飛鳥川の氾濫
毛人に結婚の話をされた、大郎。
反感する気持ちと共に、加夜への熱い思いがあふれてきた。大郎は加夜への熱い思いを冷ます様に、庭で雨にうたれ続けた。
頭が十分に冷えた。大郎は家の中に入ろうとした。そして白虎に目を向けた時、白虎のいつもと違う動作に気が付いた。
白虎は天を睨んでいた。厳しい顔。今まで見たこともないような表情だった。
「きらら。どうしたんだ。
四神を迎えるのか? まさか青龍が来るのか?」
そういって、白虎の姿をじっと見つめた。
「いや、違う。あの時とは違う」
垂目が産まれる時、厩戸が逝った時の仕草とは、また別だった。
「きららのこんな怖い顔は初めて見る。
四神の降臨を歓迎するでもなく、見送りするような悲しい顔でもない。
一体、どうしたんだ。空になにかあるのか?」
大郎は白虎と共に、空を見上げた。
空を覆い尽くす、分厚い灰色の雲。雲からは、滝のように激しく雨が降ってくる。大郎はこれほどに激しい雨を経験したことはなかった。
「大郎。水だ。水があふれそうだと、知らせがきた!」
毛人が叫んだ。
「飛鳥川が氾濫しそうだ」
大郎は飛鳥川という言葉に、激しく反応した。
「加夜!」
飛鳥川のほとりに一人でいる加夜が、とっさに思い浮かんだ。
大郎は慌てて駆け出した。
「待て! ここは高台だ。ここまでは水は来ない。
動かない方がいい。どこに行く!」
毛人の静止も聞かず、大郎は飛鳥川に向かった。
「きらら。もしかしたら、お前はこのことを知らせてくれたのか。
飛鳥の危機をお前は察知できるのか」
家の脇をすぐに飛鳥川が流れている。
大郎は加夜奈留美命神社のある、川上に向かって走った。
飛鳥川の清らかで穏やかな流れは、茶色い濁流に。さらさらと響くせせらぎは、轟音へと変わっていた。
川の水は河原を超えそうだった。
「このままでは、川下の方は決壊する」
大郎の脳裏に、溺れる人々の姿が浮かんだ。
「加夜……。
加夜のいる所は坂の上。高い所にある。
加夜は神だ。きっと、大丈夫。きっと」
大郎は足を止め、一度、加夜奈留美命神社の方を見つめた。
そして踵を返すと、下流に向かって走り出した。
道や田畑はすでに水浸しになっている。大郎のくるぶしまで水が迫って来た。
「だめだ。やっぱり、川下までは行けそうにない」
大郎は小高い丘に避難した。そこまでは水は襲っては来ないだろうと思われた。数人も逃げてきていた。
その時、水の中で立ち尽くしている女性の姿を見つけた。小さい子供を抱いている。
「早く。こっちに来るんだ。流されるぞ」
激しい雨の音に、大郎の声はかき消される。
大郎は躊躇することなく、水の中に入って行った。その場にいた者達は、大郎を止めたが、大郎はその手を払った。
激しい水圧に耐えながら、必死で前に進んだ。
母親が大郎に気が付き、手を伸ばしてくる。大郎も手を伸ばし、その手をつかんだ。そして、子供を受け取り抱きかかえた。
その瞬間、鉄砲水が襲って来た。
「飛鳥川が決壊したぞぉ」
あっという間に大郎の腰まで増水した。激しい水圧が大郎を襲う。それでも子供を抱え、顔が水に浸からない様にして抱きかかえた。女は大郎にしがみついていた。
『大郎! 我を見ろ。そして我に命ずるのだ』
今の大郎には聞こえるはずのない、白虎の叫び。しかし、大郎は反射的に白虎に瞳を見据えた。
「きらら。水を、水をせき止めろ!」
大郎が叫んだ。
大郎の目と白虎の目が、白く光った。
大地が揺れた。
大郎の前の地面がせりあがって来た。川の流れをせき止める、壁が出来上がった。
水の勢いが一気に弱まった。
大郎は周囲を見る余裕ができた。
「木があるっ!」
大郎はとっさに手を伸ばした。
大郎の手に枝が触れ、それをしっかとつかんだ。女も必死に木につかまった。
大郎は木の枝に子供を乗せた。
その瞬間、大郎に大量の水しぶきがかかった。大郎は思わず目を閉じ、集中が途切れた。
白虎の作った土の壁は水に破壊された。
『四神の力を使えば、主にその代償がくる』
大郎は体力を奪われ、水の圧力に逆らう事はできなかった。
あっという間に、大郎は水流に飲みこまれた
大郎は体を動かすこともできず、ただ流された。
意識が薄れる中で、加夜の顔が浮かんだ。
その時、キラキラと水が煌めいた。
その水は大郎を包み込んだ。
母体の羊水に浮かんでいるような安心感があった。
(加夜……)
大郎は目を閉じ、加夜の温もりを感じていた。
水は突然、流れを変えた。
不自然に横に流れる水は、大郎を岸まで運んだ。
大郎は必死に体を動かし、水際までやって来た。
小高くなっているところまで這い上がり、そこで倒れ込んだ。
大郎は動けなかった。大の字になって、空を見上げた。
倒れている大郎の顔にも、雨は容赦なく叩きつける。
何度か雨にむせ返ったが、顔を横にすることすら億劫だった。
大郎の意識が途切れた。はっと気がついた時には、空はうっすらと明るくなっていた。厚い雨雲が風に流れてゆく。雨粒が小さくなった。
大郎に体を動かす気力も戻っていた。横にいる白虎に目を向けた。
白虎は穏やかな顔で大郎を見ていた。
「もう。大丈夫か」
大郎はほんの小さな声で白虎に話しかけた。白虎は穏やかな顔で大郎の頬をなめた。
「そうだ」
大郎は体を起こした。その瞬間に眩暈を感じた。手で体を支えた。
「加夜。加夜は大丈夫だろうか。
行かなければ」
大郎はふらつきながらも立ち上がり、加夜の元へと歩き始めた。
道はぬかるんでいた。歩くだけで体力を奪われた。
まだ川の様に水が流れている道もあった。気を抜くと流されてしまいそうだった。
それでも大郎は歩いた。
息を切らせながら、重い足を動かし、必死に加夜の元に向かった。
いつもは軽やかに登っている坂道も、這うようにして登った。
ようやく加夜奈留美命神社に辿り着いた。
神社は雨に濡れただけで、変わりはなかった。
大郎を待っていた加夜は、微笑みながら大郎の元に歩み寄って来た。
加夜の顔を見た大郎は、その場に倒れ込んだ。
大郎は死んだように眠った。疲労が限界を超えていた。
白虎と加夜は大郎の脇で、ずっと寝顔を見守った。
大郎が目を覚ました時、目の前に加夜の顔があった。
「加夜。俺を助けてくれただろう」
大郎は加夜に手を伸ばした。加夜の頬のほんの手前で手を止め、そこでなでる仕草をした。
加夜は微笑むだけだった。大郎もその笑顔につられ、静かにほほ笑んだ。
時間をかけて、大郎は起き上がった。あぐらをかいて座ると、その隣に加夜が腰掛けた。
「加夜。じい様が死んだのだ」
大郎はぼそっと語り始めた。
「それなのに、みんな、次の大臣の事とか、大王の事とか、そんな話ばかりしているんだ。
俺がじい様の事、考えて泣いていると、いつまでも子供だと言われた。
大人だって、人が亡くなれば悲しいに決まっている。でも、その気持ちを隠すのが大人というのだろうか。
そのうえ、俺に嫁を取れというのだ。そして皇子に嫁がせる子供を作れと言われた。
俺は愛してもいない女と結婚しなければならない。蘇我の家のために」
大郎はいつものように、取り留めない話をしていた。
加夜は穏やかに大郎を見つめていた。
「そうか。俺は愛する人とは結婚できないのだ。なぜなら、俺が愛するのは、加夜だけなのだから。
ならば、誰と結婚しても同じだ。しなければならない結婚ならば」
投げやりに言った。
大郎は加夜に手を伸ばし、背中に手を回した。大郎の作った腕の輪の中に、加夜がすっぽりと入った。加夜の顔がそばにある。抱きしめられない加夜を、腕の輪の中に閉じ込めた。
決して触れる事はできないと思うにつれ、愛おしさがつのった。
飛鳥川からの帰り道、大郎は桃原墓と呼ばれる、馬子の墓を訪れた。馬子が生前から準備していた墓である。巨大な墓で、皇族以外の人物のものとしては桁外れの大きさだった。
大郎は自分の頭をはるかに超える墓を見上げた。
「なぁ、きらら。死んだ人が眠るのに、こんな大きな墓が必要なのかな。これを作るために、大勢の奴婢がかりだされたって聞いた。それに、工事の時に大勢の人が亡くなったと聞く」
白虎は大郎の顔を見上げた。
『下々の事もしっかり考えている。大郎はその辺の傲慢な豪族たちとは違うな』
大郎と白虎の目が合った。しかし大郎はすぐに墓に視線を移した。
「こんな事言っているけど。俺、じい様の事、好きだったんだよ。本当だ」
白虎に言い訳をした。
「大郎殿!」
悲鳴に近い声で名を呼ばれた。大郎は驚いて振り返った。
「おお、古人」
古人皇子。父、毛人の異母妹、法堤郎女の子で、大郎のいとこにあたる。大郎より5歳年下である。ひょろっとして背が高い。顔は青白く病気かと思われることがよくあった。
「本当に久しぶりだな。随分と背が伸びたなぁ」
大郎は無邪気に笑いかけた。
「そんな事より、生きておいでだったのですね」
「何っ?」
思いもかけない言葉に、今度は大郎が悲鳴に近い声をあげた。
「大郎殿は、3日前の洪水に流されて、行方知れずと聞いています。今日も捜索が行われています」
(そうだった。加夜の所では、時間の流れが違うのだった)
慌てて顔を白虎に向けた。それから古人に向き直って礼を言った。
「おかげさまで、この通り無事だ。
教えてくれてありがとう。さっそく皆の所に帰るとするよ」
家に向かおうと振り返ったその時、はたと気が付いたように、古人に向き直った。
「そうだ。古人、お前も、じい様に会いに来てくれたのか」
「えっ? あ、はい」
古人はこくっとうなずいた。古人も馬子の孫である。
「それはうれしいな。俺、じい様が亡くなったのに、誰も悲しんでくれないのかと、寂しく思っていたんだ」
大郎は古人に、にこっと笑いかけた。
古人は戸惑っていた。それは表情にしっかりと現れていた。
「なんだ。そんな顔をして。
もしかして、お前、まだ法堤の叔母上に、蘇我本家とは付き合うなとか言われているのか」
古人は大郎から目を逸らせた。
「そうなのだな。叔母上は俺たちの事を、鬼のように言っているらしいな。
しかし母や父の仲たがいなんて、俺達には関係ないと思わないか」
大郎の屈託ない笑顔に、古人の表情も和らいだ。
「はい。確かに。
正直に言うと、実は、母上に蘇我本家の人間はまともではないのだから、付き合ってはいけないと言われていました。
会うこともなかったですし。大郎殿と話すこともなくって。正直に申し上げれば、怖くて避けていました。
あっ、さっきは驚きすぎて、思わず声をかけてしまいましたが」
古人は笑った。
「あ、でも、大郎殿がこんなに優しい方とは知りませんでした」
「叔母上は俺たちの事を、鬼とでも言っているのか。
まぁ、いい。とにかく、こうやって誤解も取れたのだ。これからは友としても付き合っていこうではないか。
そうだ、俺の事は大郎と呼んでくれ。そして、遠慮なく、なんでも話をしよう」
古人は顔を紅潮させてうなずいた。
「はい。
では、あの。早速ですけど、大郎ど……。 いえ、あの大郎の独り言は、本当に大きいのですね。
噂には聞いていましたが、びっくりしました。誰かに話しているかと思いましたよ」
大郎の顔が、パッと真顔に戻った。
(そんな噂がたっているのか)
大郎は複雑な気持ちで白虎を見つめた。
大郎は走って自宅へ帰った。皆、喜ぶ前に驚いた。
知らせを聞きつけ、毛人は大急ぎで帰宅してきた。
毛人の目の下にはくっきりとしたクマができ、頬はこけていた。
大郎の姿を確認すると、いきなり頭をたたいてきた。
「お前は、自分が何者かわかっているのか。蘇我の家の嫡男。跡取りなのだぞ。
部民を助けようとしてお前が流されるなど、ありえないであろう。こんな事でお前が命を落としたらどうするのだ。
いいか! 今後、こんなバカな真似はするでない。わかったか!」
馬子に引けを取らない雷だった。
(人の命が流されそうになったのだ。助けられるのであれば、助けるのが人として当たり前の事だろう)
大郎は反論は口にしなかったが、毛人の言葉に返事ができなかった。
しかし毛人に抱き寄せられ、大郎の肩で咽び泣く父の声を聞いた時、心から申し訳なく思った。
その後、大郎は捜索をしてくれた人の元を訪れ、礼を言って回った。
蘇我大郎鞍作の奇跡の生還と評判が立った。




