亀石の伝説
推古27年
この年の夏は猛暑だった。
大郎は必死に走っていた。顔には汗が流れてきた。
(今日もあつくなりそうだなぁ)
大郎は天を見上げた。足が止まりかけた。
陽はまだ昇り始めたところ。それでも大郎は顔に当たる陽の光がじりじりと熱く感じた。
(いや。こんなのんきな事、していられない。急がないと)
大郎は思い直して、また走り始めた。
「大郎」
途中で呼び止められた。わき道から厩戸が歩いてきた。いつものように、優しくほほ笑んでいる。
(厩戸様が笑うと、不思議な感じがする)
大郎は今日もその笑みを見て思った。
口角を少しだけ上げ、目を細める。そして大郎の目を、まっすぐに見つめてくれる。
「おはようございます。厩戸様。
青龍もおはよう」
大郎は厩戸の隣にいる青龍にも、明るく挨拶をした。
厩戸皇子は四神のひとつ、青龍を従えていた。
厩戸は機会ある毎に、大郎に四神の事を教えてくれる。大郎が白虎に戸惑わずにいられるのも、厩戸の教えあっての事だった。
「ああ。おはよう。
大郎はいつも青龍に挨拶してくれるんだね。うれしいよ」
厩戸はさらに目を細めた。大郎は「いえ」と言って、満面の笑顔を返した。
「随分と急いでいるようだね」
「はいっ。そうだ。今日から亀当番なんです。寝坊してしまって……」
「それは大変だ。呼び止めて悪かったね。
よし、それじゃあ、そこまで一緒に歩こうか」
厩戸は川沿いの細い道を、大郎と並んで歩き始めた。
川は亀石まで続いている。
亀当番。
亀石の見張りをする仕事の事。亀石は野口の地に、ポツンと置かれている岩である。
今、南西を向いている亀石が西を向くと、飛鳥が水没するという言い伝えがある。
亀当番の仕事は、亀石が西を向いたらすぐに銅鑼を鳴らす事。亀石が西を向いたことを村中に知らせる役目だった。
亀石の隣には見張り小屋がある。当番はそこで1週間、寝泊りをする。そして決まった時間に、亀石を確認する。食事は野口の住民が届けてくれる事になっていた。
当番になるのは役人や豪族の子供。成人するまで、役目は順番に回ってくる。この役目が全うできない者は、将来の出世が遠のく。子供たちにとって、家のために断る事ができない役目なのだ。
「厩戸様。
亀石が西を向くと飛鳥が水没するって、本当の事なのでしょうか」
大郎は普段から疑問に思っていた事を、ちょうど良いとばかりに尋ねた。
「うーむ。亀石はこれまで動いた事がないからね。私には嘘とも真実とも答えることはできないな。
しかし、ここ飛鳥は人と神獣が共に生きている特別な地だ。
ほら、四神は飛鳥を守る事が役目だが、それすら伝説と言われてしまっている。四神の見えない人々にとっては、単なる昔話だ。そう、すでに四神の事は忘れ去られている。
しかし、私たちにとっては現実であり真実だ」
厩戸は大郎の目を見つめた。大郎は大きくうなずいた。
「だからね。亀石の伝説だって、ただのお話だと言い切ることはできないだろう。事が起きてからでは遅いのだ。
飛鳥を守るための、大切な役目だと思っている」
「そうですね。確かに亀石には何かある感じもします。
俺、一生懸命役目を果たします」
大郎は晴れ晴れとした顔で答えた。
「大郎はいつも元気だね」
厩戸は大郎を愛おしそうに見た。
「そうですか。刀自古の叔母上にも言われました。
なぁ、きらら」
「大郎は四神に名前を付けているのだよね。
私の知る四神の主で、四神に名前を付けている者はいなかった。
私もそうだ。名前をつけるなど、考えた事もなかったよ」
「そうなんですか」
大郎は意外そうな表情をした。
「じゃあ、朱雀の物部雄君様もそうなんですか。俺は話をしたことはないのですが」
「そうだろうね。
彼は朱雀と話をするなど、考えたこともないだろうね。
いつもそばにいる朱雀を疎ましく思っているくらいなのだから」
「疎ましく思う?」
大郎は首を傾げた。
「つまり、朱雀が邪魔だって思っているのだよ」
「朱雀が嫌いってことですか?」
「おそらくね」
厩戸は諦めているように見える。
「そんな……」
四神の事を大切に思う大郎には、信じがたい感情だった。
不意に厩戸が立ち止まり、苦しそうに胸をおさえた。かがみ込んで、激しく咳き込む。
「厩戸様!」
大郎は駆け寄り、厩戸の背中をさすった。
「大丈夫ですか。俺が、速く歩いたから……」
「いや。大丈夫」
厩戸は大きく息を吸い込み、呼吸を整えようとした。
「大丈夫だから、心配しないで。
私の、方こそ、悪かった。大郎は急いでいたのに」
「俺の事なんか、気にしないでください。
青龍も心配しています」
厩戸は顔を上げ、大郎の顔をじっと見つめた。
「大郎。お前は青龍の表情もわかるのか?」
「あ。はい。青龍が心配そうに厩戸様の事、見ているから」
「お前には、本当に驚かされる。
自分が従えているわけでない四神の事までわかるとは。
私にはきららの事はもちろん、青龍の表情や気持ちもわからないのだ」
厩戸は何回か深呼吸を繰り返すと、ゆっくりと立ち上がった。
「厩戸様。どうか、無理をなさらないで下さい。
お顔の色も悪いし、それにお痩せになったように見えます。
お忙しいとは思いますが、どうか休んで下さい」
(こんな事。子供の俺が言うと、失礼に当たるのかな)
大郎はそう言ってから、憂慮した。
「ありがとう。でもね、私には、今、どうしてもやらなければならない事があるのだ」
厩戸は気にしていない様子。
「歴史書ですか?」
「そうだ。国記と天皇記は、必ず完成させなくてはならない。
大和の歴史を後世に伝えるために。
しかも正しい歴史を残すためには、一片の間違いもあってはならないのだ。
時間のかかる作業だが、馬子殿、お前のおじい様も一生懸命やってくださっている。
しかし、これは古代から伝わる四神を授かった、私の使命だと思っている。命を懸けて成し遂げようと、誓っているのだ」
厩戸の強い意志を聞かされた大郎は、何も言えなくなってしまった。
「大郎。お前はいくつになった?」
「9つです」
「9歳か。そろそろお前に話しておきたい事がある。
お前は賢くて、人の心のわかる優しい子だ。私の話もしっかり理解できるだろう」
「あ、ありがとうございます。
何をお話しくださるのでしょうか」
「四神の事、飛鳥の事。そして大郎が、四神の主が知るべき事だ。
……、 私が、話せるうちに」
最後の言葉はあまりにかすかで、大郎には聞き取れなかった。
厩戸はいつもの笑みを大郎に向けた。
「急いでいるのに、悪かったね。
また、ゆっくり話ができる時を楽しみにしているよ。
私はここで失礼するよ。ほら、大郎も急いで」
厩戸は大郎の頭をなでた。
「本当に、大丈夫なのですね」
「ああ、心配ない」
厩戸の普段と変わらぬ笑顔を見て、大郎は安心した。
「はい。では、失礼します。青龍。厩戸様を頼んだよ」
青龍に話しかけると、大郎は一礼し駆け出した。
厩戸は大郎の背中が見えなくなるまで見送った。
白虎は振り返った。
『青龍の主。彼の命に、かげりが見える。
まだ逝くでない。大郎には、まだおぬしが必要なのだ』
7日間の亀当番は、何事もなく終わった。
大郎はその後、まっすぐに家には帰らず、飛鳥川の上流に向かった。
「加夜の所に行くのは久しぶりだね」
加夜奈留美命神社までの急な坂道も、大郎の足取りは軽やかだった。
鳥居をくぐると、加夜奈留美命が立っていた。
「加夜。待っていてくれたの? 今日も、俺が来ること、わかっていたんだね」
加夜は穏やかにほほ笑んだ。
大郎と加夜は飛鳥川の見える所に、並んで腰かけた。
大郎は一人で話し続けた。厩戸の事、亀石の事、馬子や刀自古、家族の事。話は尽きなかった。加夜は大郎の顔を、じっと見つめていた。
大郎は加夜の視線を感じ、話を止めた。ふっと加夜に目を向けた。加夜と視線が合う。
大郎は加夜の瞳に捕らえられた。加夜から目を離す事ができなかった。
(息が苦しい)
大郎は拳を胸に当てた。激しい動悸に耐えられなくなった。やっとの思いで、加夜から視線を逸らせた。
大郎は目を閉じ、深呼吸を繰り返した。しかし、心臓の激しい鼓動は止まらなかった。
大郎は加夜の手を握りたくなった。加夜の手に触れる事はできないとわかっていても、加夜に手を伸ばし、手を重ねた。手に触れた感触はないが、清浄な気が流れ込んでくるようだった。
(このまま、ずっと、二人でいられたらいいのにな)
大郎は飛鳥川の流れをじっと見つめていた。
『我の事など、忘れておる』
白虎もぼんやりと飛鳥川を見つめるしかなかった。