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飛鳥の守護神   作者: 葉月みこと
第四章
22/41

飛鳥川の氾濫

 毛人に結婚の話をされた、大郎。

 反感する気持ちと共に、加夜への熱い思いがあふれてきた。大郎は加夜への熱い思いを冷ます様に、庭で雨にうたれ続けた。


 頭が十分に冷えた。大郎は家の中に入ろうとした。そして白虎に目を向けた時、白虎のいつもと違う動作に気が付いた。

 白虎は天を睨んでいた。厳しい顔。今まで見たこともないような表情だった。

「きらら。どうしたんだ。

 四神を迎えるのか? まさか青龍が来るのか?」

そういって、白虎の姿をじっと見つめた。

「いや、違う。あの時とは違う」

垂目が産まれる時、厩戸が逝った時の仕草とは、また別だった。

「きららのこんな怖い顔は初めて見る。

 四神の降臨を歓迎するでもなく、見送りするような悲しい顔でもない。

 一体、どうしたんだ。空になにかあるのか?」

大郎は白虎と共に、空を見上げた。

 空を覆い尽くす、分厚い灰色の雲。雲からは、滝のように激しく雨が降ってくる。大郎はこれほどに激しい雨を経験したことはなかった。


「大郎。水だ。水があふれそうだと、知らせがきた!」

毛人が叫んだ。

「飛鳥川が氾濫しそうだ」

大郎は飛鳥川という言葉に、激しく反応した。

「加夜!」

飛鳥川のほとりに一人でいる加夜が、とっさに思い浮かんだ。


 大郎は慌てて駆け出した。

「待て! ここは高台だ。ここまでは水は来ない。

 動かない方がいい。どこに行く!」

毛人の静止も聞かず、大郎は飛鳥川に向かった。

「きらら。もしかしたら、お前はこのことを知らせてくれたのか。

 飛鳥の危機をお前は察知できるのか」


 家の脇をすぐに飛鳥川が流れている。

 大郎は加夜奈留美命神社のある、川上に向かって走った。

 飛鳥川の清らかで穏やかな流れは、茶色い濁流に。さらさらと響くせせらぎは、轟音へと変わっていた。

 川の水は河原を超えそうだった。

「このままでは、川下の方は決壊する」

大郎の脳裏に、溺れる人々の姿が浮かんだ。

「加夜……。

 加夜のいる所は坂の上。高い所にある。

 加夜は神だ。きっと、大丈夫。きっと」

大郎は足を止め、一度、加夜奈留美命神社の方を見つめた。

 そして踵を返すと、下流に向かって走り出した。


 道や田畑はすでに水浸しになっている。大郎のくるぶしまで水が迫って来た。

「だめだ。やっぱり、川下までは行けそうにない」

大郎は小高い丘に避難した。そこまでは水は襲っては来ないだろうと思われた。数人も逃げてきていた。


 その時、水の中で立ち尽くしている女性の姿を見つけた。小さい子供を抱いている。

「早く。こっちに来るんだ。流されるぞ」

激しい雨の音に、大郎の声はかき消される。

 大郎は躊躇することなく、水の中に入って行った。その場にいた者達は、大郎を止めたが、大郎はその手を払った。

 激しい水圧に耐えながら、必死で前に進んだ。

 母親が大郎に気が付き、手を伸ばしてくる。大郎も手を伸ばし、その手をつかんだ。そして、子供を受け取り抱きかかえた。

 その瞬間、鉄砲水が襲って来た。

「飛鳥川が決壊したぞぉ」


 あっという間に大郎の腰まで増水した。激しい水圧が大郎を襲う。それでも子供を抱え、顔が水に浸からない様にして抱きかかえた。女は大郎にしがみついていた。


『大郎! 我を見ろ。そして我に命ずるのだ』


 今の大郎には聞こえるはずのない、白虎の叫び。しかし、大郎は反射的に白虎に瞳を見据えた。

「きらら。水を、水をせき止めろ!」

大郎が叫んだ。

 大郎の目と白虎の目が、白く光った。


 大地が揺れた。

 大郎の前の地面がせりあがって来た。川の流れをせき止める、壁が出来上がった。

 水の勢いが一気に弱まった。

 大郎は周囲を見る余裕ができた。

「木があるっ!」

大郎はとっさに手を伸ばした。

 大郎の手に枝が触れ、それをしっかとつかんだ。女も必死に木につかまった。

 大郎は木の枝に子供を乗せた。

 その瞬間、大郎に大量の水しぶきがかかった。大郎は思わず目を閉じ、集中が途切れた。

 白虎の作った土の壁は水に破壊された。


『四神の力を使えば、主にその代償がくる』

大郎は体力を奪われ、水の圧力に逆らう事はできなかった。

 あっという間に、大郎は水流に飲みこまれた


 大郎は体を動かすこともできず、ただ流された。

 意識が薄れる中で、加夜の顔が浮かんだ。


 その時、キラキラと水が煌めいた。

 その水は大郎を包み込んだ。

 母体の羊水に浮かんでいるような安心感があった。

(加夜……)

大郎は目を閉じ、加夜の温もりを感じていた。


 水は突然、流れを変えた。

 不自然に横に流れる水は、大郎を岸まで運んだ。

 大郎は必死に体を動かし、水際までやって来た。

 小高くなっているところまで這い上がり、そこで倒れ込んだ。


 大郎は動けなかった。大の字になって、空を見上げた。

 倒れている大郎の顔にも、雨は容赦なく叩きつける。

 何度か雨にむせ返ったが、顔を横にすることすら億劫だった。


 大郎の意識が途切れた。はっと気がついた時には、空はうっすらと明るくなっていた。厚い雨雲が風に流れてゆく。雨粒が小さくなった。

 大郎に体を動かす気力も戻っていた。横にいる白虎に目を向けた。

 白虎は穏やかな顔で大郎を見ていた。

「もう。大丈夫か」

大郎はほんの小さな声で白虎に話しかけた。白虎は穏やかな顔で大郎の頬をなめた。


「そうだ」

大郎は体を起こした。その瞬間に眩暈を感じた。手で体を支えた。

「加夜。加夜は大丈夫だろうか。

 行かなければ」

大郎はふらつきながらも立ち上がり、加夜の元へと歩き始めた。


 道はぬかるんでいた。歩くだけで体力を奪われた。

 まだ川の様に水が流れている道もあった。気を抜くと流されてしまいそうだった。

 それでも大郎は歩いた。

 息を切らせながら、重い足を動かし、必死に加夜の元に向かった。


 いつもは軽やかに登っている坂道も、這うようにして登った。

 ようやく加夜奈留美命神社に辿り着いた。

 神社は雨に濡れただけで、変わりはなかった。

 大郎を待っていた加夜は、微笑みながら大郎の元に歩み寄って来た。

 加夜の顔を見た大郎は、その場に倒れ込んだ。


 大郎は死んだように眠った。疲労が限界を超えていた。

 白虎と加夜は大郎の脇で、ずっと寝顔を見守った。


 大郎が目を覚ました時、目の前に加夜の顔があった。

「加夜。俺を助けてくれただろう」

大郎は加夜に手を伸ばした。加夜の頬のほんの手前で手を止め、そこでなでる仕草をした。

 加夜は微笑むだけだった。大郎もその笑顔につられ、静かにほほ笑んだ。


 時間をかけて、大郎は起き上がった。あぐらをかいて座ると、その隣に加夜が腰掛けた。

「加夜。じい様が死んだのだ」

大郎はぼそっと語り始めた。

「それなのに、みんな、次の大臣の事とか、大王の事とか、そんな話ばかりしているんだ。

 俺がじい様の事、考えて泣いていると、いつまでも子供だと言われた。

 大人だって、人が亡くなれば悲しいに決まっている。でも、その気持ちを隠すのが大人というのだろうか。

 そのうえ、俺に嫁を取れというのだ。そして皇子に嫁がせる子供を作れと言われた。

 俺は愛してもいない女と結婚しなければならない。蘇我の家のために」

大郎はいつものように、取り留めない話をしていた。

 加夜は穏やかに大郎を見つめていた。

「そうか。俺は愛する人とは結婚できないのだ。なぜなら、俺が愛するのは、加夜だけなのだから。

 ならば、誰と結婚しても同じだ。しなければならない結婚ならば」

投げやりに言った。


 大郎は加夜に手を伸ばし、背中に手を回した。大郎の作った腕の輪の中に、加夜がすっぽりと入った。加夜の顔がそばにある。抱きしめられない加夜を、腕の輪の中に閉じ込めた。

 決して触れる事はできないと思うにつれ、愛おしさがつのった。


 飛鳥川からの帰り道、大郎は桃原墓(ももはらのはか)と呼ばれる、馬子の墓を訪れた。馬子が生前から準備していた墓である。巨大な墓で、皇族以外の人物のものとしては桁外れの大きさだった。

 大郎は自分の頭をはるかに超える墓を見上げた。

「なぁ、きらら。死んだ人が眠るのに、こんな大きな墓が必要なのかな。これを作るために、大勢の奴婢(ぬひ)がかりだされたって聞いた。それに、工事の時に大勢の人が亡くなったと聞く」

白虎は大郎の顔を見上げた。


『下々の事もしっかり考えている。大郎はその辺の傲慢な豪族たちとは違うな』


 大郎と白虎の目が合った。しかし大郎はすぐに墓に視線を移した。

「こんな事言っているけど。俺、じい様の事、好きだったんだよ。本当だ」

白虎に言い訳をした。


「大郎殿!」

悲鳴に近い声で名を呼ばれた。大郎は驚いて振り返った。

「おお、古人」

古人皇子。父、毛人の異母妹、法堤郎女の子で、大郎のいとこにあたる。大郎より5歳年下である。ひょろっとして背が高い。顔は青白く病気かと思われることがよくあった。

「本当に久しぶりだな。随分と背が伸びたなぁ」

大郎は無邪気に笑いかけた。

「そんな事より、生きておいでだったのですね」

「何っ?」

思いもかけない言葉に、今度は大郎が悲鳴に近い声をあげた。


「大郎殿は、3日前の洪水に流されて、行方知れずと聞いています。今日も捜索が行われています」

(そうだった。加夜の所では、時間の流れが違うのだった)

慌てて顔を白虎に向けた。それから古人に向き直って礼を言った。

「おかげさまで、この通り無事だ。

 教えてくれてありがとう。さっそく皆の所に帰るとするよ」


 家に向かおうと振り返ったその時、はたと気が付いたように、古人に向き直った。

「そうだ。古人、お前も、じい様に会いに来てくれたのか」

「えっ? あ、はい」

古人はこくっとうなずいた。古人も馬子の孫である。

「それはうれしいな。俺、じい様が亡くなったのに、誰も悲しんでくれないのかと、寂しく思っていたんだ」

大郎は古人に、にこっと笑いかけた。


 古人は戸惑っていた。それは表情にしっかりと現れていた。

「なんだ。そんな顔をして。

 もしかして、お前、まだ法堤の叔母上に、蘇我本家とは付き合うなとか言われているのか」

古人は大郎から目を逸らせた。

「そうなのだな。叔母上は俺たちの事を、鬼のように言っているらしいな。

 しかし母や父の仲たがいなんて、俺達には関係ないと思わないか」

大郎の屈託ない笑顔に、古人の表情も和らいだ。

「はい。確かに。

 正直に言うと、実は、母上に蘇我本家の人間はまともではないのだから、付き合ってはいけないと言われていました。

 会うこともなかったですし。大郎殿と話すこともなくって。正直に申し上げれば、怖くて避けていました。

 あっ、さっきは驚きすぎて、思わず声をかけてしまいましたが」

古人は笑った。

「あ、でも、大郎殿がこんなに優しい方とは知りませんでした」

「叔母上は俺たちの事を、鬼とでも言っているのか。

 まぁ、いい。とにかく、こうやって誤解も取れたのだ。これからは友としても付き合っていこうではないか。

 そうだ、俺の事は大郎と呼んでくれ。そして、遠慮なく、なんでも話をしよう」

古人は顔を紅潮させてうなずいた。


「はい。

 では、あの。早速ですけど、大郎ど……。 いえ、あの大郎の独り言は、本当に大きいのですね。

 噂には聞いていましたが、びっくりしました。誰かに話しているかと思いましたよ」

大郎の顔が、パッと真顔に戻った。

(そんな噂がたっているのか)

大郎は複雑な気持ちで白虎を見つめた。


大郎は走って自宅へ帰った。皆、喜ぶ前に驚いた。

 知らせを聞きつけ、毛人は大急ぎで帰宅してきた。

 毛人の目の下にはくっきりとしたクマができ、頬はこけていた。

 大郎の姿を確認すると、いきなり頭をたたいてきた。


「お前は、自分が何者かわかっているのか。蘇我の家の嫡男。跡取りなのだぞ。

 部民(べみん)を助けようとしてお前が流されるなど、ありえないであろう。こんな事でお前が命を落としたらどうするのだ。

 いいか! 今後、こんなバカな真似はするでない。わかったか!」

馬子に引けを取らない雷だった。


(人の命が流されそうになったのだ。助けられるのであれば、助けるのが人として当たり前の事だろう)

大郎は反論は口にしなかったが、毛人の言葉に返事ができなかった。

 しかし毛人に抱き寄せられ、大郎の肩で咽び泣く父の声を聞いた時、心から申し訳なく思った。


 その後、大郎は捜索をしてくれた人の元を訪れ、礼を言って回った。

 蘇我大郎鞍作の奇跡の生還と評判が立った。

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