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飛鳥の守護神   作者: 葉月みこと
第三章
15/41

玄武と耳成山

 推古28年。冬。


 厩戸は多忙を極め、さらに体調を崩すことが増えていた。

 夏に大郎と交わした約束は、果たせないままだった。


 その日は朝から空気が凍てついていた。夜に降った雪がうっすらと積もっている。

「ひどい冷え込みだ」

大郎は手に息を吹きかけた。

 大郎は唐から帰国した学者が開く私塾に通っていた。そこで大郎は文字、算術、諸外国の情勢だけでなく、仏教や易学までも学んでいた。


 大郎はこの日の授業が終わると、真っ先に外に出た。

雪雲は流れて行き、薄い雲が空を覆っていた。


 今日の白虎はいつもと違っていた。しきりに顔や足を動かしている。大郎から離れる事ができたら、空まで飛んで行ってしまいそうだった。

 授業中も白虎の動きが気になった。こんなに勉強に集中できなかったのは初めてだ。

「きらら。いったい、どうしたんだ」

大郎は白虎の背中をなでた。しかし、今日の白虎に大郎の声は届いていなかった。

 太郎が立ち止まると白虎も止まり、尻尾を上げ、その場でウロウロと動いた。そして北の空に向かって声なき咆哮をした。


『もうすぐだ』


 大郎は白虎の顔に自分の顔をくっつけ、白虎の見ている方向を確認した。白虎は耳成山に向かって吠えているようだった。

「耳成山かい? 耳成山に何かあるのかい』

大郎は白虎に語りかけた。しかし白虎は大郎を見ることはなかった。


 しゃがみ込んで独り言を言っている大郎の脇を、首をかしげながら一人の男児が通った。細い切れ長の一重の目で、いぶかしげに大郎を見た。

 中臣鎌足(なかとみのかまたり)

 飛鳥の神祇伯、中臣御食子(みけこ)の長男。まだ6歳だが、頭脳明晰で特別にこの私塾に通っている。大郎以来の神童と言われている。

 

 鎌足の視線に気が付いた大郎は、「うーん」と、背伸びをしてみせた。そして、たった今、気が付いた様に装って、話しかけた。

「おお、鎌足か。

 今日は耳成山がきれいに見える。耳成山は中臣が守っている山だよね」

「はい。耳成山には瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)様の祖である、高御産巣日神(たかむすひのかみ)様を、お祀りしています。

 瓊瓊杵尊様が天孫降臨(てんそんこうりん)された際に、随伴させていただいた家来の中で、一番の重鎮(じゅうちん)天児屋根尊(あめのこやねのみこと)様が中臣の祖。

 その縁あって、今も中臣が耳成山をお守りさせていただいています」

とても6歳の子供のものとは思えぬ弁舌。大郎は圧倒されてしまった。

「いや。その、詳しい説明をありがとう」

大郎はひとつ咳ばらいをした。


「えっと、あの耳成山は美しい形をしている。蘇我は畝傍の山を守っているけど、美しさでは耳成山にはかなわないと思っているんだ」

「ありがとうございます。

 しかし、本日は急いでおります。申し訳ありませんが、ここで失礼します」

鎌足はすました顔で一礼すると、すたすたと歩いて行った。

 大郎が「こちらこそ、失礼した」と謝った言葉は、聞こえていない様だった。

「やっぱり、鎌足はそっけないなぁ。じい様が中臣と戦ったりしたからかなぁ」

大郎は白虎に話しかけるように隣を見ながら、ため息交じりにつぶやいた。

「そればかりではない。鎌足の弟が産まれるのだ。 本当に急いでいるのだろう」

突然、後ろから話しかけられ、大郎は慌てて振り返った。

 後ろには山背皇子が立っていた。


「山背、久しぶり。うわぁ、また、背が伸びた気がするよ」

大郎は声を弾ませ、駆け寄った。

「そうだな。飛鳥にはよく来ているのだが、なかなか大郎には会えなかった。

 今朝、斑鳩を出てきたのだが、今回はしばらく上宮の家に泊まると父上が言っておられる。だからゆっくり会うことができるんだ。

 それで、嶋の家に行ったのだが、大郎はここにいると聞いたものだから」

「俺を待っていてくれたのか。うれしいよ。ありがとう」

大郎は顔をほころばせた。

 しかし「えっ」と小さな声をあげて、何度か瞬きをした。

「えっと、でもなぜ斑鳩にいた山背が、中臣の家に子供が産まれるって、知っているんだ?

 斑鳩に知らせがいったのか?」

「まさか。

 父上が今朝、突然に言い出されたのだ。急に飛鳥に行くと言われ、しかも向こうに泊まるというのだ。皆、驚いたさ。

 母上たちがなぜ、って聞いても、中臣の家に子供が産まれるからって、それしか言われなかったそうだ。

 しかし、中臣と父上は縁があるわけではない。むしろ丁未の戦で、敵同士だったのだ。まさかお祝いを言いに行くわけではないだろう。

 だいいち、なぜ子供が産まれると知ったのか、それもわからない。

 父上はいつも、こんな感じだ。俺達には理解できないことも、父上にはすべてわかっているのだ。

 俺としては、飛鳥に来られるだけでうれしいからな。喜んでついてきたのだ」

山背は無邪気に笑った。


 大郎はつられて笑ったが、パッと表情を変えた。真剣に考え込み、隣の白虎に目を向けた。

(そうだ。厩戸様なら……)

「山背。俺、厩戸様にお聞きしたい事があるんだ。一緒に上宮の屋敷に行ってもいいか?」

「……。 別に構わないが、父上は不在かもしれないぞ」

少し間をおいて答えた山背。笑顔は消えていた。

「それならそれでいいから。とりあえず、一緒に行かせてくれ」

山背は「ああ」と、小さな声でうなずいた。


 日が暮れて来た。雲の合間から夕焼け空がのぞき始めている。

 夕暮れと共にさらに冷え込んできた。吐く息が煙のようにはっきりとしている。

 草むらを分けるように作られた細い道。道の脇に生えている背の高い草が、腕や頬に突き刺さる。

 山背は足元を見ながら、一言も口を開かず歩いていた。

 

 途中、山背は突然足を止めた。何か言いたげに大郎の顔を見た。

 大郎も足を止めた。山背の表情がいつもと違う事に気づいた。しかしその時に山背の首にかけられた、首飾りが目に入った。

「山背。その首飾り。厩戸様の……」

「そうだ。父上がくださったんだ」

山背は大郎の言葉を遮る勢いで答えた。それまでの厳しい表情は一変し、自慢げな満足そうな顔になった。

「やっぱり。

 それ、すごいよね。勾玉の粒が大きいし、濃緑の石ばかりだ。厩戸様がつけていた時から、すばらしい品だって思っていたんだ」

大郎は純粋にうらやんだ。

「これは、父上が特別に作らせたものだそうだ。

 先日、父上自ら、俺の首にかけて下さったのだ」

その時を思い出しているのか、山背は愛おしそうに首飾りに触れ、微笑んだ。


 大郎も自然と笑顔になった。ついさっきの山背の変化は、忘れてしまった。

再びゆっくりと歩き出した時、道の先に青龍の頭が見えた。

「あっ。厩戸様だ」

大郎は大きな声をあげた。

「えっ? 誰もいないぞ」

山背は怪訝そうに正面を見た。

(しまった。青龍が見えてしまったから、思わず声にだしちゃった。

 確かに、ここからじゃ、厩戸様は見えないや。どうしよう)

普段、青龍の尾はとぐろを巻いている。そのため厩戸の身長と同じくらいの高さだ。しかし今日の青龍は体をまっすぐに伸ばしていた。厩戸の倍ほども高かった。そして空に向かって大きな口を開けたり、体をくねらせたりしている。

 そのため厩戸が視界に入る前に、青龍の姿が見えたのだった。


 大郎は救いを求めるように、白虎に目を向けた。しかし白虎は大郎の視線には気が付かない。正面にいる青龍に向かって、声をあげる仕草をしていた。

「俺……、俺、目が良いんだ。だから見えたんだ。厩戸様だ」

大郎はしどろもどろだ。

「俺だって、遠くまで良く見える。

絶対に父上の姿は見えない」

二人が言い争っているうちに、前方から歩いてくる人の姿が見えてきた。そしてその人物がはっきりとしてきた。

「ち、父上……」

山背の声は震えた。

(あんな所から、絶対に見えるはずはない。

 大郎。お前、まさか、父上と同じような不思議な力を持っているのか?)

山背は立ち止まって、大郎の顔をじっと見つめた。


「大郎。久しぶりだね。

 大郎もわかったと、思っていたよ」

厩戸は優しく語りかけた。

「えっ。俺、なんにもわからないんです。だから厩戸様にお聞きしたい事があるんです」

大郎は戸惑いながら言った。厩戸は大郎の顔を、優しい目で見つめた。

「わかった。

 まずは、耳成山に行こうか。まだ、間に合う」

「はい。やっぱり耳成山なのですね」

大郎の返事に、厩戸は満足そうにうなずいた。


 山背は二人の会話の意味が分からず、キョトンとしていた。

 厩戸は山背を見ると、小さく2回うなずいた。

「山背。お前がいてくれて、よかった。刀自古に伝言を頼む。

 私はこれから大郎と出かけて来る。遅くなるかもしれないが、心配しないでくれ。

 そうだ。大郎は上宮の家に泊まってもらおう。泊まりの準備も刀自古にお願いしておくれ。

 それから、嶋の家に使いをやってくれ。大郎は今日、私の家に泊まると。毛人殿に心配しないようにと、伝えてくれ」

(大郎と父上は出かけるくせに、俺は行けないのか! 俺は、行ってはならないという事か!)

山背の顔が一瞬で赤くなった。

「山背。いつも言っているだろう。お前は感情がすぐに顔に出ると。気をつけなさい。

 私の指示はわかったね。頼んだよ」

厩戸の声は厳しかった。

「はい。わかりました」

山背は厩戸に頭をさげた。

 そして顔を上げ、大郎の顔を一瞬にらみ付けた。そしてプイッと顔を背けると、足早にその場を走り去った。


「山背」

大郎は友の名を呼んだが、その声は山背には届かなかった。

「大郎が気にすることはない。

 ほら、間に合わないと悪い。早く行こう。出産はいつ終わるかわからないからね」

「ええっ? お産に立ち会うのですか?」

「ははは」

厩戸は声をあげて笑った。大郎はこんなに明るく笑う厩戸を初めて見た。

「違うよ。ほら、よく考えてごらん。耳成山には何が眠っている?」

「はい。玄武です」

「そうだね。そして、前に話しただろう。

 白虎は蘇我の家に。朱雀は物部。青龍は天照(あまてらす)様の血が流れる者の所にやって来る。

 では、中臣には……」

「玄武!」

大郎は自分の大きな声に、驚いた。その姿も厩戸はほほえましく見ていた。

「そうだ。これから玄武の主が産まれるはずだ」

「あ、あのっ。きららが、朝から変なんです。落ち着きがないっていうか、いつもと全然違うんです。

 青龍もそうですよね。いつもと違って、よく動いていますよね。

 これって、関係あるんでしょうか」

「もちろん。

 さぁ。玄武に会いに行こう」

厩戸は大郎の背中に手をまわし、軽く押した。そして二人は並んで歩き始めた。


「私は過去に何回か、このような青龍を見たことがある。

 その昔。玄武と朱雀が飛鳥に帰る時。そして18年前、物部雄君が産まれる時。そして10年前。お前が産まれる時だ」

「えっ。俺ですか」

「そう。大郎が産まれ、きららが畝傍の山からやって来る時だ。

 大郎が産まれる時の事、私ははっきりと覚えているよ」

厩戸は遠い目をして、空を見上げた。そしてゆっくりとした口調で話し始めた。

「その日、突然に青龍がざわつき始めたんだ。

 毛人殿に子供が産まれるのは知っていたから、もしかすると白虎の主が産まれるかもしれないと思ったんだ。

 しかし、私が聞いていた産み月より、ふた月も早かった。まだ8か月にもなっていなかったはずだ」

「はい。俺は、早く産まれたと、父上から聞いています。

 そのせいでものすごく小さな赤ん坊だったそうです。産まれてすぐは息をしていなくて、このまま死んでしまうかもしれないと、皆を心配させたそうです」

「そうだったね。

 四神は他の神獣が目覚める時、つまり主となる者が産まれる時に、歓迎の気持ちを表す。そして神の元に帰る時、つまり主が亡くなる時は、声をあげて弔いをすると言われている。

 

 四神が騒ぐということは、四神の主が産まれるか、亡くなるかのどちらかなのだ。


 お前が生まれる前、飛鳥に朱雀と青龍しかいなかった。玄武を従える中臣の家に、子供が産まれる予定はなかったし。

 まだ10歳にもならない、健康だった雄君が亡くなるとは考えにくい。

 そうすると、時期は早いが、白虎の主が産まれるとしか考えられなかった。

 それならば、そんなに早く産まれて、子供は大丈夫なのかと、心配になってね。私は夕刻になろうというのに、嶋の蘇我の邸宅に向かったのだ。

 

 蘇我の家はあわただしかった。祈祷師(きとうし)薬師(くすし)が次々に家に入って行った。心配した通り、出産が始まってしまったのだ。

 私は一晩中、外で祈ったよ。しかし、とても寒い日でね。凍り付くかと思った。

 長かった夜が明けようとした時。西から白い光が蘇我の家に向かって伸びてきた。そして、その光の上を白虎が走って来て、家の中に入って行った。

 私は子供は無事に産まれたのだと、確信した。心底ほっとしたよ。

 その後、すぐに太陽が昇ったのだけど、あんなにきれいな夜明けを、私は見たことがなかった」

「ありがとうございます!」

厩戸の話を遮り。大郎が大きな声でお礼をいった。

「ん?」

厩戸は小さく聞き返した。

「あの、俺が、産まれる時に、厩戸様がそんなに心配してくださって。それにずっとそばにいて下さったなんて……。 それがとてもうれしかったんです」

厩戸は大郎の頭をくしゃくしゃとなでた。


「四神はね、それぞれ眠っている場所から、産まれた主の元に駆けつけるのだ。

 玄武は今、耳成山に眠っている。主が産まれると、耳成山から主の元に向かうだろう。

 耳成山の近くにいれば。きっと玄武を見る事ができる。

 それで、大郎を耳成山に誘ったのだ」

厩戸の話がひと段落ついた頃、二人は耳成山の裾野まで見える所まで来ていた。


 山の稜線の茜色が、徐々に夕闇に浸食されていく。厩戸は持って来た松明(たいまつ)に火を灯した。

 明かりが灯ったその瞬間。周囲が闇に覆われた。そして、暗闇の中で、白虎は白く、青龍は青く光った。


 白虎と青龍が同じ方向を向き、同時に咆哮する体勢をとった。

 2匹が向いている方向から、黒い物体が現れた。

「あれが、玄武だよ」

厩戸は懐かしそうに眼を細めた。

 巨大な亀だった。それは、飛鳥にいる亀より長い手足を持っていた。その亀の上に蛇が浮かんでいた。

 玄武はゆっくりと黒い光の上を進む。

 大郎は呆然と玄武を目で追うだけだった。


 玄武は大郎たちのそばを通りすぎて行った。

 玄武の背後を見送る大郎。玄武から目が離せなかった。

 すると、突然玄武に変化が起きた。亀と蛇が分離したのだ。そして蛇はまっすぐに道を進み、亀は途中で光の道から降りた。

「なんと! 玄武が分かれた!」

厩戸が叫んだ。その大きな声に、大郎はびくっと反射的に動いた。しかしその後も、身動きせず、声を発することもできなかった。

 蛇が見えなくなるまで。大郎は見送った。


 それからほどなく、光の道は消えた。辺りに、いつもの夕暮れの景色が戻ってきた。

「玄武の主が産まれた」

厩戸がつぶやいた。

「……。 しかし、なぜ、玄武は別れたのだ。

 いや、待て。今、玄武が現れた時、蛇は亀に絡みついていなかった。

 あの時、亀と蛇が分かれたのが、何か意味があるのか……」

厩戸は一人、考えにふけった。


 大郎はへなへなと、地面に座り込んだ。厩戸は大郎に手を差し伸べた。

「大丈夫かい」

大郎は厩戸の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。膝ががくがくと震えていた。

「玄武の主が産まれたのですね」

「そうだ。玄武が飛鳥にやって来たということは、無事、主が産まれたという事」

「そうなのか。よかった」

大郎の震えは少しずつ治まってきた。


 そこへ白虎がすり寄ってきた。大郎は白虎に視線を向けた。白虎は穏やかな表情で大郎を見つめた。

「きらら。いつものきららだ」

大郎は白虎に抱きついた。

「大郎も大丈夫かな。

 では、上宮に行こうか。そこで詳しい話をしよう」

厩戸は大郎の肩を抱き、歩き始めた。


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