伝飛鳥板蓋宮跡
「次は、“伝飛鳥板蓋宮跡”な。明日香村役場の近くや」
「ほな、すぐそこやな」
運転手の仁子はカーナビの地図を確認した。
「お二人さんはええの? なんもないとこやで」
仁子が気を使ってか、確認してくれた。
「大丈夫です。
俺、中臣とか蘇我とか。なんか気になるんです」
「そんなら、良かった。
確かにな、ここ何もないとこやけど、歴史的には重要なとこなんやで。
橘寺のあとは、“石舞台古墳”に行く人が多いらしいんやけど、ここははずせないと思うんよ」
かおりは力説した。
「大化の改新は知っとるやろ」
「あっ。はい。蘇我入鹿が殺されたってやつですよね」
「そやそや。なんや。サトルくんも、歴史の事知っとるやんか。
ってか、T大生やもんな。今まで、知識、隠しとったんと違うか」
「いいえ。大化の改新は、さっき、パンフレットで知ったばかりです」
「さよか」
かおりは明らかにがっかりとしていた。
「なぁ。この辺やと思うんやけど。駐車場が、見当たらん」
運転手の仁子が一旦車を停止させた。
橘寺から本当に近かった。あっという間に着いてしまった。
「そこに、幅寄せしとくしかないやろ。あんまり人も入って来ないみたいやし。はよ降りて、はよ見てこ」
5人は車を降り、おばちゃん3人組は走って伝飛鳥板蓋宮跡に向かった。サトルとキミは3人を見失わない程度に、歩いて後に続いた。
広々とした、のどかな風景が広がっている。そこにあるのは、草むらと、今は何も植えられていない田んぼ。
「これや、これ」
かおりは、すっかりはしゃいでいる。そこには石畳しかない。
「あそこ。石が敷いてあるだけですよね」
のんびりと後から来たサトル。なにがそんなに興奮する要因なのか、さっぱりわからなかった。
石畳は車庫くらいの広さしかなかった。
石と石の隙間から、ポツポツと草が伸びている。
「ここが、乙巳の変の起きた場所。ここに、朝廷があったんや。
大化の改新は、ここから始まったんや」
かおりはぐるっと一回りして、360度の景色を見渡した。
(あっ。“いっしのへん”って、読むんだ。おつみじゃないのね)
キミは心の中でつぶやいた。
「って事は、ここで蘇我入鹿が、中臣鎌足と中大兄皇子に殺された場所なんですね」
サトルはぐるっと周囲を見渡した。その途中で、はたと気が付いた。
「えっ? ってことは、ここ、殺人現場って事ですよね」
サトルが浮かない表情になった。
「怨念が漂っているんじゃないですか。なんか、いるような気がして来た。背中がザワザワするんですけど。
俺、こういう話、弱いんですよね」
「そう? 他人には見えない、不気味なものがいつも隣にいるのに。
これって、ある意味、幽霊とかおばけみたいなものじゃない」
「カービィは幽霊じゃありません」
「いや。幽霊になっても、おかしないねん」
「うわっ!」
サトルはそれこそ幽霊が出てきたのかと思うほど、驚愕の声をあげた。
「なんや。そないにびっくりせんでも、ええやんか」
(この人たち。ふってわいた様に、話に割り込んでくるなぁ。
カービィとか言ったの、聞こえてないだろうな)
サトルは突然声をかけられた驚きと、内緒の話を聞かれていないかという不安で、激しい動悸がしてきた。
「いやな、幽霊って聞こえたから、入鹿と幽霊の事を聞かせよう思っただけやのに」
(その前の会話は聞こえていない)
サトルはそう確信し、ホッとした。
「すみませんでした。
じゃ、やっぱ、入鹿の幽霊って出るんですか」
「見た人ってのは、聞いた事ないけどな。でもな、そうなっても、おかしないんよ」
かおりは声を低くし、不気味さを演出した。
「 ほら、入鹿って、ものすご、悪人の様に言われよるやんか」
「えっ。悪人なんやろ?天皇の事ないがしろにして、実権握って、自分たちの思うままにしとったって。天皇も暗殺したんやろ?」
「それは、馬子。入鹿のじいさんのやった事や」
朋子の発言にチェックが入った。
「蘇我氏がやったんやから、おんなじやろ」
「でも、あの、えっと、おーこさん?」
サトルはおばちゃん達の名前を覚えていなかった。彼女達が呼び合っている、あだ名でなんとか区別をつけていた。
「おーこさんって、初めて言われたわ。そやな。おーこちゃんなんて、このおばちゃんに向かって、言えへんな」
3人は一斉に笑った。
キミが助け舟を出してくれる。
「サトルくん。かおりさんよ。たしか」
「あっ。ありがとうございます。
あの。かおりさん、さっき、入鹿は悪人の様に言われてるって、確かそう言いましたよね。
って事は、実は入鹿は悪人じゃなかったって、言いたいんですか?」
「その通り。さすがT大生やな」
「だから、それ、T大生関係ないですよね」
サトルはため息をつく。
「そう、入鹿は意図的に、悪人に仕立てあげられたってのが、最近の研究で分かってきたことなんよ」
「悪い人でなかったのに、悪人に仕立て上げられて、そして殺されて。それだけでも、恨んでしまいますよね。
そのうえ、こんなのちの時代まで、悪人として位置づけられてちゃ、化けて出てきてもおかしくないですよね」
「そう。入鹿は死ぬ時、怨念になったって話。そういう伝説もあるんよ」
「やっぱり」
「入鹿は中大兄皇子に、首をちょん切られたんやけど。その首がな、空、飛んだんやって。
そんでもって、その首な、ずっと向こうの“飛鳥寺”まで、飛んでったという話や。
ほら、飛鳥寺ってあそこや」
そう言って、かおりは北の方角を指差した。
田んぼが途切れる、はるか先の所に、一列に並んでいる木々がある。その木の葉の隙間に、大きな屋根の建物が見えている。
それが飛鳥寺らしい。
「あんなとこまでか? 話半分やな」
仁子は目を細めて見ている。
「大化の改新の事描かれた絵では、入鹿の首が飛んだって、大騒ぎになっとる。
そこにおった人たちは、入鹿が祟ってくるって恐れたんや。そんで、飛んでった入鹿の首を埋めて、“入鹿の首塚”建てて、供養したんやって。
それ、飛鳥寺のすぐ近くにあるんや」
サトルは飛鳥寺の方をじっと見つめた。見えるはずのない、首塚を探すように。
「ほら、飛鳥寺の左側に、小山があるやんか。あれ、たぶん“甘樫丘”や。一番手前の小山」
かおりの言葉に、皆が一斉に左を向いた。
なだらかな、木に覆われた丘が見えた。
かおりはバッグの中から、雑誌サイズの薄い本を取り出した。ペラペラと本をめくると、その本と景色を見比べた。
「そやそや。あれは甘樫丘。
で、その右隣の頂上だけちょこっと出ているのが、たぶん“耳成山”
その隣が“天香久山”。
で、西の方に、見えんけど、“畝傍山”ってのがあるん」
かおりは見えない山を探すかのように、背伸びをしながら遠くを見つめた。
「サトルくんたち、近鉄線で来たんか?」
「はい。そうですね」
「じゃあ、橿原神宮前駅って通ったやろ。
その近くにな、橿原神宮ってあってな、畝傍山ってのはその隣にあるんや」
「そうなんですか。気が付かなかったです」
(ってか、あの時、俺、カービィがでかくなった事で頭いっぱいだったからな。景色なんて、何にも覚えていないや)
「そうか。じゃ、帰りに見て行ってな。
その畝傍山と耳成山、天香久山。この3つを、“飛鳥三山”っていうんやって」
「で、入鹿の悪人否定について話を戻すとな」
かおりはサトルに顔を近づけて、話し始めた。
「まずな、あの甘樫丘に入鹿が家を建てたんが、悪いってことになっとる。
ここの宮には天皇が住んでおったんや。それなのに、あの丘の上に蘇我の家があると、蘇我が天皇を見下ろしているって。そういう言われ方したんよ。
でもな、あそこに家を建てたんは、飛鳥を守るためやったって事がわかったんや。
これな、〇HKで放送されたんや。だから確かな話やで」
「国営放送に全幅の信頼ですね」
サトルはキミにしか聞こえない程の声でささやいた。
「次な。
蘇我の娘を天皇に嫁がせて、それで朝廷を自分の物のようにしたって事。
これもな、蘇我が働いた悪事って言われとるけど。
でも、力のある豪族は、競って天皇に娘を嫁がせておったんや。みんな同じことしとったわけで、蘇我だけがやっとったわけやない。
俗に言う、政略結婚やろ。そんなん、今の時代でもあんねん」
かおりは一呼吸おいた。
「おーこちゃん。すっごい語るなぁ。
うちら、おーこちゃんのこと、語り部って呼ばせてもらうわ」
朋子が冗談交じりに言った。
「ほなら、まだまだ語らせてもらうで。
次。
上宮家の話。上宮家ってってのは、聖徳太子の一族の事な。
入鹿は聖徳太子の子供の、山背大兄王を殺して、上宮家を滅ぼしたって言われとる。
これも、入鹿が殺される理由にもなったんやけどな」
「って事は、それもえん罪ってことですか」
サトルがすかさず問いかけた。
「と、思うやろけど。これはな、もしかしたら入鹿は、関わっとったのかもしれんねや」
「ガクっ」
「おーこちゃん、どういう事?」
仁子と朋子から、つっこみが入る。
「入鹿が1人で上宮家の事を、滅ぼしたんと違うんやって。
中大兄皇子とか鎌足も、上宮家滅亡には、一役買っていたらしいで」
「何、それ? だって、入鹿が上宮家滅ぼしたからって、入鹿は殺されたわけやろ。はめられたんか?」
「えげつな」
「もしかすると、その話。さっき言っていた、聖徳太子はいなかったかもしれない、って話につながるんですか」
「さっすがT大生。すごいな。正解や」
「いや。だから、それ関係ないでしょ」
サトルのツッコミは軽く無視された。
「入鹿が滅ぼしたって言われとる、上宮家や。
その創設者である聖徳太子が、ものすご立派な人だとしたら。それを滅ぼした入鹿は、えらい悪人やんか」
「まさかそのために、厩戸という人が作られたって事?
そんなん、うち、いややわぁ」
「それは、一説にすぎん。
一方では、聖徳太子はごく普通のおっさんやったって説もあるで」
「ええーー! そっちの方がいやや。
うちの中では厩戸は超イケメンで、頭キレッキレで、ミステリアスな人なんやけど」
厩戸推しの仁子には納得できないらしい。
「いっちゃ。漫画の影響受けすぎや。
まぁ、普通のおっさんってのも、一つの説や。
1400年も昔の話や。ホンマの事はもう、わからんやろ。
でも、現代の技術で新事実がわかったり、発掘がすすんだりで、いろんなことがわかってくる。それを元に、いろんな想像ができるんや。
それが、古代史の楽しみでもあるって、思うで」
「そやね。それがおーこちゃんが、よう言う、古代のロマンってやつやな」
「でな、大事なんが、この大化の改新の事が書かれている、日本書紀の事や。
この本を中心になって編集したんは、藤原不比等なん。
この人、鎌足の子供やろ」
「そうなんですか」
3人の中では常識なのか、驚きの声をあげたのはサトルだけだった。
「そやねん。不比等は、日本書紀を使って、父親のした事を正当化しようとしたん。歴史の改ざんやな」
「もしかして、鎌足と中大兄皇子は、入鹿が邪魔だったとか、そんな感じですか。
それで入鹿殺して、政権握って、ついでに、入鹿の事を悪者に仕立てあげて、自分たちのやった事は、正しかったんだって、そういうストーリーですか」
サトルは徐々に興奮していった。
「すっごい。さすがT大生」
「だから……」
サトルは反論する気も失せてきた。
「中大兄皇子は後の天智天皇や。
中臣鎌足は天智天皇のブレインになって、えらい出世したんや。
そんでな、藤原の姓をもろて、藤原氏を繁栄させたんや」
「藤原氏って、あの藤原氏?」
(なんの藤原氏だ?)
朋子の返事に、サトルは目をぱちぱちとさせるしかなかった。
「そう。平安時代に黄金時代を築いた藤原氏や。
藤原道長って、聞いたことあらへん?」
「ああ、なんか、聞いた事あるような。源氏物語の頃の人ですよね」
答えたのはキミだった。
「そうそう。
藤原氏は、平安時代に摂政になって、朝廷の実権握っとったんや。
自分の娘を天皇に嫁がせて、自分たちの都合のいいように政治を行ったん」
「なんすか。それ。
蘇我氏とおんなじ事しているんじゃないですか。
祖先がそれを理由に人を殺しながら、子孫は、同じ事しているって、非常に納得できないんですけど」
サトルが言うと、かおりは満足そうにうなずいた。
「そやろ。
挙句にな、道長は、“この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることのなきと思えば” なんて歌まで詠んだんや」
「これ、うちも覚えとる。
この世の中は、俺の物で、満月が欠ける事がないと同じで、永遠に続くのだって、言っとるん」
「ひどい、話ですね」
サトルは唇をかんでいた。
すっかり、かおりの歴史談義に引き込まれていた。
「あとな、あんまり知られとらん話、させてもらってええか。
不比等によるの改ざんは、まだあるん。
名前の改ざんや」
「これも、入鹿か。入鹿の名前変えたんか」
「そうや。
入鹿のじいちゃんって、知っとるやろ」
「馬子や」
仁子がパッと答えた。
「そう。その馬子も、飛鳥の時代の権力者や。
その有名な馬子の孫が、入鹿。馬と鹿じゃ、馬鹿になってしまうやんか。
馬鹿にするにも、程があるって話や」
「うまい」
朋子が親指を立てた。
「じゃあ、入鹿の本当の名前って、わかっているんですか?」
サトルが真剣な顔で聞いた。
「たろう」
「えっ?」
「大郎や」
サトルは息を止めた。そして、記憶の糸を必死でたぐり寄せた。
(確か、亀石のところで幻を見た時。火傷している男の人のこと、『たろうさま』と、呼んでいた)
「たろう……」
サトルの声は震えていた。声だけでなく、体にも振戦が起きた。視線は一点に固定され、瞬きもしなかった。
「どうかしたの? サトルくん」
キミはサトルの様子が違っている事に気が付いた。心配そうに、サトルのダウンジャケットの袖をつかんだ。
サトルの変化に気が付いたのは、キミだけだった。かおりは話を続けた。
「正式にはな、蘇我大郎鞍作っていうんや」
「蘇我、大郎、鞍作」
サトルはその名を、ゆっくりと噛みしめるように声にした。