には、耳成山と天香久山がある。
「きらら。耳成山か、天香久山なのか。
そうだ、青龍の主が産まれるのかもしれぬ」
大郎は自分でそう言いながらも、皇族の中で、出産を控えている者に心当たりがなかった。
大郎は大急ぎで身支度を整え、家を飛び出した。
中臣の家に到着した時、まだ太陽は顔を出していなかった。
しかし、中臣の家は人の出入りが見られていた。その中の一人の男が、門に立っている大郎に気が付いた。大郎をいぶかしげに見て、近寄って来た。
大郎は息を切らせながら、慌ただしく頭をさげた。
「この様に朝早く、申し訳ない。
私は蘇我大郎鞍作。
中臣垂目殿に、お会いしたいのだ。こちらにご滞在中のはず」
大郎は大声で門の外から話しかけた。
飛鳥の大臣の息子。名前は誰もが知っている。
男は驚いて頭をさげた。しかし、見るからに困惑した表情。
「どうか、お目通り願いたい」
「あ、あの。主人に聞いて参ります」
男は家の中に入っていった。
しばらくして鎌足が出てきた。
「これはこれは。蘇我大郎殿。昨日は垂目がお世話になりました。
それにしても、今日は朝参もないはず。この様に早く、何事でございましょう」
何かを隠しているような、わざとらしい挨拶をしてきた。
「それは、申し訳ありません。
失礼な事と、十分承知しております。しかし、しかし垂目殿に、至急お目通り願いたいのです」
大郎は焦る気持ちを隠し、できるだけ冷静に話した。
しかし、大郎の鬼気迫る瞳は隠しきれなかった。鎌足は有無を言わせない程の大郎の視線に、唾を飲み込んだ。二人の間に沈黙が流れた。
「なりません」
「なぜに? 頼む。会わせて下さい」
大郎は深々と頭をさげた。
「無理だと申しあげているのです」
しばらく押し問答が続いた。
白虎の慌ただしく動き始めた。片時もじっとしていなかった。
大郎は、その時が迫っていると確信した。
(ばれてもいい!)
大郎は吹っ切った。
「はっきり言おう。垂目は、命の危険にさらされているのであろう」
大郎は礼儀など無視し、大きな声をあげた。
鎌足の驚いた表情を見て、大郎はさらに強く確信を得た。
「頼む。垂目に、垂目に会わせてくれ。頼む。
ここで会えなかったら、俺は、一生後悔する」
大郎はなりふり構わず、その場に土下座をした。
「……。 わかりました。では、急いでください」
とうとう鎌足が折れた。
「感謝する」
大郎はガバッと立ち上がり、屋敷に駆け込んだ。鎌足は大郎を追いかけ、それから部屋を案内した。
廊下を歩くと、垂目の苦しむ声がもれてきた。垂目がどの部屋にいるのか、すぐにわかるほどだった。
大郎は勢いよく戸を開けた。
部屋には布団の中に横たわる垂目。垂目の脇に座っている、年をとった薬師がいるだけだった。
薬師は突然現れた大郎に驚いていた。
「急に、すみません。垂目殿の友人です」
薬師は垂目の知り合いだとわかり、ホッとした顔をした。しかし、すぐに厳しい表情になり、絶望的だと言わんばかりに、首をゆっくりと左右に振った。
大郎は垂目に駆け寄った。
顔は真っ青で、唇は紫色になっている。息を吸い込むたび、喉が詰まっている音がする。
垂目は苦しさのあまり、自分の手で、自分の首を掻きむしった。首と胸には何本もひっかき傷がみられ、血が流れていた。
空気を求めて、必死に息を吸い込んでいる。
玄武は主の脇で、左右に揺れていた。いつもよりも主人に近寄っていた。まるで離れたくないと言っている様だった。
「垂目! 垂目、俺だ。大郎だ!」
大郎は垂目に駆け寄り、垂目の体を抱きしめた。垂目は返事をすることもできなかった。しかし、うっすらと開けた目から、涙がこぼれ落ちてきた。
「わかるか。垂目」
大郎は垂目の頬に手を当てた。垂目は大郎の腕にしがみついた。大郎は大きくうなずいた。
「垂目。ゲンはお前を、恨んではいない!
お前がゲンを愛おしいと思うように、ゲンもお前を思っている。
悲しむな。恨むな。
ゲンとの楽しかった事だけを、思ってくれ!」
大郎の声は、瀕死の垂目に届いた。
垂目はゆっくりと、少しだけ目を開け、玄武に視線を向けた。その瞳は穏やかだった。
玄武の目が、開いた。垂目は玄武と目が合った。垂目は幸せそうに微笑んだ。
大郎は垂目を強く抱きしめた。全身が震えた。顔を垂目の肩口にうずめ、声をあげずに泣いた。
突然、垂目の力が抜けた。首が後ろに倒れ、腕も足も力なく垂れた。
大郎は抱きしめていた垂目の体を、布団に横たえた。
垂目は半分だけ目を開け、口をパクパクとさせていた。
垂目の顔からは、精気が失われていた。
それからほどなく、玄武が黒い光を発した。光は耳成山に向かって真っすぐに伸びた。
玄武は黒い光の道に乗り、ゆっくりと移動した。
垂目が産まれた時、耳成山からやって来た時と同じく、玄武は静かに動いた。
しかし、やって来たと違い、亀に蛇はしっかりと絡み着いている。本来の姿で、耳成山に戻って行くことができたのだ。
白虎は玄武を追いかけるように、咆哮した。
大郎は玄武が見えなくなるまで、その姿を見送った。
中臣垂目、死す。まだ、22歳だった。
「垂目」
大郎は横たわる垂目に、優しく声をかけた。
そっと垂目の顔に触れ、頬に残る涙をぬぐった。まだ、垂目の温もりが残っていた。
薬師が垂目に近寄った。入り口に立ち尽くしていた鎌足も、垂目の脇に座った。
薬師は垂目の顔に、耳を近づけた。そして手首に触れ、脈をとった。鎌足の顔を見ると、目を伏せ、頭をさげた。
大郎は頭をさげて立ち上がった。
大郎が廊下に出ると、赤ん坊を抱いた若い女性とすれ違った。
慌てて部屋に入り、垂目の遺体に駆け寄った。
「垂目様」
女性は泣き崩れた。
大郎は初めて垂目の妻と、子供を見た。赤ん坊はまだ何もわからない。垂目によく似た大きな丸い目を、ぱっちりと開け、きゃっきゃと、声をあげていた。
大郎は廊下から、この光景を見ていた。
大郎は肩を叩かれ、振り返った。垂目を看取った薬師が立っていた。
「ありがとうございました」
年老いた薬師は、そう言って、大郎に向かって頭をさげた。
「いえ。とんでもありません。
垂目の最後を看取っていただき、本当にありがとうございました」
大郎は慌てて、頭をさげた。
「いえ、私は何もできませんでした。
しかし、あなた様が来て下さったおかげで、垂目様は穏やかに旅立つことができたのです。
見てください。あのお顔を」
大郎は廊下から、垂目の顔を見た。
断末魔の苦悶は、その顔から消えていた。いつもの、穏やかに笑う、垂目の顔だった。
大郎の目から、再び涙がこぼれ落ちた。
薬師は大郎の肩に手をかけた。
「あなたの言葉が、垂目様を救ったのです。
ありがとうございました」
(垂目は穏やかに逝けたのか。
四神は主の最後の気持ちを引き継ぐ。垂目が後悔の気持ちを抱えたまま逝ってしまえば、ゲンがその後悔を引き継ぐ。そしてそれを、次の主が引き継ぐのだ。
垂目のためにも、玄武のためにも、次の主のためにも、それは避けたかった)
大郎は涙を流しながら、薬師に話し始めた。
「わ、私は、垂目のためだけを思っていたのでは、ないのです。
四……、いえ、垂目の大切な人、その先の人など。他の人の事も考えていました。
垂目は最期だったというのに、俺は、俺は」
最後は、言葉にならなかった。
「大丈夫です。垂目様はあなたに感謝こそすれ、恨むなど、絶対にありません。
垂目様のお顔は菩薩様の様に、穏やかです。恨みなど何も持たずに旅立って逝かれたと、私は思います」
大郎は人目もはばからず、号泣した。
薬師は大郎の後ろで立っている鎌足に気が付いた。ゆっくりと歩み寄り、鎌足に頭をさげた。一言二言、言葉を交わした。
薬師は大郎にも頭をさげ、その場を後にした。
大郎は涙を拭ってから、鎌足に歩み寄った。
「本来であれば、家族で過ごすべき時間を、申し訳なかった」
大郎は深々と頭をさげた。
「いえ。どうか、お気になさらず」
鎌足は、垂目の死を悲しんでいる様には見えなかった。鎌足は大郎の事を、穴が開くほどに執拗に見つめた。
(しきりに叫んでいた、“ゲン”とはなんだ。人の名か。
それになぜ、垂目が危篤と知っていた。
蘇我大郎鞍作。やはり、垂目と同じく、なにか不思議な力を持っているに違いない。
こやつ、きっと、邪魔になる。私の叶えるべき望みの前には、邪魔な存在だ)
大郎は久しぶりに加夜の元を訪れた。
立派な青年に成長した大郎と、いつまでも変わらない、少女の様な加夜。
しかし二人の間に流れる空気は、変わる事はなかった。
大郎は触れる事ができない加夜に、そっと手をかざした。それだけで、加夜を感じる事ができた。
「加夜」
大郎は飛鳥川を見つめながら話した。
「垂目が逝ってしまったのだ。
俺よりも後に生まれたのに、俺より先に死んでしまった。俺は玄武がやって来るのも、帰って行くのも見てしまった。
俺は加夜に見守られて死にたい。それで幸せだと思っていた。
しかし、加夜は、加夜はどうなんだ。
残された者の悲しみを、俺は嫌という程味わった。加夜はここで永遠の時を過ごしている。何度も人の死を見てきたのだろう。
何度も悲しい思いをしたのだろう。
加夜は俺が死んだら、また悲しい思いをしなければならないだろう。
それが、俺は辛い。
俺が死んだら、加夜は独りになってしまう」
加夜の顔に悲哀がにじんだ。
「加夜。すまない。そんな顔をさせるつもりはなかった。いつものように、笑ってくれ」
加夜は大郎を見つめ、そしてそっと、微笑んだ。




