飛鳥の月
玄武の主が産まれた日に、大郎は上宮にある厩戸の屋敷を訪れた。そして厩戸は大郎に四神のことを語って聞かせた。
四神は飛鳥を守るために、飛鳥に降臨する。
厩戸は大郎を信じていた。子供ではあるが、その事を大郎は理解してくれると。
話の途中、大郎は厩戸の目の前で、白虎の瞳を見つめた。そして小さな声で白虎に話しかけた。
「大郎、いけない!」
厩戸は腰を上げて、大郎に手を伸ばした。
ガタッと、部屋の隅に置いてあった植え込みが倒れた。土が床に散らばった。
次の瞬間、大郎と白虎は白い光に包まれた。
大郎はバタッと、白虎の背中に倒れこんだ。それと同時に、白い光は消えた。
(遅かったか……。
最後に大郎は何と言ったのだ)
厩戸は部屋の中をぐるっと見渡した。木が倒れた事以外、変わったところは見受けられない。
厩戸は急いで大郎の元に駆け寄り、顔をのぞき込んだ。
「大郎!」
厩戸に名を呼ばれ、大郎はぱちっと目を開けた。目の前には、年を重ねた厩戸の顔があった。首を少しだけ傾げ、心配そうに大郎を見ている。
「う、厩戸様……」
大郎の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「どうしたのだ」
戸惑う厩戸。大郎は白虎にもたれたまま涙をぬぐい、体を起こそうとした。しかし眩暈を感じ、再び力なく白虎に倒れこんだ。青白い顔をして、息を切らせている。
(この体力の消耗。やはり、白虎の力を使ったのだ。しかし、何も変わったところはない……)
「大郎。大丈夫か」
「だ、大丈夫と思います。でも、なんだか、体が動かないんです」
大郎は手足をだらんと垂らしたままだった。
白虎は顔を後ろ側にひねり、一生懸命に大郎の顔を見ようとした。大郎は白虎の顔が見えると、弱々しく笑みを浮かべた。
「ありがとう。きらら」
大郎は白虎の背中を優しくなでた。そして、じっと、白虎の顔を見た。
「もう、話す事はできないんだね」
小さな声でささやいた。
厩戸はもう一度、お茶を準備させた。
そのお茶を持って来たのは、さっきと同じ人物だった。
「あ、赤檮さん」
大郎は思わず名を呼んだ。
赤檮の名を知らないはずの大郎である。その大郎に突然に名を呼ばれたにも関わらず、赤檮は表情を変えなかった。何事もなかったように頭をさげた。
赤檮はお茶を大郎に渡すと、自分は倒れた木を片付け始めた。散らかった土を手早く集め、あっという間に元通りに戻した。
そして、静かに部屋を出て行った。
大郎は白虎の背中にもたれたまま、お茶を一口飲んだ。体の芯が温まった。大郎の頬にほんのりと赤みがさしてきた。
大郎はゆっくりと体を起こした。すると白虎は大郎と向き合った。そして頬をぺろっとなめた。
厩戸はホッと一息つき、大郎と白虎の姿を微笑ましく見ていた。
「あ、すみませんでした」
大郎は厩戸に頭を下げた。
「いや。気にする事はない。少し顔色も良くなった様だ。
しかし、大郎。お前は赤檮を知っていたのか? 今日、初めて会ったと思うのだが」
厩戸はじっと、大郎を見ながら問いかけた。
赤檮は丁未の戦のあと、厩戸の強い希望で、上宮家の舎人となったのだ。
大郎は「はい」と返事はしたものの、うつむいて黙りこくってしまった。
大郎はしばらく下を向いていたが、意を決した様に厩戸に話しかけた。
「あの、俺は今、どうしていました? ずっとここにいたのでしょうか?」
「ん? 不思議な事を言うね。
大郎は話している最中に、急に白虎にもたれただけだ。私の前に座っていたよ。
どこかに行っていたのかい?」
「……いえ」
(どうしよう。厩戸様には言った方がいいのかな。
でも、こんな事、信じてもらえないかも)
大郎は厩戸の瞳をのぞき込んだ。
厩戸はいつもの様に、優しく微笑んでいた。
「何か、言いたい事がある様だね」
(厩戸様には、隠し事なんて、できない。全部、話してみよう)
大郎は決心すると、いきなり話の本題に入った。
「俺、今、過去の世界に行ってきました。
丁未の戦を見て来たんです」
「……。 どういう事だ?」
厩戸はあくまで冷静を装っていたが、大郎の言葉に戸惑っていた。
「俺。本当に戦を見て来たんです。
そこで赤檮さんを見たんです。だから、わかったんです。そこでの赤檮さんは、青龍について来られるくらい足が速かったです。
厩戸様はまだ髪を結っていなくて、なんていうか。失礼かもしれないけど、まだ、かわいい感じでした。
じい様は今よりずっと、やせていて。髪の毛もたくさんあって。
朱雀は守屋様が連れていました。白髪のやせたおじいさんです。
玄武は勝海様です。目の大きなおじさんです。その人は木に登ろうとして、落ちて。それで、亡くなってしまわれました。
そうすると、玄武から黒い光の道が出てきました。それに乗って玄武は進みました。でも、その途中で。蛇と亀が分かれました。
守屋様は赤檮さんの弓で……」
大郎は必死に話した。
「朱雀は赤い光と一緒に飛んで行きました」
厩戸は言葉を失った。
(大郎が知るはずもない事ばかりだ。赤檮が馬子殿に話し、それを大郎が聞いたとしても。四神は我々にしか見えない。他の者が知るはずはないのだ。
大郎は白虎の力を使って、過去を見てきたと言うのか!)
厩戸は大郎の話を信じなければいけないと思った。
「わかった。
では、大郎。お前が見てきたこと、すべて話しておくれ」
「はい」
大郎は大きくうなずくと、見てきたことを語り始めた。
「最後に、きららが言いました。
朱雀は守屋様の恨みを、玄武は勝海様の後悔を抱えたまま帰ったと」
「きららが言ったと?
大郎。お前は白虎と話ができるのか?」
「いえ。その時だけです。きららの声は、今はもう聞こえません。
普段は聞いた事なくって、初めてきららの声を聞いたんです」
厩戸の顔がほっとしたように見えた。しかし、その後すぐに厩戸の顔が引き締まった。
「確かに、それは丁未の戦での出来事ばかりだ」
厩戸は人差し指を口に当て、深刻な顔で考え込んだ。
重い時間が流れた。
「大郎」
厩戸がおもむろに口を開いた。
「では、私と守屋様の会話。木の上で話していた事も聞いたのだな」
「はい」
厩戸はさらに厳しい表情をした。
「何を話していた?」
「はい。厩戸様が守屋様に“きんじゅつ”について聞いていました。
守屋様はひどく驚いていらっしゃいました。穴穂部様が狙っているとか、そんなことも言っていました。
守屋様は神に返したとかって、言ったと思うのですが、よく聞こえませんでした」
「大郎」
厩戸はゆっくりと、もう一度名を呼んだ。
「あれは守屋様と私だけの会話だったのだ。そこに、お前が入って来てはいけない。
あの時の会話は、私が独りで抱え、死してなお、秘めておくべきことなのだ」
「申し訳ありませんでした」
大郎は赤面し、頭をさげた。
「俺は、人の過去を暴くような真似をしてしまいました。
厩戸様だって、知られたくない過去がおありのはず。それを、俺は、勝手に見てきてしまったんです」
大郎はさげた顔を上げられなかった。
「もう、いいから。顔をあげなさい」
大郎は戸惑いながら、ゆっくりと顔を上げた。
「忘れなさい。いいね。今、見てきてた事は忘れるのだ」
「はい……」
小さな声で返事をしたが、少し考え込む。
「でも、俺、今、見てきたことが強烈すぎて、忘れられないかもしれません。
でも、努力して、考えないようにします」
厩戸はふっと笑った。
「正直な子だ。
大郎。いいか。さっきも言ったが、過去に行き、人の過去を見るのは、反則だ。許される事ではないよ。だから、二度と過去に行ってはいけない。約束してくれ」
「はい」
大郎は素直にうなずいた。
「でも、厩戸様。
俺、どうして自分が過去に行ってしまったか、わからないんです。気が付いたら、そこにいたんです」
「四神の力を使ったためだろう。四神の力は知っているね」
「はい。青龍は植物、玄武は水、朱雀は火、そして白虎は土、大地の力です」
大郎は白虎の背中をなでた。
「そう。それが、四神の力の根本だ。
四神の主は、四神に命令する事ができる。四神と目を合わせると、四神の持つ色の光が生まれる。そして、自分の力の元となるもの。白虎であれば、土だね。その力の元と共に、主の命令を果たすのだ」
「ああ」
大郎は何回もうなずいた。
(それで、みんな、四神の事を見ると、目が光っていたんだ)
過去での事を思い出した。
「大郎。お前は白虎の目を見て、何を願ったのだ?」
「願ったわけではありません。
四神がどの様に戦ったのかを、知っていなければならないって、そう思っただけです」
「そうか……。
しかし、四神の力を使ったとしても、過去に行くとは。そのような力は聞いたことがない。
お前には守屋様にも勝る、強い力があるのかもしれない」
「俺にですか」
「そうだ。だから、お前は気を付けなければならない。四神の使い方を誤ってはいけないよ。
もうひとつ、注意する事がある。
それは、主への代償だ。
四神の力を使うためには、主の魂の力が必要なのだ。つまり、四神の力を使うと、主の体力が奪われるのだ。
今まで、四神の力について話をしなかったのは、体力のない子供のお前に、力を使わせたくなかったのだ。
さっき、体が動かなくなっただろう。四神の力を使ったからなのだ」
「そうなんですね。
そうだ。そういえばきららに乗って空を飛ぶと、すごく疲れるんです。そのためだったんだ。
それに、目を見ないとダメなんですね。それでかもしれない。きららは俺の言う事を聞いてくれる時と、そうでない時があるんです。
目を見ないとだめなんですね」
「大郎!」
厩戸の厳しい声が飛んだ。
「お前は、四神をそんな事に使っていたのか。四神はおもちゃではないのだぞ」
「あ、はいっ。申し訳ありません」
大郎は床に頭をつけて謝った。
厩戸は大きなため息をついた。
「四神の力は飛鳥と大王を守るためにあるのだ。そんな事に白虎の力を使ってはいけない。いいね」
「はい。もう、きららで空の散歩なんてしません」
必死に謝る大郎を、厩戸は優しく見つめた。
「わかればいい。
さぁ、頭を上げなさい」
「……、 はい」
大郎はゆっくりと頭をあげた。
その夜、大郎は山背の隣の部屋で休んだ。
大郎が部屋に入ったのは、夜もすっかり更けてからだっだ。
山背は隣の部屋から物音がしたのを、敏感に聞き取った。
(こんなに遅くまで。いったい父上は、大郎と何を話していたのだ!)
山背は悶々としていた。二人の事が気になり、布団に入っても、眠ることなどできなかったのだ。
(父上は大郎をかわいがっている。大郎の方が、俺よりもずっと大事にされている)
山背は朝まで一睡もできなかった。
厩戸は大郎を部屋まで送ると、庭に出た。
黄色い、楕円の月が、ぼんやりと浮かんでいる。
厩戸は月を眺めながら、大郎の話を頭の中で巡らせていた。
(朱雀は守屋様の恨みを。玄武は勝海様の後悔を。
それでなのか。
雄君は初めて会った時、いきなり私を睨みつけた。子供らしからぬ目だった。
あれは、朱雀の恨みを表していたのだろうか。彼は私に対する恨みを、産まれた頃より持っているというのか?)
(勝海様は後悔しておられたのだ。玄武に人殺しをさせたことを。
それ程までに、辛いお気持ちで戦っておられたのだ)
勝海の最期の顔を思い出した。
(玄武は亀と蛇が分かれて飛鳥に帰った。そして、分かれたまま、耳成山から降りてきた。
それは勝海様の事と、関係があるのでは)
厩戸は突然、激しい胸の痛みに襲われた。
ガクッと膝をついた。喉が締め付けられる。胸元をきつく握った。
(大郎はまだ幼い。
雄君は心を開いてはくれない。
玄武の主は産まれたばかりだ。
それに、離れた亀と蛇に何の意味があるのか、わからぬ)
「まだ、逝くわけには、いかぬ!」
厩戸は声を振り絞った。