岡本宮の火災
大郎は時間ができると、飛鳥の歴代の宮を見て回っていた。
飛鳥の守りを固めるためにはどうすればよいか。宮の建物の造りを学んでいた。
この日、大郎は磐余の地を訪れた。
厩戸の父親である用明の大王がこの地で政をしたのは、わずか2年であった。その当時の面影はなく、すっかりさびれていた。
梅雨の季節であるが、今年は雨が少ない。ここ数年飛鳥は雨不足に悩まされていた。小さな池などは、すっかり干上がっていた。
今日も暑さが厳しい。夏の様な陽射しが大郎に照りつける。
大郎は暑さをしのぐため、宮の近くの林に入った。林に入るとすぐに、小さな沼を見つけた。水量が少なくなっている。中心に水が少し残っているだけである。もとは水があったと思われる沼底には、ひび割れができていた。
周りに生えている木々も、枯れてしまいそうだった。
大郎はゆっくりと沼に近づいた。
大郎の頬に水滴が当たった。
「おお、恵みの雨か」
大郎は空を見上げた。しかし空には雲ひとつない。
「おかしいな」
大郎は手のひらを上に向け、雨を受け取ろうとした。しかし、雨粒は一粒も落ちてはこなかった。
大郎は怪訝そうに周囲を見渡した。
すると木の陰から、玄武の頭が見えてきた。
「垂目!」
姿は見えないが、垂目はそこにいる。大郎は垂目の元に駆け出した。
沼のほとりには、ぐったりと下を向いて座っている垂目がいた。
「垂目!」
大郎は大きな声で呼びかけた。垂目はビクッと動いて、顔を上げた。
「きらら!」
やはり、大きな白虎が先に見えたらしい。
大郎は垂目の隣に腰をおろした。
垂目は冷や汗をかき、息を切らせている。
「垂目。さっきの雨は、ゲンの力だな」
「す、すみません……」
垂目は一呼吸おいた。
「すみません。ゲンの力を、人に、見られてはいけないと言われていたのに。
今も、見つかったのが大郎様だったからよかったものの、不注意でした」
「ここで、なぜ水を降らせたのだ?」
垂目は干からびた沼に目を向けた。視線の先には亀が1匹、のそのそと歩いていた。
「亀が干からびそうだったんです。それが、かわいそうで。
ゲンも亀ですし」
垂目は玄武に視線を戻した。大郎の顔がほころんだ。
「そうだな。水を与えられて、あの亀も嬉しいだろう。
しかし、それでお前が苦しくなっていたら、なんにもならない」
そう言って、大郎は垂目の頭をポンポンと優しくたたいた。
その後、大丈夫という垂目を、大郎は中臣の家まで送った。
家が近づくと、垂目は急に立ち止まった。
「大郎様。ここまで送っていただき、ありがとうございました。
あの、兄に見つかると面倒ですので、この辺で」
垂目はぺこっと頭をさげた。
「そうだな。
では、また、近いうちに会おう」
大郎がそう言って去ろうとした。
「あ、あの」
大郎は垂目に呼び止められた。大郎は「なんだ?」と言って、垂目の目の高さまで腰をかがめた。
「あの、私、結婚が決まりまして……」
「け、結婚?」
「はいっ。わ、私も16歳になりましたし」
「おお、そうか。お前も、もう、16か……。 俺の中ではいつまでも、子供の気でいた。いや、申し訳ない」
「とんでもありません。
あの、それで、私は磐余のずっと先に家を建てる事になりまして。今日は、その視察の帰りだったのです」
「なんと、遠くに行ってしまうのだな」
「はい。兄の勧めなのです。大郎様とも、きららとも、なかなか会えなくなります」
大郎は視線を下に向け、考え込んだ。
「……。 垂目。
以前、話した事があっだろう。丁未の戦の事を」
「はい。玄武と朱雀、青龍が関わったという」
「そうだ。その時、河内では四神は小さくなっていた」
「そうです。今日、ゲンは小さくなったのです。
でも、いつのまにか元の大きさになっていたので、気のせいかと思ったのですが。そういえば大郎様に聞いた事がありました」
「やはりな。
四神は小さくなるだけではない。厩戸様も、守屋様も、玄武を連れていた勝海様も、皆、力を使う時にも体力を消耗しておられた」
「大郎様は、戦を見て来たようなことをおっしゃるのですね」
大郎はしまったとばかりに、息を飲み、そして白虎を見た。
『全く。いくつになっても、どこか抜けている』
白虎はため息をついた。
「いや。厩戸様から聞いたのだ」
「そうですか。
私は厩戸様を知りません。大郎が羨ましいです。今も厩戸様は伝説の方ですから」
「そうだな。厩戸様から色々教えていただけた俺は、運がよかった。
しかし、前も言ったが、厩戸様はお前が産まれる時、俺と一緒に耳成山に出向いてくださったのだ。そして、玄武の主の誕生を、喜んでおられた」
「そうなのですね。うれしいです」
垂目は微笑んだ。
「だから、垂目。異国の地では、ゲンの力を使わない方が良い。
もともと四神は飛鳥を守るために降臨しているのだ。それを忘れるな」
「はい」
垂目が大きくうなずいた。大郎もうなずき、垂目の頭に手をかけようとした。
「いや。もう、子供ではなかったな」
大郎は頭をなでようとした手を一度見つめ、それから垂目の肩をポンポンと叩いた。
大郎と垂目が別れて数日後。夜更けの事だった。
岡本宮で火災が発生した。
宮が燃えている。蘇我の邸宅にも知らせが来た。大郎と毛人は馬で駆け付けた。
大郎達が宮に着いた時には、すでに炎は建物を覆いつくしていた。もう、手の施しようはなかった。
雨は1月以上降っていない。建物も周りの木も草も、全て乾燥しきっていた。火の回りは速かった。瞬時に燃え広がったのだった。
大郎と毛人は唖然として炎を見ていた。
「どうにも、ならんな」
毛人は小さな声でつぶやいた。
その時、突然に大雨が降ってきた。
「おおお」
周囲から歓声が聞こえて来た。
「もっと降れぇ。火を消してくれ」
などと叫ぶ声も聞こえてくる。
「いや。これくらいの雨では、火を消す助けにもならんだろう」
毛人は顔を左右に振った。
「中に、人はいないのか? 大王は?」
毛人は外にいた役人達に聞いて回った。
宮であるこの建物には、大王はじめ、皇后や数人の皇子、皇女が住んでいるのだ。
「はい。皆さま、外に逃げだせております」
「どこに、おられる? 案内しろ。
大郎。私は大王の所に行ってくる」
そう言って、毛人はその場を後にした。
大郎は消火活動を指揮した。
しかし、川までは距離があり、暗闇の中、水を運ぶことはままならない。
火の勢いが衰える事はなかった。
大郎は雨が降ってくる空を見上げた。
「月が、星が見えるぞ。
この大雨で、雲がないわけがない」
大郎は白虎を見た。
「まさか、玄武か?」
大郎が思い当たった途端、雨はピタッとやんだ。
大郎は周囲を見渡した。
岡本宮のすぐ後ろに飛鳥丘がある。小高い丘で、木がポツンポツンと生えているだけだ。
その丘の中ほどに、ポツンとした小さな光が見えた。松明の炎の様だった。
白虎は飛鳥丘をじっと見つめている。
大郎も気を集中させた。
「四神だ。四神の気配を感じる」
大郎は一度、宮に目を向けた。火の勢いは弱まってきていた。火事はすべてを燃やし尽くし、炎の元となるものすらなくなってきたのだろう。
もうすぐ鎮火すると大郎は思った。パッと踵を返して、一目散に飛鳥丘をめざした。
夜の飛鳥丘には、人が3人。そして四神が2匹。
中臣垂目と玄武。物部雄君と朱雀。そして中臣鎌足がいた。
鎌足は松明を持ち、周囲を照らしていた。
その足元に垂目が座り込んでいた。ゼイゼイという垂目の呼吸音が聞こえてくる。
雄君は立ってはいたが、大きく肩が上下している。手の甲で汗をしきりにぬぐっている。
大郎は思わず立ち止まり、その光景を見つめた。
(垂目も、雄君も四神の力を使ったのか)
大郎は白虎の目を見た。白虎はうなずいた。
(そうか。雄君が岡本宮を朱雀の炎で燃やし、垂目がそれを消そうとしたのか。
では、鎌足は。鎌足は他に何を見た。
しかし、なぜ、なぜこの3人が、ここに?)
「…… を、抱いているのだ。この恨みの気持ちを、消し去りたい。そのためには、その根源を滅ぼすしかない」
雄君の声だった。
「それが大王様なのですか?」
鎌足が尋ねる。
「ははは。あんな大王。大王ではないだろう。
温泉ばかり行っていて、なんの役にも立たないではないか。奴が焼かれようが、水浸しになろうが、俺には関係ない」
雄君の馬鹿にしたような笑い。
「では、あなたが宮を焼いたのではないのですね」
「俺が? 疑うのなら、俺を調べるがいい。俺は火起こしの道具など持っていない。
それに、宮が燃えた時、俺はここにいたのだ。それはそこにいる、目のでかいお前の弟が証明してくれる」
そう言って、雄君は垂目を指さした。
(やはり、雄君様が宮に火を付けたのだ)
大郎は確信した。
「それは、申し訳ありません」
鎌足は口の端で笑いながら、皮肉を込めて謝った。
鎌足も雄君の説明を、受け入れてはいないのだ。
「……。では、誰を恨んでいるのですか」
「お前に聞かせる筋合いはない」
「いえ。私は、きっと雄君様のお役に立てます」
「ふんっ」
雄君は鼻を鳴らしただけだった。しばらく、しんと静まりかえった。
雄君は大きなため息をついた。そして、
「上宮家」
と、短く言った。
「!」
垂目はぴくっと反応し、ゆっくりと起き上がった。
「おそらくな。俺とて、それが根源なのか、はっきりはしないのだが」
「丁未の戦で、物部本家を滅ぼされた恨みですか?」
「そんな、簡単なものではない。しかし力のないお前にはわからない事だ。
この小僧と、そこに隠れている蘇我ならまだしも。お前には決して理解できぬ。
お前に話した俺が愚かだった」
鎌足と垂目は、雄君が指さした先を見た。
「きらら」
垂目が思わず口にしてしまった。
大郎は全く見えないのだが、白虎だけは見えている。
(きらら? なんの事だ)
垂目の口走った言葉を、鎌足は敏感に聞き取っていた、
『まぁ、隠れていたわけではないのだがな』
白虎は大郎の代わりに言い訳をしたが、誰にも聞こえはしなかった。
大郎はゆっくりと進み出た。
鎌足はニヤッと笑みを浮かべた。
「なぜ、このような所に」
「それは、お互い様であろう」
二人は視線を逸らさなかった。
雄君は音もなく、歩き始めた。
「待ってください」
大郎の引き留めた言葉に、雄君は反応すらしなかった。
それに続いて、鎌足が雄君に向かって叫んだ。
「私は、あなたの味方だ。
そして、きっとあなたの役に立てる。覚えておいて下さい!」
雄君は振り返って鎌足を一瞥した。しかし、何も言わなかった。すぐに顔を戻し、再び歩き出した。
そして朱雀の光で、まっすぐに帰って行った。
大郎は振り返り、垂目と目を合わせた。
垂目の瞳は何かに怯えているように見えた。
逆に鎌足は勝ち誇った様な顔をしている。
(まさか、垂目……)
垂目が激しく咳き込んだ。ヒューヒューと気管支で音がする。垂目の肩は大きく上下した。
鎌足はその姿を横目で見た。そして大郎に向き直った。
「蘇我大郎様。垂目の具合が悪そうですので、私たちはこの辺で帰ります。そうそう、いつも垂目がお世話になっているようで。ご迷惑をかけて申し訳ありません」
そう言うと垂目をつついた。
「いや。迷惑などと、とんでもない。
垂目。俺は馬で来ている。具合が悪いなら送るが。
そうだ。そのまま、我が家で休んだらどうだ」
「いえ。そんなご迷惑はかけられません。
第一、岡本宮が焼けたのです。大臣のご長男がこの場を離れるわけにはいかないでしょう。
我々は、邪魔にならないよう、失礼します」
鎌足はそう言って、乱暴に垂目の腕を引っ張った。垂目には逆らう力も残っていない様だった。鎌足に引きずられるようにして歩いて行った。
すれ違いざまに垂目はちらっと大郎を見た。その目に精気は全く見られなかった。
灯りを持った鎌足がいなくなると、全くの暗闇に包まれた。垂目の苦しそうな咳の音が、徐々に遠くなっていった。
「きらら。俺は垂目を助けられなかった。あんなに、助けを求めていたというのに」
大郎は無力感と罪悪感にさいなまれた。
力なくその場に立っていた。
そしてヨロヨロと歩き、岡本宮を見下ろした。火はほぼ鎮火していた。
後日、垂目は飛鳥を去った。結婚が早まり、家が完成する前にもう移住したという。
鎌足の策略と思われた。




