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飛鳥の守護神   作者: 葉月みこと
第三章
17/41

河内の戦

 大郎は一瞬、意識を失ったように感じた。気が付いた時、体は宙に浮いていた。

 大郎は白虎にもたれていた。落ちるわけではなさそうだが、ひどく心もとない気がした。

必死に白虎によじ登り、背中にまたがった。


 大郎は眼下に見慣れぬ景色を見た。

 黄土色の土がむき出しになっている荒れ地。木々は所々に群生して、小さな林を形成していた。

 少し離れたところには、川が流れていた。薄黄色の水がチョロチョロと流れている。水量が少なく、川底の石がむき出しになっている。

 河原には背の高い草が自生している。しおれているものもある。

 そして川の側にはすぐ、小高い丘がある。その丘の手前にはそう大きくはない屋敷が建っていた。屋敷は頑丈な砦に守られている。

 そして砦の内側では、武装した人が大勢ひしめき合っていた。


「ど、どうしたんだ?

 いったい、ここはどこ? 厩戸様の部屋にいたはず!」


『飛鳥ではないな』


「えっ? 今、話したの、きらら?」

『我の声が聞こえるか?』

「うん。やっぱりきららなんだ。

 そうか、きららの声って、思っていたより低い声だ。うん。大人っぽい声なんだね」

大郎は嬉しそうに、白虎の首にしがみついた。


 大郎はさらに高く飛んでもらった。そして、ぐるりとその場で一回りした。

「あっ、青龍だ」

少し離れた林の木々の間から、青龍の頭が飛び出していた。

「厩戸様があそこにいるんだ。きらら、あっちに行ってみよう」

大郎は青龍のいる林を目指した。


 グワァーーン!

銅鑼の音が鳴り響いた。

すると、木の中から軍隊が塊になって現れた。

「うおおおおお!」

雄たけびが響いた。

 兵士は鎧と兜で身を固め、手には剣や槍を持っている。弓の部隊も整列していた。

「ここに厩戸様もいるんだよね。青龍は見えるけど、厩戸様は、よくわからないよ。

ねぇ、きらら。いつもより青龍が小さい気がするんだけど」

密集した人の塊の中、厩戸を探すことは困難だった。大郎は青龍を見失わないよう必死だった。

 

厩戸を含む軍隊は砦に向かった。

二つの軍隊は川を挟んでにらみ合っていたのだ。


 砦の最上部に、朱雀と玄武が見えた。

 朱雀の隣には、白髪のやせた男が立っていた。

 玄武の隣にはぽっちゃりとした、中年の男。丸くて大きな、そして真黒な瞳が不安そうにこちらを見ている。

「朱雀の隣にいるのは、雄君様じゃない。それに、玄武の主は、さっき産まれたばかりじゃないか。

 誰なんだ」

大郎はもう1度二人を見つめ、頭の中を整理させた。

「まさか、あれって、物部守屋様と中臣勝海様?」


『そうかもしれぬ。

 もしかすると、我らは過去の世界に来ているのではないか』


「過去?」

白虎はうなずいた。

《そうだ。大郎が望んだのだ。四神の関わった戦いを知りたいと。

 大郎に過去を見る事ができるとは。予想もしていなかった。

 他の四神の主とは違う。神も見えるほどだ。特別な力があるのだろう》

白虎は大郎に聞こえないよう、心を閉ざして考えた。


 青龍が軍の塊から離れた。

 青龍の隣にいる人物がはっきりと見えた。馬に乗っている男の子だ。髪は簡単に束ねただけで、まだ成人はしていない様子。しかし大郎よりも年は上のようにみえた。華奢な体つきに、細面の顔。鋭い眼光には見覚えがあった。

「厩戸様だ。厩戸様だよ。ねぇ、きらら。

 でも、子供だ。

きららの言った通り、ここは昔の世界なんだ」

『そのようだ。

 そして、ここは戦場。厩戸が話していた、四神が関わった戦。

 丁未の戦の最中なのだろう』


「戦の真っただ中にいるって? 俺たち、矢に当たったりしないかな。

 それより、俺、下にいる人に見つかったら、宙に浮いている様に見えてしまうよね」

『我らの姿は、下界におる者には見えないであろう』

そう言いながら、白虎は高度を下げ、厩戸の視界に入るほど下に降りて来た。それでも誰も、白虎と大郎に気が付かなかった。

「でも、きらら、青龍は気が付いているよね」

大郎は青龍の視線を感じたのだ。

 白虎は青龍と視線を合わせ、大きくうなずいた。


 大郎は改めて厩戸と、そして並んでいる青龍を見た。

「ねぇ。きらら。やっぱり、青龍はいつもより小さいよ。

 いつも曲がりくねっていても、厩戸様と同じくらいなのに。今は体を伸ばし切って、いつもと同じくらいの大きさだよ。浮かんでいるから、頭が飛び出してはいるけれど」

『ここは、飛鳥から離れているからな』

「えっ? 何か関係あるの?」

『我らは、本来、飛鳥にいるべきなのだ。飛鳥でなければ、その姿は保てない』

「でも、きららはそのままだよ」

『我らは、本来、ここに存在しているわけではないからな』


竹田(たけだ)様。私から離れないで下さい」

厩戸の声が聞こえてきた。大郎は下界に視線を向けた。

 厩戸は隣にいる幼い子供に声をかけた。

「竹田。確か、推古様の亡くなったお子様が、竹田皇子様だったよね」

竹田はまだ7、8歳と思われる。慣れない手つきで馬を操っていた。

 厩戸は竹田の兜を取り外し、汗を拭いてあげた。のぼせたように赤い顔をしている。


「厩戸様」

後ろから大きな声。

「厩戸様。もっと、後方に行ってください。我が、前方を確認してまいります」

「馬子殿。馬子殿も、お気をつけて」

「馬子? じい様?」

大郎は馬子と呼ばれた人物を、食い入る様に見つめた。大郎の知る「馬子」よりずっと若い。しかし、確かに祖父、馬子の面影があった。

「じい様、若い! 髪の毛がいっぱいあるし、やせている。おなかがない」

大郎は思わず吹き出した。

 

 軍は前進した。

「待て。むやみに進行しない方が良い」

厩戸が大きな声をあげた。

 そのあとすぐに、甲高い声が響いてきた。

「黙れ、厩戸。ここの大将は私だ。余計な口出しはするな」

鉄の兜と鎧に身を固めた男だった。

「しかし、泊瀬部様。物部は長く飛鳥の軍事を取り仕切ってきた一族。

 何か策を講じているかもしれません。むやみに進行しては危険です」

厩戸には朱雀と玄武に対しても、脅威を感じていたのだ。

「黙れ、黙れ!」

泊瀬部は聞く耳を持たなかった。

 泊瀬部は総攻撃の銅鑼を鳴らした。

 兵士たちは3個の集団になって進み、正面、左右から一気に攻め込んだ。

 川の水しぶきが激しくあがった。


 物部の築いていた砦は、稲城(いなき)であった。

 頑丈に造られており、鉄壁の守りを発揮した。蘇我軍の射る弓矢などは、まるで歯が立たなかった。

 稲城の砦から、弓矢が射られる。雨の様に降り注ぐ弓矢。盾では防ぎきれない数であった。蘇我の軍は停滞してしまった。


 大郎は厩戸から離れないようにしていた。

 厩戸がすぐ隣にいる。その顔を間近で見てみた。

「厩戸様。暗いお顔をしている。

 他の人は、興奮しているっていうか、怒っているような顔をしている人ばかりなのに」

『そうだな。戦に来ている者の表情ではないな』


クォォォーー!

耳をつんざく大きな音が響きわたった。大郎は思わず、両手で耳をふさいだ。

 厩戸はじめ、その場に存在している者達には、聞こえていないようだ。誰一人として、その大音響に反応しなかった。

 大郎だけが、音の方に目を向けた。

 朱雀だった。朱雀が赤く光り、天に向かって()いてた。


「朱雀が赤く光っている。

 守屋様。まさか、朱雀を、四神を人の戦に使うおつもりか」

厩戸の血を吐く様な声が聞こえてきた。大郎の胸は、激しい痛みに襲われた。

「青龍」

厩戸は小さな声で呼びかけ、悲しそうに見つめた。

「私も、お前を、戦に使ってしまうかもしれない……」


 次の瞬間、朱雀から炎がばらまかれた。炎だけは現実となり、蘇我軍を襲った。

 火は兵士に燃え移る。

「火矢だ! 向こうは、火を使って来た。気を付けろ!」

朱雀の見えない者にとっては、火の矢が使われていると思うだろう。

 炎はあっという間に広がり、あたり一面、火の海となった。

 兵の列は一気に、大混乱に陥った。兵士は右往左往する。

 炎に包まれた者は、断末魔の叫びと共に倒れてゆく。


 大郎は戦に出た事はなかった。目の前で人が死ぬところを見たことすらなかった。

 それが、今、目の前で人が燃えている。残酷な光景を見せつけられた。

「うわぁ。やめろーー。 やめてくれぇ」

大郎は白虎にしがみつき、泣き叫んだ。

『大郎。落ち着け! これは、現実ではないのだ』

白虎の声を聞くこともできなかった。


 炎の攻撃は、短時間でぴたっと止まった。

 砦の上にいる朱雀も、光を失い、元の姿に戻っていた。

 しかし枯草や木に燃え移った炎は、まだ燃え盛っている。

「泊瀬部様。一旦、退却しましょう。かなりの兵士が亡くなりました」

厩戸は竹田をかばいながら、泊瀬部の所まで引き返してきた。

「黙れ! 我に命令するでない!

 何を恐れている。向こうは稲城じゃ。元は稲わら。恐るるに足りん。

 ちょうど良い、奴らの火で、燃やしてしまえ。

 あの砦を燃やした者には、出世を約束する。行けぇーー」

泊瀬部は一番後ろで、進撃の銅鑼を鳴らした。


 大郎の涙は止まらなかった。

 しかし自分と年が変わらない厩戸が、幼い竹田をかばいながら、現実の戦火の中で戦っているのだ。

「泣いている、場合じゃない」

大郎は拳で涙をぬぐった。

 大郎は目の前の惨状から、目を離さないようにしようと決めた。


 大郎は前線に目を向けた。

 最前線では、砦までたどり着いた蘇我の兵士がいた。

 その兵士たちにも、稲城を燃やせという命令は伝わっていた。

 息を切らし、呼吸を乱しながら、火打石を取り出し、火を起こそうとした。


「玄武が! 玄武が黒く光っている!」

大郎の声は誰にも聞こえなかった。厩戸すら、聞こえてはいなかった。


 静かに流れていた川が、突然波打った。

 その途端、砦から水が噴き出したように見えた。

 玄武の力は水である。玄武の力が発せられたのだ。


 厩戸は放出された水に気が付いた。

「勝海様までも。玄武の力をお使いになるのか……」

厩戸の顔がゆがんだ。


「きらら。あそこまで、玄武たちの所まで行って!」

大郎は叫んだ。厩戸の苦しみを解いてあげたい。朱雀と玄武を止めたいと、そう思った。

 白虎は命じられたまま、砦まで一気に駆け抜けた。

 

 砦の元では、蘇我の兵士達が水に攻撃されていた。大量の水で鼻と口が塞がれた。呼吸する術を失った男達は、その場に倒れた。

「おぼれ死んじゃう」

大郎は白虎から飛び降り、男たちの元に駆け寄った。

 しかし大郎の手は、誰にも触れる事はできなかった。大郎には苦しむ人を見ているしかなかった。


 突然、水の攻撃は止まった。

 大郎は砦の上を見た。玄武の光も消えていた。

 水攻めにあった男達は、ぴくとも動かなかった。息をしているのかしていないのか、大郎にはわからなかった。


「勝海。倒れている場合ではない。立て!」

大郎の上から声が聞こえてきた。守屋の声である。

 大郎は白虎に飛び乗った。

「上に行って」

白虎は砦の上まで駆け上がった。

 砦の最上段には、朱雀と守屋、玄武と勝海しかいなかった。

 大郎は上から、二人と二匹を見下ろした。


 勝海は膝をついていた。隣に立っている守屋も、肩で息をしている。二人とも顔色が悪い。目の下にはクマを作り、疲れ切った顔をしている。

「守屋様。許してください。もう、やめましょう。

 私は、玄武の力で、人を殺したくはない」

勝海は泣いていた。

「何を甘い事を言っている。四神の力がなくてはこの戦には勝てぬ」

「しかし、玄武も朱雀も、なぜか小さくなっています。

 力もいつもより、使いづらい。そう思いませんか。

 私もそうだが、それよりも玄武にも負担がかかっていると思うのです」

「そんな事は、どうでもいい。

 稲城の近くでは火は使えぬ。早く水の力で追い払え!

 少し休んだ。力も溜まったであろう」

守屋の厳しい叱咤に、勝海は逆らえない様子だった。勝海はよろよろと立ち上がった。そして、苦悶の表情のまま、玄武を見つめた。黒く光った玄武は、水を放出させた。

 

 大郎は知らず知らず、守屋を睨みつけていた。

「誰だ!」

突然、守屋が叫んだ。そして上を向いた。大郎と目が合った。

「えっ? 見えるの?」

大郎は白虎から落ちそうになった。慌てて白虎の背中にしがみついた。

 守屋の声に勝海は気を取られ、水の攻撃は止まった。勝海は座り込んだ。はぁはぁと息を切らせながら、守屋を見た。

「いや。上に誰かいるような、気配を感じたのだ。

 しかし人ではないような……」

守屋はそう言いながら、再び大郎に視線を向けた。


「見えているわけじゃないんだ。

 でも、守屋様は、鋭いお方かもしれない。

 きらら。向こうに戻ろう」

大郎は逃げるようにして、その場を去った。


蘇我の軍は、退却を余儀なくされた。大敗だった。

泊瀬部は「我のせいではない!」と、言葉を投げ捨て、逆上したまま、自分の天幕に入った。

屋外の慌ただしく雑然とした場所で、けが人の手当が施された。ほとんどが矢傷と火傷であった。

 死者は一角に集められ、ムシロを掛けられた。

 皆、疲れ切っていた。腰を下ろして、目を閉じていた。

 大郎はきららから降り、その惨状を目の当たりにした。

「戦って、ひどい……。人と人が殺しあうなんて、しちゃいけない。

 厩戸様は14歳の時だったって言っていた。俺とそんなに変わらない年で、こんなひどい経験をされていたのか」


 厩戸と馬子が天幕に入った。大郎も二人の後に続いた。

 厩戸は中に入ると、鎧と兜を取った。汗が滝のように流れてきた。準備された水をごくごくと飲みほした。

 厩戸は隣の青龍に視線を向けた。青龍の青く輝く瞳をじっと見つめていた。

「厩戸様?」

馬子が顔を覗き込むように名を呼んだ。厩戸はゆっくりと馬子に向き直った。

「馬子殿。私は物部の基地を偵察してきます」

「何をおっしゃいます! あなた様にそんな危険な事はさせられません」

馬子は大きな声をあげた。その後、厩戸に近寄り、声をひそめた。

「厩戸様は大王になるべきお方。

 はっきり申し上げます。泊瀬部様ではだめです。本来なら、今すぐ厩戸様に大王になってほしいと思っているくらいです。しかしあなたはまだ、成人もしていない。

 厩戸様が相応の年齢になったら、泊瀬部様には退いてもらいます。

 ですから、前線に行くような事、考えないでください」


厩戸は困ったような顔をした。

「ありがとうございます。しかし、私は大王にはなれません。

 それに危険な事はしません。少し見て来るだけです」

「何をおっしゃいますか。大王はあなたしかいません。

 泊瀬部様があれほど、頭の悪い皇子とは思いませんでした」

馬子が顔をしかめた。

「じい様。悪人顔だ」

大郎がこれまで見たことのない馬子の表情だった。

「いや、しかし……」

「いえいえ。とにかく、今はお休み下さい。お疲れでしょう。

 竹田様は奥で眠っております」

馬子はそう言って、天幕を出た。そして外にいた体格の良い家来に、二言三言耳打ちをした。


 その夜。疲弊した軍は、深い眠りについた。物部の軍も沈黙していた。

 月が河内を照らした。


 大郎は眠くはならなかった。ぽっかりと浮かぶ、満月を見ていた。月の明かりが、ぼんやりと景色を映し出す。

 大郎は何か気配を感じ振り向いた。

「厩戸様!」

厩戸と青龍が歩いてきた。

 厩戸はゆっくりと周囲を見渡した。厩戸は青龍の目を見つめ、話しかけた。

 すると、風がないにもかかわらず、周囲の草や木の葉が揺れた。青龍は顔を地面に近づけた。そして、厩戸は軽やかに青龍の背中に飛び乗った。

 青龍は地を這うように飛んだ。

「厩戸様!」

大郎は名を呼んだが、厩戸に聞こえるはずはない。

 大郎も白虎に飛び乗り、厩戸を追いかけた。

 大郎は足音に気が付いた。振り返ると、男が走って追いかけてきていた。

「厩戸様を追いかけているんだ。青龍に乗っている所、見られちゃっている。

 でも、蘇我の陣地から出て来た人だから、味方のはずだよね」

大郎は白虎に言いながら。自分を安心させようとした。

「でも、とにかく追いかけなきゃ。厩戸様を見失わないように」

白虎は宙を翔けあがり、空から厩戸を追いかけた。


 厩戸は物部の砦に到着した。

 東の空は、ほんのりと明るくなってきた。夜明けは近い。

砦の裏は深い森になっている。森の中に本城が建てられている。木々に囲まれた城だった。

 厩戸は砦の脇にある森に入った。青龍もすっぽりと森に隠れた。

(青龍は小さくなっているが、やはり目立つ。鋭い守屋様であれば、気が付いてしまうかもしれぬ。

 しかし、我々四神の主は、お互いに身を隠すことが難しい)

厩戸は青龍を見ながら、ひとりで笑った。


 白虎は厩戸のすぐ後ろに降りて来た。大郎も白虎から飛び降りると、厩戸の背後に立った。

「厩戸様。危険な事はしないで下さい」

大郎は無意味とわかっていても、声をかけずにはいられなかった。


 その時、足音が聞こえてきた。

「さっきの男だ」

男は必死で追いついて来た。背中には弓矢を背負い、腰には剣を提げていた。

 大郎は穴が開くほどに男の顔を見た。見覚えのある顔だった。

「あっ。さっき、厩戸様のお屋敷で見た人。お茶を持ってきてくれたあの人だ。

 髪は黒いし、若いし、背筋も伸びているけど、絶対にそうだよ。あの目。おんなじだもん」

 大郎は確信した。


男は息を切らせ、足をふらつかせていた。厩戸も気が付いた。

「誰だ?」

厩戸の顔が強張った。

男は厩戸の前にひざまずき、頭を下げた。

(敵ではない)

厩戸の顔は一瞬、和らいだ。

男の息は荒く、すぐに話すことはできなかった。大きく肩を上下させていた。汗がボトボトと、地面に落ちた。

厩戸は懐から手拭いを出し、腰から竹筒を外し、男に差し出した。男は驚いた様に目を見張った。しかし厩戸がうなずくと、一礼してそれらを受け取った。そして竹筒の水をごくごくと喉を鳴らして飲み干した。息を整えてから、手拭いで汗をぬぐった。

男は衣服を整え、改めて頭をさげた。

「私は赤檮(あかとう)と申します。馬子様のイヌです」

イヌとは主人の命令で動く隠密の事。

馬子は渡来人を影の工作などに使っていた。この戦にも、選りすぐりのイヌを連れてきていた。

「イヌ?

ではお前は、馬子殿の命令でここにいるのか?」

「はい」

(この私が、気付かなかった)

厩戸にとっては、少なからず衝撃だった。

しかし、それは仕方ない事だった。赤檮は最も優秀なイヌのひとりだった。

「では、赤檮。お前は私の後を、つけてきたのだな」

厩戸の声が少し震えていた。


 大郎は二人のやりとりを、緊張しながら見守った。

「そうだ。厩戸様は青龍に乗ってここまで来たんだ。

 青龍が見えない人だと、厩戸様が宙に浮かんでいる様に見えるよ」

『そうだな。青龍は見つからない様に、低空飛行をしてはいたが。それでも厩戸の足は浮いていたし、走る動きもせずに移動していたのだ』

「うん。厩戸様の秘密、バレちゃうかもしれない」

大郎と白虎は固唾をのんだ。


「はい」

赤檮は口数が少なかった。

「それで、お前は……」

厩戸が言いよどんだ。

「はい。私は皇子様の後を追いかけてまいりました。それだけでございます」

表情も声も変えず、冷静に答えた。

(この男。私が宙に浮かんでいるところを見たはず。それなのに何も言わず、何事もなかったかのように振る舞っている。さすが、馬子殿の密偵。

 さらには、青龍の飛行にもついてこられるとは、相当の身体能力の持ち主だ。 

 本当に偵察だけのつもりだったが。この男であれば、やり遂げる事ができるかもしれぬ)

厩戸は、ほんの数秒、考え込んだ。そして赤檮の前にしゃがみ込み、視線を同じ高さにした。


「赤檮と申したな。

 お前。私を手伝ってはくれぬか」

厩戸はすっかり落ち着いていた。

 真正面から、鋭い視線で直視され、赤檮は息を飲んだ。しかし、表情は変えず「仰せのままに」と言って、頭をさげた。


 厩戸は周りに人はいないとわかっていても、声を潜めて赤檮に話しかけた。

「お前にはすべて見られている。それでも平然としているというのは、お前は只者ではないと思う。

 それを見越して頼みがある。

 穴穂部様を葬ってほしい」


「えっ!」

大郎が叫んだ。

 赤檮は、瞳がぴくっと、わずかに動いただけだった。

「いろいろと作戦を練るつもりであったが、それも必要なさそうだ。

 赤檮。お前ならできるであろう」

赤檮は動揺していたが、全く表情には出ていなかった。

「守屋様でなく……」

「そうだ。穴穂部様だけでいい」

厩戸は微笑んだ。

「厩戸様の、いつもの笑い顔だ。

 こんな恐ろしい事を言いながら、こんな風に笑う事ができるなんて」

大郎にはいつも以上に、厩戸の笑みが謎めいて見えた。


 赤檮はしばらく黙りこくっていた。一度、瞬きをすると、すくっと立ち上がった。続いて厩戸も立ち上がる。

「わかりました。

 そのかわり、一つお願いがあります」

「なんだ」

「はい。私は嶋の大臣(馬子)から命令されています。厩戸様を危険な目に遭わせるなと。

 ですから、決してここから動かないで下さい。

 それだけでございます」

赤檮は頭をさげた。

 厩戸は口を真一文字に結び、大きくうなずいた。

「赤檮。お前は主人に忠実でもあるのだな」

 赤檮は軽く一礼して、踵を返した。そして砦の脇の一番大きな朴ノ木(ほおのき)によじ登り、あっという間に城の中に消えた。


 太陽は東の空に、昇りきっていた。木漏れ日が厩戸の顔に当たる。

 厩戸は全く身動きをせず、草の上であぐらをかいていた。

 大郎は厩戸の隣に座った。そして落ち着きなく、厩戸の顔を覗き込んだり、景色を眺めたりしていた。

 時は静かに流れた。戦場とは思えぬほどに。


 ふわっと、厩戸の頬を風が渡っていった。厩戸は不穏な空気を感じた。反射的に上を向いた。

 

 そこでは朱雀が羽ばたいていた。

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