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飛鳥の守護神   作者: 葉月みこと
第三章
20/41

斑鳩の雪

 推古30年。

 厩戸と馬子が手がけていた国記と天皇記は、ほぼ完成していた。しかし、最後の仕上げが済まないうちに、厩戸が倒れてしまった。厩戸は朝参する事もままならず、斑鳩で療養に入ってしまった。

 二冊の書は、蘇我の家で保管する事になった。


 寒い冬だった。2月に入ると、全てが凍りつくほどの寒さが続いた。


 その日は夜中から雪が降っていた。大郎は寒さで目覚めた。

(寒いなぁ。こんな時、布団から出たくないよ)

 布団をかけ直し、もう一眠りしようとした。その時、何気なく白虎に目を向けた。

 白虎はいつもと様子が違っていた。

「きらら。どうして、そんなに動いているんだよ」

慌ただしく動き回る白虎に声をかけた。しかし大郎の問いかけには、気が付かない様子。


 突然、外に向かって吠える動作をした。

「きらら……」

 大郎は思い出した。この様に落ち着かなく動く白虎を。

 玄武の主、中臣垂目が産まれる時だ。

 大郎はその時の厩戸の言葉を思い起こした。


「四神は他の神獣が目覚める時、つまり主となる者が産まれる時に、歓迎の気持ちを表す。

そして神の元に帰る時、つまり主が亡くなる時は、声をあげて弔いをする」


 大郎は慌てて布団から起き出した。

「四神は今、4匹ともそろっている。迎える四神はいないんだ。

 ということは。

 まさか、きららは弔いをしているのか」

白虎の吠えている方向を確認した。白虎の向いている方は耳成山か天香久山と思われた。

「耳成山なら、垂目だけど、まだ幼い垂目が……。 でも、垂目は体が弱いと聞いている。

 それとも、天香久山なのか。厩戸様が、いや。そんな事はない。絶対に違う」


「大郎。起きろ!」

突然に毛人が部屋に入って来た。

「はいっ。起きています」

大郎は飛び上がらんばかりに驚き、必要以上の大きな声で返事をした。

「なんと! お前がこのように早く起きているとは。一体、どうしたのだ」

毛人も驚いた。


「それより、大郎。今、斑鳩から使いが来た」

大郎の心臓が、強く収縮した。

「ま、まさか。厩戸様に、何かあったのですか?」

「厩戸様に、何かとは? いったい、何が言いたい」

(違うのか)

それでも大郎の懸念は晴れない。


「いえ。すみません。なんでもありません。

 それより、斑鳩から、何が?」

大郎は平静を装うように努めた。

「厩戸様のご正室、(かしわでの)大郎女(おおいらつめ)様がお亡くなりになったそうだ」

「えっ。膳様ですか。

厩戸様は? 厩戸様はなんともないですよね?」

「さっきから、やけに厩戸様、厩戸様と。どうした。

 使いの者は膳様の知らせを持ってきただけだ」

「そ、それならいいのですが。いえ。すみませんでした」

大郎は深く、息を吐いた。

「しかし、それにしても、この様に早朝の使いとは珍しい。

 しかもだ、蘇我は刀自古を嫁がせてはいるが、膳大郎女様とは縁はない。早馬で知らせるほどの事ではないと思うのだが」

毛人は首を傾げた。


「それともう一つ、解せぬ伝言があった。

山背様がお前を呼んでいるというのだ。必ず大郎がくる様にとの事だ」

「山背が?」

大郎は嬉しそうに聞き返した。この時ばかりは、一瞬、白虎の事も厩戸の心配も忘れた。

 山背とはずいぶん久しく会っていない。たまに会えても、山背はすぐに帰ってしまう。避けられているのかと、寂しく思っていた。

「わかりました。では、すぐに斑鳩に出発します。

 おーい。俺の馬を準備してくれ」

大郎は舎人に大声で命令した。


 斑鳩には大郎と毛人の二人で向かった。

 雪の舞う中、大郎は必死に馬を走らせた。手はかじかみ、鼻水が垂れて来る。それでも休むことなく、馬を走らせた。


 大郎は毛人を置いてけぼりにして、一足先に斑鳩の宮に到着した。

 門の前で馬を降り、大きな声で名を告げた。中から直接、山背が出て来た。大郎は山背に、風の如くに駆け寄った。

「山背。俺に用があるって聞いた」

大郎の勢いに、山背はたじろぎ一歩引いた。そして冷たい目で大郎を見た。その視線で、大郎は自分が冷静でないことに、改めて気がついた。

「いや。すまん。いや、そうだ。

 えっと、お悔やみいたします」

大郎は頭をさげた。祖父、馬子に教わった文言を、今更ながらに伝えた。山背は軽く頭をさげたが、何も言わなかった。


 そこへようやく毛人が到着した。

 毛人は息を切らせながら馬を降りた。山背に深々と頭をさげ、挨拶をかわした。毛人の挨拶には、山背は返事を返した。

 毛人との挨拶が一通り済むと、山背は大郎に向き直った。

「大郎。父上が、お呼びだ」

山背はぶっきらぼうに言った。

「厩戸様が? よかった。厩戸様はお元気なのだな」

大郎の問いには、山背は答えなかった。山背は赤檮を呼ぶと、大郎を奥に案内させた。

「毛人様。毛人様にはご相談があります。私と一緒に来てくださいますか」

「あ、はい。

 しかし、私は厩戸様の所へ参らずともよろしいのでしょうか」

「大郎だけだ。父上がお呼びになったのは!

 私も、私も来るなと言われたのだ。二人で話がしたいそうだ!」

山背は顔を真っ赤にして怒鳴った。

(やれやれ、短気な皇子様だ)

毛人は山背に気づかれないようにため息をつき、深々と頭をさげた。


 山背は毛人を屋敷の中に案内した。

「先ほどは、大きな声を出して、申し訳ありませんでした」

山背はバツが悪そうに頭をさげた。

「その。あの、実は父の具合も良くないのです。

 まさか、膳様が亡くなられるとは、思ってもおりませんでしたが」

「えっ?」

毛人は息を飲んだ。

「それで、お具合とは、どのような……」

「はい。

 父は斑鳩で養生しておりましたが、最近は落ち着いてはいたのです。

 それが膳様の訃報を聞いた途端に、倒れてしまわれて。昨晩、急激に悪化したのです。

 今は、すぐにでも息が止まってしまうのではないかと。それほどの心配をしているのです」

「まさか、厩戸様のお体がそこまでお悪いとは考えてもいませんでした……。 まさか、大郎の心配は当たっていたのか」

最後の言葉はささやくほどだったが、山背は耳ざとく聞き取った。

「大郎が、何を?」

「あ、あの。実は、大郎は今朝、厩戸様のお体の心配をしきりにしておりまして……」

「当家からの使いが行く前にですか」

「はい」

山背の顔が紅潮した。

(どうして大郎がわかったのだ。

 父上の具合が急に悪くなった事は知らせてはいないのに。

 こんなに離れた土地にいるというのに。大郎と父上は通じ合っている様だ。

 そう。あの時も……)

すっかり黙りこくってしまった山背に、毛人はどう対処してよいのかわからなかった。


「大郎。よく、来てくれた。

 お前……、 わかっている……」

厩戸の声は小さく消え入りそうだった。

 青白い顔。紫色の唇。赤く充血した目。浮腫みが、人相すら変えている。息をするたびに、ゼイゼイと音がしていた。

 青龍はいつもはすました様に厩戸の隣にはべっているが、今日は落ち着かない様子。

「きららが、吠えていました。天香久山に向かっているみたいで。だから俺、心配で」

厩戸は唇の両端を、わずかに動かした。

 その直後、厩戸の瞼が一瞬閉じ、頭がガクッと崩れた。

「厩戸様! あぁ、や、やまし」

大郎の腕に、厩戸の手が触れた。そして「待て」と、弱弱しい声が聞こえた。

「呼ぶな。誰も。

 お前と、話したい。お前だけに……」

大郎は鼻の奥が、じーんと熱くなった。こぼれ落ちそうな涙を、必死にこらえた。


「私は、もうすぐ、逝く」

「そんな事、おっしゃらないで下さい」

大郎は激しく頭を左右に振った。

「仕方、ない事。お前だけには、わかっているはずだ」

厩戸は視線だけを白虎に向けた。白虎はウロウロと動き回り、時に咆哮する姿勢をとった。

「これが、人の、運命。この世に、産まれ、死す。

 大郎。忘れるな。これ、が、人……。外れるな。人、の、道」

厩戸の顔が、みるみる灰色になっていく。

 大郎は雪のように冷たい厩戸の手を、しっかりと握りしめた。

「はい。厩戸様……」

「だから、だめ、た、ろ。かや、な……。だ……。けし、て、と、つ……」

厩戸は必死で言葉を絞り出そうとしていた。しかし、そこまで言うと、厩戸の意識が途切れた。

 目は半開きとなった。下顎を動かし、パクパクと口を開け閉めした。酸素を必死で求め、全身で呼吸をしているのだ。


「厩戸様。厩戸様」

大郎は厩戸の肩を揺らした。しかし何の反応も返っては来なかった。

 大郎の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「山背、山背ぉ! 来てくれ、厩戸様がぁ」

大郎の泣き叫ぶ声が、屋敷中に響いた。

 バタバタと慌ただしく廊下を走る音。山背と毛人が、真っ先に駆け込んできた。

「父上!」

山背は大郎を押しのけた。泣きながら、厩戸を呼び続けた。


 赤檮が薬師を連れて、部屋に入って来た。年取った薬師は厩戸の顔を覗き込んだ。手首に触れ、脈をとった。深いため息をつくと、絶望的な顔を山背に向けた。

 刀自古が部屋に駆け込んできた。すでに涙で顔が濡れている。 

 次々に側室や子供たちが駆けつけて来た。


 大郎は部屋の隅に追いやられ、腰を抜かしたように動けなくなっていた。毛人に引きずられ、部屋の外に出た。

「なんてみっともない恰好をしているのだ。

 蘇我の跡取りなのだぞ。このような無様な姿を、人前にさらすでない」

大郎には、毛人の言葉は聞こえていなかった。


 大郎と毛人は軒先から庭に出た。空気はしんと冷えていた。

 二人は庭の隅までやって来た。毛人は木の根元に腰掛けた。木の葉で雪は遮られたが、雪はハラハラと、止むことなく降り続いていた。


 大郎は立ったまま、木に触れ目を閉じた。丁未の戦の事を思い出していた。

(厩戸様は、あの時、見た事は忘れる様にって言っていたけど。やっぱり、忘れる事なんてできなかった。今でも、はっきりと覚えてしまっている)

大郎は頬に残る涙を、手の甲でぬぐった。

「ようやく泣き止んだか」

毛人は腕を組んで、後ろから大郎を見ていた。

「もっと、感情を制御できるようにならなくてはならない。たとえ、親の臨終でも、冷静に対応しなくてはならないのだ」

「はい」

大郎は無表情のまま、返事だけを返した。

「それで、厩戸様とはお話ができたのか」

「はい」

「何をお話しされたのだ」

大郎は口をつぐんだ。

(厩戸様は最後に、『かやな、けして、と、つ』とおっしゃった。加夜、奈留美って、おっしゃりたかったんだろう。決して、会うなって。

 やっぱり加夜と、会ってはいけないって、最期にもそう言われるのか。でも、俺、加夜に会わないなんて、そんな事はできない。

 厩戸様の、たとえ最期のお言葉だとしてもそれだけは)


「大郎?」

突然、黙りこくった大郎に答えを促した。

「聞こえませんでした。

 厩戸様のお声が小さくて」

大郎は抑揚のない声で返事をした。

 その後、二人は何も話さなかった。


 どれ位、時間が過ぎたか。

 毛人は寒さに体を震わせた。

「お前が落ち着いたのなら、部屋に入るぞ」

毛人は大郎の腕をつかんだ。大郎は振り返り、屋敷に目を向けた。


 大郎が足を一歩踏み出そうとした時、突然、白虎が背筋を伸ばし顔を見上げた。そして天に向かって大きく咆哮した。

『ガオォォォ』

過去の世界で聞いた白虎の声が聞こえた気がした。


 屋敷から飛鳥の方向に、青い光が伸びた。

 次の瞬間、青龍が屋敷の屋根から現れた。体が青く光る。体をくねらせ、大きな口を開いた。

 青龍は青い光の道と共に、雪舞う天を翔けて行った。


「厩戸様……。 厩戸様」

大郎は青龍を見送りながら、尊敬する人の名を呼んだ。

「どうした?」

毛人が声をかけた。

「今。たった今。厩戸様が、飛鳥に戻られた」

「なに? 突然どうした。いったい何のことだ」

瞬きしない大郎の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちてきた。

「おい、まさか、厩戸様が亡くなったというのか」

大郎は小さくうなずいた。

「何を言う。ここでわかる訳はないだろう」

大郎は小さく何回も首を左右に振った。

 そして空を見上げ、青龍の後ろ姿が見えなくなってもなお、見送った。

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